shikounoseiriの日記 (original) (raw)

小沢一郎が自らの失策により、力を失っていくのが羽田孜内閣である。

細川政権の退陣後、新生党代表幹事の小沢は水面下で自民党の元副総理の渡辺美智雄を担ごうとする。「仲間を引き連れて自民党を出てくれ」。一方、細川護熙が代表を務め日本新党新党さきがけとの統一会派を解消。ただ、さきがけの武村と社会党の村山が細川が新たに作った会派「改革」に反発した。

一方自民党は、さきがけ、社会党民社党との連立を模索しはじめる。竹下登は小沢と羽田が実は近くないことを知っており、「隠れ竹下派」として羽田を次期首相候補に推そうとうごく。

小沢は渡辺から首相に立つとの返事がなかったことから渡辺の首班指名は立ち消えになった。このとき石破は新生党に入党する。

羽田内閣は少数与党政権として誕生する。羽田は細川が先送りにした1994年度の予算案を成立させることが最大の課題となった。少数与党のために、自民党から国会でスキャンダルなどで追及が続き、羽田内閣は防戦一方になる。

自民党は小沢と協力する公明党にも揺さぶりをかける。それが亀井静香だった。亀井は公明党政教分離に反していると攻撃。池田大作の証人喚問を要求した。これが次第に倒閣運動になっていく。

少数連立与党か、自民党か、社会党・さきがけか。キャステングボートは社会党だった。

そのまま羽田内閣は退陣。自民党社会党との連立を模索し、海部俊樹は離党。村山首班指名選挙でも、自民党の一部(武部勤田野瀬良太郎津島雄二野田聖子浜田靖一山本有二)、また一部(古屋圭司)などは白票に入れた。

ぼろぼろのなかで羽田孜政権は終わった。

羽田孜政権から学べること

〓これから〓

宮沢内閣不信任案可決の立役者は羽田派の小沢一郎だった。一方、宮沢首相と梶山静六幹事長は総選挙への備えでせわしなかった。離党届を出した武村正義のもとで「新党さきがけ」が結成。事務局長に鳩山由紀夫が就任した。それを追いかける形で羽田派(小沢一郎、二回俊博、岡田克也平野貞夫は離党して、新生党を結成した。日本新党には細川護熙がいた。武村と細川は小沢一郎主導の政界再編をいやがった。

小沢は初代連合会長の山岸章に目をつけていた。山岸は「社会党―旧総評」「民社党―旧同盟」という交差点にいた。小沢は「大が小を担ぐ」という権力の二重構造を目指した。土井たかこを衆院議長にすることで社会党も巻き込んだ。首班を細川護熙を推すことにきまった。

自民党は総裁選で河野洋平渡辺美智雄の一騎打ちになった。幹事長は森喜朗。首班交代が起きると、河野はさっさと慰安婦問題の河野談話を発表した。これは宮沢と盧泰愚大統領の間で調査を約束し、次の金泳三大統領が「日本に物質的な補償を求めない」と表明したからであった。宮沢政権にはなんとか決着をつけたいとの思いがあった。

ちなみにこの政権交代があった1993年に安倍晋三岸田文雄根本匠野田聖子らは初当選を果たしている。新党さきがけでは野田佳彦前原誠司枝野幸男海江田万里、その後に自民党に移った茂木敏充小池百合子ら。無所属では田中真紀子玄葉光一郎高市早苗

ここで非自民政権が立ち上がったが、閣僚の中で閣僚経験者は羽田副総理・外務大臣だけ。経験不足が細川政権を苦しめていく。

石破はここで離党。自民党は除名せずに離党させたことで、その後に自民党は復党することになる。

細川政権は政治改革関連4法を社民党内の分裂騒動により否決された。最後は細川と河野のトップ会談で、細川が自民党寄りの修正案を飲むことで成立した。ただ、自民党でも石原慎太郎、伸晃、衛藤、梶山、小泉などが欠席する。細川は小沢抜きで自民党と交渉していたため、小沢は激怒、確執が深まっていった。

さらに国民福祉税という増税議論をはじめる。社会党は反対、連立与党内に亀裂を残した。細川は国民福祉税を撤回した。さらにここで佐川郵便からの金、本人の借金問題が細川に襲いかかる。細川が周囲に「辞めたい」と漏らしたことで、一気に退陣論がわき、そのまま退陣していくことになる。

細川政権から何が言えるか

野党は立憲、国民、維新とばらばらだ。もし非自民のために連立政権が誕生すればどうなるか。非自民の細川政権を見れば明らかである。維新と立憲では必ず政権奪取後に瓦解する。ただ、それでも一度、自民党にお灸を据える意味でも、政治が少し停滞してもありなのではないか。いや、日本政治はいまの安全保障環境を考えれば、停滞している暇はないのかもしれない。今の日本にとって、非自民の政権交代が良いのかわるいのか、一番は政権交代ではなく自公与党ながら、対等な勢力図だろう。