退屈な日々にさようならを (original) (raw)

湖の女たち(新潮文庫)

琵琶湖畔の介護施設にて、入居者の老人が死亡する。

「人工呼吸器をつけて療養中やったガイシャが、今朝方、心肺停止状態で発見されたんや。死因は低酸素脳症。駆けつけた家族が、施設側の説明とスタッフたちの態度を不審に思って通報した。今のところ、人工呼吸器の不具合かもしれんし、当直の看護師たちによる業務上過失があったのかもしれん……」。

何かしらの要因によって呼吸器が外れれば、すぐさまその異変を知らせるアラームが鳴る、しかし、本来ならば響いているはずのそのけたたましい音を耳にした関係者はひとりとしていない。しかし、幾重にも安全性が張り巡らされたメカニカルなトラブルに基づく可能性は、ほどなく捜査線から除外される。「とすれば、故障したのは人間側だ。施設のスタッフ側に何かしらの過失がなければならなくなるのだ」。

そうして捜査当局はひとりの女性に白羽の矢を立てる、それは単に、当日居合わせた「2人のうち、弱そうな嘘つきの方を罰しよう」というだけの見込みをもって。

シナリオをまとめるのは簡単だった。

「あなたは、看護師と介護士の待遇に対する差別に積年の恨みがあったのだ。(中略)/同じ仕事をしても同じように評価をしてくれない施設側に、強い恨みを抱いていました。/だからあなたは、看護師たちが同時に仮眠を取っているという絶好のチャンスを見逃さなかった。(中略)/人工呼吸器を故意に止め、その場に留まってアラームや予備アラームが鳴るたびに停止させ、誰にも気づかれずに完全に人工呼吸器を止めてしまった。(中略)/でも、悪いのは私ではありません。悪いのは、怠慢な看護師たちで、同じようにいくら改善を訴えても話を聞いてくれなかった施設側なのです」。

しかしその捜査の最中、同じ管内の別の施設で、呼吸器が外れたことで高齢入居者が亡くなる怪死案件が発生する。

捜査を担当する湖西署には、悪しき風土がはびこっていた。きっかけは20年以上前の薬害事件、十全な資料をもって容疑を固めながらも政治の圧力をもって握りつぶされた。以後、そのモラルは崩壊、「やっぱり組織にもトラウマってあんねんな。(中略)トラウマが原因で人間が罪を犯すことがあるやろ。それと同じで、組織が犯罪者になることだってあんねん」。そうして今般のでっち上げは、生まれるべくして生まれた。

もっとも、このミステリー仕立ての小説に、実のところ、合わせるべき答えなど用意されていない。

「事件や犯罪というものが、まるで金や権力で売り買いできる商品のような気がした。罪を償わなければならないのは、事件や犯罪を犯したからではない。金や権力を自分が持たなかったからなのだ」。

そんな「世の中のしくみ」のもとで、真相などというものは共有しようがない、フィクション空間の登場人物の間でも、そしてテキストを媒介とする筆者と読者の間でも。

だから、警察署が過去の呪縛の幻影に憑かれて振り回されているように、キャラクターの各人も自らのモチーフにただひたすらに翻弄されることしかできない。

とある女性の場合、それは幼き頃に祖母から聞かされた天狗の話だった。

「私、怖い天狗さんがええねん! 私は、怖い天狗さんに連れてってほしいねん!」

長じて彼女は、閉塞した日々の中で、とある投稿エロサイトの主の書き込みにその願望を投影するようになる。やがて出会う男根主義者――その他には何もない至極からっぽな――を前に、彼女は書かれているままのポルノ・ワードを反復せずにはいられない。

「もっと束縛して下さい、もっと自由を奪って下さい、なんでもします、なんでもします」

そうして忘我のエクスタシーを知る。

とある雑誌記者の場合、取材対象者が何気なくはじめた思い出語りを通じて、戦前の旧満州の湖畔で起きたとある死亡案件と、20xx年の琵琶湖の変死を重ね合わせるようになる。そして間もなく、彼独自の捜査線にこの両者をクロスオーバーさせてくれる、絶好の容疑者が浮上する。

とあるサスペクトの場合、極めて当人の者である可能性が濃厚なSNSのアカウントをたどっていくと、そこにもどうやら原型があったらしいことが発覚する、少なくとも記者はそう見立てた。その最初のツイートはとあるニュースをシェアしたものだった。「元職員の26歳の男が、知的障害のある入所者たち19人を刺殺し、26人に重軽傷を負わせた戦後最悪の大量殺人」がリンクされていた。

その瞬間、記者の中ですべての糸が繋がる、いや繋がってしまう。「すべてが繋がりそうなのに繋げるのが恐ろしかった」。

真実などとうに投げ捨てたこのポスト・トゥルースな世界の中で、果てなき自己参照に弾かれながら、記者はそれでもなお、真実を追い求めずにはいられない。もしかしたら事件を一挙に決着へと導く、その決定的な瞬間が目撃できるかもしれないその刹那、彼は見る。

「湖は美しい朝を迎えようとしている」。

この筆者の世界線では、いかに残酷であろうとも、真実はこの世を照らす曙であり、そして何より「美しい」。

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