幼児期 ※絶望耐性必須 (original) (raw)

『幸福な家庭はどれも似たものだが、

不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである』

―――――――トルストイ

この言葉を、

「シャインマスカットはおいしーね」さんに

送ります…。

↑いや自分に送るんかーーい!!!

どうも

昨日、

甥っ子にはスーパーで1000円で買った

シャインマスカットをプレゼントしておいて

自分はふるさと納税で届いた

すーんごく立派なシャインマスカットを食べた

オバでございます。

ごきげんよう

いや全然そんなつもりはなかったんたけどね?

なんか運命っていうか?

絶妙なタイミングで

昨日ふるさと納税のマスカットが届いて

そういう運びになりました。

(←結婚する運びになりましたみたいに言うな)

さて

冒頭の、トルストイさんのお言葉ですが

私は中学生の頃出会いまして、

それからというもの

特に役には立たないんだけど、

ひたすら

確かにな、確かにな… って

痛感しながら生きていました。

でも、しばらくして

いつの間にか忘れちゃってたんだけど、

このブログを書くにあたり

参ったね〜こりゃ🙄

となり、

また思い出してしまいました。

というのも

自分の経験たぶん特殊すぎて(?)

語ったところで共感得られなさそうだし

一体誰のためになるん!??

問題にぶち当たっていたわけです。

じゃあ

かいつまんで「伝えたいこと」を主体にして書く?

いや、

伝わってほしい感情の機微や

考えに至った経緯なんかを

部分的な流れだけで伝えるには

私の表現力足りなすぎる!!!

どう書けばいいかまったくわからん!!

とはいえ

細かく語っていったら

そっちの話のボリューム凄すぎて

それはそれで伝えたいこと伝えられんのでは!?

いや、伝えられん!!

そもそも私が伝えたい、伝えられることってなんだ!?

それに自分の経験特殊すぎて…!?……

以下ループ…

と なっていたのです。

ですが

決めました。

とりあえず

自分の人生ざっくり書いていきます。

書いたあと後悔してるかもな…

(←はい後悔しはじめてますよby書いたあとの私)

でも

改善できるくらいの

書き方のアイデアが湧いたり

ブログ力がついたら編集すればいいよ…

頭の中だけでブログ作るの限界があるんよ…

ド素人やから…(ド素人やからね…)

思考がループし始めたら

見切り発車でもやるしかないっしょ!?

(もう考えるの無理だもんで!)

てなわけで

自己(人生)紹介スタート↓↓↓

※悲しいお話に耐性がない方はここから先に進まないでください。念の為。

あなたが鬱っぽく感化されて眠れなくなったらマジで悲しいよ…。

私には兄と姉がおります。

私は3人兄弟の末っ子で、

兄は20才上、

姉は17才上でございます。

再婚で親が違うというわけでもなく、

みんな同じ両親から生まれました。

私が物心ついた頃(3才。1、2才の時の記憶もちょっとあるよ)には、

母は気が狂っていました。(言葉があまり通じない、何をしでかすか分からないキチガイさん☆)

専業主婦です。

父はトラックの長距離運転手をしておりました。

当時はまだバブル期の名残で、

仕事がたくさんあって月に3時間✕1回か2回とかしか家にいない人でした。

シラフの時は知性とユーモア溢れる、キチガイ級のお人好しですが

酒乱でした。

(キチガイ級のお人好しってどんなかっていうと

例えば、全然見ず知らずの初めてあった人に、

「私は目が見えないけど娘の結婚式がみたい、あなたの目をください」って言われたら、

自分がこの先ずっと見えなくなるとしても

目をあげちゃう ような、そんな人。

実際に目をくれって言ってくる人はいないから、

目をあげたことはないけど、

お金は自分がすでに借金しててもさらに借金してきてあげちゃうみたいなことはめっちゃあったよ)

毎日、私は家でひとりぼっちで過ごしていました。

母はパチンコぐるいでネグレクト(育児放棄)だったので、

私が朝起きるともういないし、

夜も真夜中の2時すぎとかまで帰ってこないこともザラです。

0時前に帰ってくることは滅多にありませんでした。

(今は法律でパチンコの営業時間もっと短いし、取り締まりも厳しいので閉店時間過ぎてもお店にお客さんいるなんてありえないけど、当時は営業時間も夜遅くまで(0時だったかな?地域によって違うはずだけど)だったし、当たり中だったら閉店後もそのままフィーバー終わるまで打てた)

ご飯も食べることもできず、

10日間ほどほとんどなにも食べられなかったときもありました。本当に死ぬと思いました。

もう目を閉じたら開けられないかもしれない。

なんで私の横には大きいワンちゃん(パトラッシュ)がいないんだろう?って感じです。

お腹空いたとか、なんか食べたいなんて言ったら

え゙!?またなの!?

