井田、Aロマじゃね?? 〜ドラマ『消えた初恋』をさらにクィアリーディングする③【第9話〜最終話】〜 (original) (raw)

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いつのまにか1年くらい開いてしまいましたが、ようやく完結です。前回8話で描かれていた「ホモフォビアへの抵抗」の文脈を、9、10話はしっかり引き継いだ内容となっています。

【第9話─学校の異性愛中心主義】

東ケ岡高校の一大イベント、「点火祭」が近づいてきました。「点火祭の日にケーキを渡すと恋が成就する」という誰もが知っている点火祭伝説を、当たり前のように井田は知りませんでした。しかし青木が以前のバレンタインで橋下さんから手作りのケーキをもらったことを話すと、引っかかったようで「もらったのか?」と問いかけられます。そんな井田に青木はあっくんという本命に渡せなかった余り物をもらっただけだからと弁解しつつ、「妬いてんの?」と、井田が自分に嫉妬を向けたことを喜びます……が、当の井田は「妬くってなんだ?」とピンと来ていない様子です。

私たちは恋愛的関係の言葉と規範から借り物をして、ほかのタイプの気持ちを構築できる。クィアプラトニックパートナーは、通常軽く受け取られるタイプの関係を引き受けて、それが十分に重要であり、通常ならざる、ぎこちなくなりかねない会話に値するほどのものだと判断する。多くの種類の関係が十分重要になりうる、そういった対話をあえてしてみてよいくらい、もしくは期待をかけ専念してよいくらいに。

─アンジェラ・チェン「ACE アセクシュアルからみたセックスと社会のこと」(左右社、2023年発行)p261から引用

ドラマ「君となら恋をしてみても」をクィアリーディングするというブログ*1でも引用したこちらの文章ですが、「恋愛に特有の感情だと想定されているものは、実際はそれ以外の関係や文脈でも起こりうる」ということを、ここでのふたりのやりとりからも読み取ることができます。一般的に「嫉妬」とは恋愛感情を備えていることを前提としているため、青木は井田の問いかけから自分への嫉妬心を感じ取り、井田が恋愛的な感情を向けていると解釈して、自分たちが恋愛の文脈の中にあることに浮き足立ちます。しかし、井田がそういった感情を向けたから恋愛感情を持っていると解釈するのは、これまでしてきた井田は恋愛感情を理解しないAロマパーソンである、というクィアリーディングの可能性を狭めてしまいます。
また、井田自身が「嫉妬とは恋愛感情と結びついているもの」いう規範を内面化していると考えると、青木同様に井田にとっても「嫉妬」とは恋愛の文脈でのみ湧き上がる感情なため、【付き合ってはいるものの恋愛感情を向けているわけではない】青木に対する思いとしてはよくわからないものとなります。青木を特別に思い、自分だけが相手に特別な強い感情を向ける存在でありたい……と思う気持ちがあったとしても、そういう感情は恋愛の文脈に独占されているという前提が、井田が青木を思う気持ちををそのまま理解することの邪魔をしてしまう、というシーンと読み解くことができます。

互いの考えの違いを埋められずにいるふたりですが、屋上で一緒に昼食を食べる約束は変わらず続いており、寒空の下、ささやかなふたりだけの時間が訪れます。寒いし教室で食う?という井田に「変な噂が広まったらまずいだろ」と焦りながら、ふたりだけでゆっくり話せるのは楽しいし、と伝えます。それに対して井田は「俺もだよ」と返し、ふたりにとって「付き合っている」関係が居心地のいいものであることを互いに共有します。

しかし、そんな空気はるみと弘夢カップルの登場によって一気に変えられ、慌てて青木は井田の手を引いて屋上から走り去ります。付き合ってると思われたらまずいだろ、井田は周りの目を気にしなさすぎるんだよと諫める言葉に少し考え込む表情を浮かべると、井田は学校が休みの日にふたりで一緒に出かけないか、と提案します。この提案は、付き合っていても学校ではそう振る舞うことのできない青木への「学校の外なら、他の奴らの目が気にならない」という配慮が優先されたものだと読むことができます。しかし青木はそこまでは読み取っていない……と言うより、ふたりで出かけること、デートできることにテンションが上がっている様子です。
そしてふたりは横浜デートに出かけます。ロープウェイに乗ったり、カフェに行ったり、映画を見たり、「普通の」カップルのように過ごします。でも、ロープウェイの中では繋ぐことができた手を、すれ違う人の前ではほどいてしまいます。

豆太郎激似の犬が登場する映画で爆泣きした青木は、井田に誘われてデート帰りに井田の家に寄りますが、なんと家族はしばらく帰ってこないと告げられます。思わず麦茶を吹き出す姿に「ふたりきりになるのが困るってことか?」と不思議そうな井田に対し、青木は「これって大チャンス」「っていうか、井田も”それ”狙って誘ってきたのか……?」と動揺しまくります。そんな様子を見て、

