月輪寺登拝記(3) (original) (raw)
橋の上から見た清滝川
こんにちは、日河 翔です。
昨年の春、京都の愛宕山中にある月輪寺(つきのわでら)を登拝した際の、備忘録第三弾です。
あれから、もうすぐ一年が経とうとしています。
光陰矢のごとし・・・というより、単にブログを更新するのが遅すぎるだけですね(笑)。
記事をアップする度に、これからは毎日5~10分はブログに向き合うことにしようと思い立つのですが、気がつけば2ヶ月近く経っております。
登拝記は3回で終わりそうにないので、気長にお付き合い下さい。
JR京都駅や阪急嵐山駅前などから乗車し、終点まで乗ります。
バスの本数は少ないので、事前に時刻表で電車との接続時間を確認することが必要です。
愛宕神社へ参拝する場合も、同じ「清滝」バス停で降車します。
愛宕山に登る方々は大抵、往路は石段が続く愛宕神社参道を通り、復路は愛宕神社から月輪寺へ下って、空也の滝に立ち寄るコースをとられるのではないでしょうか。
京都では「愛宕の三歳参り」といって、子供が三歳になるまでにお参りすると一生火難に遭わないという言い伝えがあり、日頃より乳幼児連れのご家族が登拝されます。
往路・復路ともに、愛宕神社参道を往復される方も多いです。
私の場合は時間の制約があり、両方参拝することが物理的に無理だったため、月輪寺への参道を往復することにしました。
登山の途中で転んだり、捻挫したり、体調不良になったりする可能性もゼロではないので、参拝者・登山者の多い春・秋に行かれることをおすすめします。
トンネルの先にある「清滝」バス停の周辺には、野生の藤が咲き乱れていました。
思わず写真を撮りたくなってしまいます。
X(Twitter)を始めてからというもの、写真に興味が出て、よく風景を撮るようになりました。執筆の資料に使うこともあるので、とりあえず気になった景色は撮っておくようにしています。
ですがこの時は、バス停を降りると乗客のほとんどが同じ方向に向かわれますので、写真はあきらめて急いで後をついて行きました。
歩いている間に、お手製の「熊鈴」を取り出し、リュックに結びつけました。
一般的な熊鈴は控えめで渋い(?)音がするのですが、マイ熊鈴はとにかく賑やか。
神楽鈴のようで、地面のお祓いになるのでは思うほどによく鳴りました・・・。
もし今、お食事をしながらお読み頂いている方がいらっしゃいましたら、大変申し訳ないのですが、、、
月輪寺、愛宕神社ともに、参道の途中に御手洗いはございません。
参拝しようと思われる方にとっては、一番心配になる部分ではないでしょうか。
バス停から愛宕神社の二ノ鳥居までの間に、公衆トイレが一カ所あります。
清滝の公衆トイレ
地域の皆様のご厚意で、設置されているのでしょうね。感謝の気持ちでいっぱいになりました。
飲料の補給については、二ノ鳥居までの間に「さくらや」さんという駐車場があり、自動販売機が何台も設置されています。
この自動販売機の存在を知らなかったので、私は事前に購入したものを持参して登拝しました。下山後、バス停で休憩する際、甘い飲み物は疲労回復におすすめです!
愛宕神社の二ノ鳥居までの道は迷う心配はなく、参拝者も割といらっしゃいました。
先に愛宕神社へ行く方々の中には、鳥居前の広場で準備体操をしている方もおられて、慣れていらっしゃるなと感心したものです。
愛宕神社へは別の機会に参拝するつもりだったため、その日は二ノ鳥居前から御本殿を遙拝させて頂きました。
事前にトレッキングのブログなどで、月輪寺の方角を示す石標があることを知っていたので、それを探してしばらく広場をうろうろしてしまいました。
愛宕神社二ノ鳥居付近
間違った方角へ進むと、手持ちの時間と体力を消費してしまうので、つい慎重になりすぎました。
ただ、清滝川に沿って歩く参道はとても分かりやすく、思ったより小さい石標(足元に木製の案内矢印もありますね)を見落としたとしても、道に迷うことはないと思います。
月輪寺への道標
細切れの登拝記で恐縮ですが、次回は清滝川沿いの参道をご紹介します!
<著書のご案内>
『 くれなゐ君 』
常陸宮の姫君は幼いながら、都一不器量で無教養と評判だった。
紅君(くれないぎみ)という通り名に惹かれ、元服前の少年・実孝は常陸宮邸で姫君を垣間見る。
まっすぐな姫君と、不器用な貴公子のすれ違う初恋は、都の異変とともに押し寄せた運命の渦に巻き込まれてゆく。
「あなたを殺しはしない、決して。この身など惜しくはないのだから」
二人を取り巻くのは先帝の長子・一の宮の死、短命だった斎宮、奇怪な流行り病・・・。出家を望みながらも、巫(かんなぎ)の血に目覚めていく紅君は、数奇な運命をたどり始める。
源氏物語の「末摘花」を下敷きに、一人の少女を軸として、美しい情景を交えて織りなされた平安王朝絵巻。
『 詩集 砂の海 』
著者の闘病期のピークであった19歳から22歳の詩を中心に、17歳から23歳頃までの作品から73編を収録しました。
生と死のはざまで見上げた空の色。
当たり前のことなど何一つないからこそ、届けたい言葉がある。
著者が紡ぐ物語の、原点とも言える詩集です。
『当時私は仏典に惹かれ、玄奘や法顕などの求法僧に共感を抱いておりました。
とりわけ、十七年にも及ぶ命がけの旅に出た三蔵法師・玄奘の存在は、憧れでもありました。
玄奘が辿った中央アジアの旅路を、闘病の日々に投影していたのでしょう。
また、郷土史に心を寄せるあまり、若くして命を散らせた方々の想いに同調し、輪廻というものにとらわれていた時期であったとも言えます。
私が作ったつたない詩は、失われた小さな物語と幻のようにかすむシルクロードに、自分の困難を重ね、乗り越えてゆく強さを探し続けた歳月そのものです。
自分の詩に、人の心を慰めたり寄り添ったりする力があるとは、決して思いません。
全く同じ環境、同じ病状でない限り、本当にその人の苦しみを理解することはできないでしょう。
しかし、困難な道を一人で歩いているあなたに、これらの未熟な詩を届けたいのです。
何もできないことをもどかしく思いますが、それでも、懸命に今を生きるあなたのために、私は種をまきたい。
あなたの歩く道に、いつも野の花が咲くように――。
あなたはきっと、自分自身の「砂の海」を越えてゆける。
そう信じて、これらの詩をあなたに捧げます』
(前書きより抜粋)