って怒ってくる母です。

2日程度食べられないのは通常営業です。

誰に教えられるでもなく、

私は3才で簡単な料理をするようになりました。

うどん・焼きそば・チャーハンあたりです。

冷蔵庫に材料が入っていること自体も少なかったですが

砂糖舐めたり、味の素舐めたりして

飢えを凌いでいました。

小学生1・2年生の頃に、周りのお友達は

「危ないからコンロを触っちゃいけないんだよ」

「えー、うちは危ないからって包丁も使わせてもらえないよ」

なんて言うのを聞いて、

みんな大事にされてるんだな…

私は大事にしてもらえてないんだな…

心配してもらえることもないもんな。

って傷付いたりもしました。

そんな感じで毎日空腹で極限状態なので、

お外で遊んでいる間に気を失って

気が付いたら知らない人のお家にいたり、

目が覚めたらパトカーの後部座席だったり

熱々のアスファルトの上だったり

なんていうことも度々ありました。

夜は、主にテレビを観ていました。

夏は夜になると怖い番組ばかりになります。

見たくなくても、おもちゃはないのでテレビを観るしかありません。

それに夜は音が出ててくれないとこわいです。

テレビの音で賑やかにしていたいのです。

でもこわいテレビを見たタイミングで、

壁に立て掛けてあったものがガタンッと倒れたりするとすごくすごくこわくて、

私は泣きながらお兄ちゃんに電話をしました。

お父さんはお仕事で遠くに行っていて、2日後まで帰ってこられないことは分かっています。

夜中の0時はとうに過ぎていました。

お兄ちゃんは

お母さんは?お父さんは?ときいて、

「お母さんは朝からいないから知らないけどたぶんパチンコに行ってる」

「お父さんはあさっての昼過ぎに帰ってくるって」

ということを確かめると、

今からは行ってあげられないんだ、ごめんな

と言ってしばらく電話の相手をしてくれました。

こわくて震える手で受話器を持ちながら、

お兄ちゃんは忙しいんだな、迷惑になっている…

と感じ、

一生懸命、もう大丈夫だよ、電話を切っても大丈夫だよ、と、言いだそうとするのですが、

こわくてこわくてなかなか切り出せず、

「キッチンのでんきつけてくるからまってね!切らないでね!」

といってスイッチオンしては兄の声を確かめ、

「おふとんのへやのでんきつけてくるからまってね!」

ダッシュでつけてきては兄の声を確かめ…

部屋中の灯りをつけ、40分以上かかって覚悟を決めて電話を切りました。

テレビもこわいやつばかりだし、

こわくないのを観ていても

終わると次の番組でこわいやつが始まったりするので、

テレビも切っておきました。

電話を切ったあとのシン…とした絶望感。

早く帰ってきてよ〜と心の底から祈るのですが

誰も帰ってきてはくれません。

誰も私に安心感を与えてはくれません。

そうやって毎日、母に愛されていないことを

ヒシヒシと痛感しながら、育ちました。

そして、誰も助けてくれない絶望感を何度も味わいました。

電話した2日後、

その日はお父さんが昼過ぎに帰ってくる予定なので、

お外に遊びに行かずに家の中で嬉々として待っていました。

すると土曜日だったのでお兄ちゃんが来てくれました。

昼間ですが当然のようにひとりぼっちの私を見て

またか…となりながらも面食らっていました。

お母さんは?

知らない。朝からいないよ。

ごはんは?

食べてないよ。今日はね〜お父さん帰ってくるんだよ!

……お兄ちゃんと将棋するか!

うん!するー!!

