「選挙って行った方がいいの」の話 (original) (raw)
はっきり言えば、選挙に行こうと叫ぶ人たちは、投票率があまりに低いと困る人達とその関係者だけで多くの人は選挙に期待などしていないという事を明確にする必要があります。ですから、無投票がどんどん増えている事は報道でも証明されています。更なる理由として、当選する人の獲得数を見てみればわかります。投票率は40%をほとんど超えませんから、固定票と浮動票を並べたときには固定票を持っている人が受かり持っていない人は落ちるという事です。そして、選挙は多数決という曖昧な正義で、少数である人が権力を握れる方式でもあるのです。つまり、多数決と言うなら議会での議決権も投票数に応じて議員に付与されれば意味ありますが、議会では得票数が多かろうと少なかろうと議員としては1票なのです。市議会選挙程度なら1000票程度でなった議員も、3000票の議員も権限は実は変わらないのです。だから、受かる程度の固定票があれば、威張っていられるのです。1000票の固定票の利益の為に議員として活動していても選挙で落選する心配はないのです。国会議員の場合はもっと格差が大きくて何万票との格差があっても議員としての権利は同じで大した票が無くても議決権は1票なのです。民主主義は多数決で決まるかと言うと、そうではなくて有権者の中から選ばれた代表者同志の多数決で決めると言う方式ですから、選挙と言うろ過機を通して、みんなの意見とは違った結論が出ることが当然な仕組みになっているのです。今日の選挙の多くは民主主義による多数決と言う方式で、選挙によって多数の意見が集約されているように装っていますが、実際は少数者の意見が通るように出来ているのです。この仕組みが分かっていないと、何回選挙に行ったって自分の投票に効果があったなんて実感する事などありません。どんなに選挙公報を読んで、人物評価をしても、所詮浮動票と評される一票なんて片隅にさえ存在意味がありません。それまで政治なんて全く関心がないのに選挙が近づいてから、立候補者を見て誰にしようかと検討したところで、既に決まっているところは決まっているし、競り合ったとしても組織対組織の戦いに巻き込まれるだけで、何の効果もないのです。その原因は、多数決で代表を選ぶ方式にもあるのですが、選挙権ある人の半数が権利を行使しない風潮だからでもあるのです。選挙に行かない浮動票の人は、選挙に何回か行って自分が投票した人が勝ったためしがなかったから行かなくなる場合が多いのです。選挙権と言うのは、権利の行使ではありますが実は責任は一切問われないと言う匿名性の最たるものなのです。ですから、あなたが選んだ議員が、わいろを取ろうと私腹を肥やそうと本人が責任を取って辞めるという事があっても投票した人が責任を問われる事はありません。まして誰が投票したかは全く秘密ですから、こんな無責任な権利の行為は他にないのです。利益ある人たちが利益の為に組織を作り固定票をお金で買っていたとしても、その利益と投票を証明することなど絶対に証明できないのですから、組織にも関与していない人が人物本位に選びましたなんてことは全く影響ないのです。本来なら、一票の重みを語る前に無責任な一票であることを語るべきなのです。無記名投票である人気知名度投票形式で、選ばれた人が何をするかも分からないままに全権委任する形が今の投票制度で、民主主義の裏社会でもあります。民主主義と言えるのは、選挙と言う方法は、権力に期限を付けているだけなのです。選挙速報でどうして10%程度の開票率で当選の確立が出てくるのかのカラクリはここにあるのです。つまり、100人の有権者がいても、最近の投票率では40%程度ですから、その組織の支持率が30%あるとしたならこの人たちは全員選挙に行きますから30票が獲得でき当選なのです。組織票はいかなければ組織に叱られますから確実な人数です。仮に20%しか組織票がなければ、3人以上立候補していれば40人中20人確保できていますから確実です。2人しか立候補していなければ、何とか1人浮動票を獲得すれば僅差で勝利です。結局、今の日本では、有権者の20%以上の確保が出来る組織票があればその組織の候補者が当選し、他の候補者を投票した人は選挙権は行使できても権力からは単に遠いと言うだけの事なのです。権力者を決める権利は無記名なネット投票と変わらないという事です。誰もその権力者を選んだ責任はないという事です。清き一票と言う選挙の幻想を延々と受けた挙句に現実に打ちのめされるのを何度か繰り返せば選挙への無力感が生まれるのは当然です。多数決で代表を決めるなら少なくとも、有権者の半数以上が参加しなければやり直しとする規定が必要です。それがないなら組織に関与していないなら、選挙に行ってもいい事はありません。