お兄ちゃんは強い駒をいっぱい抜いてハンデをつけて相手をしてくれました。

普段遊び相手のいない私は嬉しくて嬉しくて、

空腹で時々目がグルグル回る感覚も無視して

次の一手を考えました。

父が帰ってきました。

帰って来た途端、

兄が鬼の形相で父に怒り始めました。

兄はこんな小さな子に、なんて仕打ちだと怒っています。

父はタジタジしながら、

知らなかっただとか、

俺は仕事だからどうしようもないとか

言い訳をします。

兄はキレ散らかしました。

すごい迫力の大声で怒鳴りつけはじめ、

壁にパンチして穴を開けました。

私はすごくこわくて、悲しくて、横でメソメソ泣いていました。

そして、たぶん一瞬、空腹と緊張感の極限状態で気を失っていたのでしょう。

気がつくと兄が私を抱えて覗き込んでいました。

まだ怒りが収まらない様子でしたが、

ごめんな、お兄ちゃん怖かったよな

と言って帰っていってしまいました。

空腹すぎて倒れたとは夢にも思わなかったのかもしれません。

自分が怖すぎてショックを与えたとでも思ったのか、とても悲しそうな顔をして帰っていってしまいました。

そしてあまり来なくなってしまいました。

そして、父から

「お兄ちゃんに言うと、お父さんもお母さんも怒られちゃうから、情けない思いをするからお兄ちゃんに電話しないでほしい」

と悲しそうにお願いされました。

私が誰かに助けを求めると

みんなが悲しい思いをすると学び、

どんなに辛くても

もうお兄ちゃんに電話することはありませんでした。

お兄ちゃん以外でもそうです。父と母が恥をかいて困るんだと思い、すごく助けて欲しい時にも

誰にも自分から助けを求めることはできませんでした。

ちなみに、日頃から

「何時からお母さんいないの?」

とか

「何時に帰って来るの?」

「いつごはん食べたの?」

とかよく聞かれるし、

自分も「何時に帰ってくるの?」はよく聞いたので、4歳になる前にはとっくに時計も読めていました。

はっきりいつから読めるようになったかはさすがに覚えていないです。

ちなみに(ちなみにしか思いつかない悲しい語彙力)

私が3才の時、引っ越しました。

姉は、前の家に住んでいた時は

まだ部屋が残っていて、

ちょこちょこ来てくれていましたし、

1歳までは一緒に住んでいました。

私が大きくなってから、姉が

「お母さんは何にもしてくれなかったから、

あなたは私が育てたんだよ」

と冗談混じりに言っていましたが、

割とガチだと思います。

生まれてすぐから、母は育児放棄していたんでしょう。

そういえば引っ越す前から母はいつも家にいなくて、2才の頃に遠くまで歩いて探しに行ったことがあります。

その時はパチンコというものを知らなくて、どうしていないのか知らなかった。

ものすごい交通量の道路の横をちびっ子がひとりで歩いているので、ものすごくジロジロ見られて、

目的地も分からないしいたたまれなくて引き返して帰りました。

あ、このエピソード全然いらないですね。

間違えましたわ。

でもちょっと修正してく時間ないので

このまま進みます。

ちなみにちなみに(ちなみにしか思い…以下略)

兄と姉が言うには昔はお母さんはまともだったらしいです。

父のせいでおかしくなってしまったと…。

だからお兄ちゃんはお母さんに優しいです。

お姉ちゃんは私が赤ちゃんの頃一緒に暮らしてたし

家を出てからもだいぶ苦労させられたので

冷たくできないけど嫌がってはいます。

でもそんなん言われても私は気が狂った母しか知らんし…😓 うーん。まともな母…想像できん。

と思ってたけど父が亡くなって10年以上がたったいま、だいぶ会話ができると感じます。

たまにおかしくなっちゃうけど、落ち着いている時は、何をやらかすか分からない恐怖みたいなのも感じないです。

キチガイさんまであとちょっと(笑)

になみにちな…以下略

私が3才だったか4才だったかで、

親は1度目の自己破産をしています。

私が中学生のときに、二度目の自己破産をします。

自己破産って1度しかできないんでしょ!?

ってよく言われるんですが

10年経ったらできます。

自己破産って通常、したら10年間はブラックリストに載ってお金が何処からも借りられなくなるんですが

借りなくたって家賃の支払いがずっと滞ればそれは丸ごと借金だし 光熱費もそう。

そして本当に闇のサラ金ならブラックリストに載ってるような人にだって貸しちゃうんです。

うちはしょっちゅう電気・ガス・水道止まってたし

家賃も滞納しすぎて行政執行が行われる前の晩・翌日の…まあなんやかんやあったんですけど

それはもうちょい大きくなってからの話ですね。

(その頃の話になったら、書くかも?)

まあとにかく飢えに飢えてた

そんな幼児時代

そんな『食』を知らない私が

小学生になると、「給食」というものに出会い、

そこでも色々とあるのですが、

まあ…省きます。

見切り発車を最近覚えて、

その結果

見切り発車よくないな って なるんですけど

結果が良くなかったとしても

元々は考えすぎて動けないのが常だったので

それに比べればまあ良いはず…。

今回、見切り発車したけど

そんなだから全然まとめられないです

すみません…。

とりあえずバーッと書いて

上手に編集できたらいいな(無理そう)

と思って始めてやっぱ無理でしたわ

時間全然ないし能力もない…。

でもね、消せないっす。

修行中の身なので、

今さら全部消して今日は一文字も書けませんでしたー!ってわけにいかないので、

毎日とにかく書く!

下手でも書く!

これが今の目標なので

すみません、ご容赦くださいm(_ _)m

誰のためにもならんブログでごめーーん!

またね☆