「青木は見ていてわかりやすい」

「時々こっちまで照れくさくなる」

「人を好きになると、こんな風になるのか」

と、外側から「自分を好きな青木」を眺めます。

ゲームをしながら全然勝てない青木は、思わずムキになりコントローラーを奪い取ろうとしますが、勢い余って井田の服に麦茶をこぼしてしまいます。なんてことないように着替えようとする姿に動揺し、井田のほうを見ないように縮こまる青木の丸い背中を見ながら思わず笑ってしまう井田に、青木はクッションを投げつけ感情を爆発させます。

「馬鹿にすんな!楽しいかよ、人の反応面白がりやがって」

「そんなつもりは……」

「そうだろ!ゲームの手加減ゼロだし、近くに座っても二人きりになっても平然としてるし。こっちは真剣なんだ」

「お前、俺と本気で付き合う気ねーだろ。だからそんなことできるんだ」

「悪い……」

「否定しろ」

「ごめん」

「出てけよ」

「……わかった」

「……ってここお前ん家じゃねーかよ!もう帰る!」

「おい待てって青木」

「あーもうひとりになりたいっつってんだよ!お邪魔しました!」

「……青木の言うとおりだ。本気で好きなら、あんなふうに相手を困らせたりしない

青木が周りの目を過剰なくらい気にすることや、「いちゃつく」ことへの反応が強いのは、それだけ異性愛規範と同性愛嫌悪を強く内面化していることの証であり、それこそが井田と青木を分断しようとするものでもあります。
このドラマは「学校」をメインに物語が展開しますが、井田と青木だけを描くのではなく、学生イベント、部活、教師たち、クラスメイトなど、周囲の人々との関わりを通して10代にとって最も身近で影響の強い人々やコミュニティがいかに異性愛主義的か、そこにいるクィアがどれほど差別に怯え、本当のことを隠すのに神経をすり減らしているかを丁寧に描いています。学校のどこでも堂々といちゃつける異性愛カップルのるみと弘夢に対し、唯一ふたりきりでいられるはずの屋上からも追いやられる青木は、学校の外でもその影響から逃れられず、デート中であっても人前では手を繋ぐことができません。学校というコミュニティを抜け出したとしても、異性愛規範とそれによって引き起こされる差別による恐怖から逃れることは困難です。そんな状態の青木にとって、誰の目も気にせずにいられるふたりだけの空間で、やっと本当に自分がしたいことをできると思っていたのに、そうしたい相手からクィアな思いを「馬鹿にされた」怒りや悲しみはとても強いものだったでしょう。あれだけ井田とふたりでいたがっていた青木は、「ひとりになりたい」と井田のもとから立ち去ってしまいます。

教室でぎこちない様子のふたりを見たあっくんと橋下さんに、初デートがうまくいかなかったことを相談し、「本当に付き合ってるのかな、俺たちって」とこぼします。あっくんは「ただの友達扱いじゃん?」と軽く返しますが、橋下さんは「そんなことないって」と励まします。青木はさらに、井田からちゃんと「好き」と言われていないこと、「好き」かはわからないけどとりあえずほっておけないから付き合っている、と付き合っている経緯を話します。橋下さんは「井田くんって、そんないい加減な人だったの?」と問いかけますが、すぐにあっくんが「いい加減じゃないでしょ。付き合ってみないとわかんないことってあるじゃん」と返します。
ただの友達」とは、単に恋人関係を否定しているだけでなく「友達以上恋人未満」的な、「友情関係は恋愛関係より格下のものである」という文脈が含まれているワードです。悪い奴ではないけどどうにも無神経男ことあっくんは、軽いトーンで(もしかしたらあっくんなりの励ましなのかもしれませんが…)その規範を振りかざします。しかしこの男、橋下さんが「好きかわからないけど、ほっておけないから付き合う」ことを選んだ井田を「いい加減」と評すると、絶妙なバランスで「付き合っている」ふたりの関係を否定せず、「恋に悩む仲間」であり、理想としている「恋」像がかなりテンプレ的でもある青木と橋下さんが想定している「付き合う」のルールを広げようとします。同じ気持ちで恋に悩むことができる橋下さんと、ホモフォビアを克服し、恋愛の規範も覆そうとすることができるあっくん、青木にこのふたりの仲間がいて本当によかった……

橋下さんに誘われ、点火祭で井田に気持ちを伝えるべくケーキを作る青木。一方井田は、同じバレー部で幼馴染の豊田に、青木のことで悩んでいるのかと問いかけられます。この会話、豊田は井田と青木の関係に薄々気づいていたうえで、アウティングにならないようにふたりだけになれる体育準備室に移動してから話し始めています。この描写をきちんと入れているのが素晴らしい。

「浩介さ、お前、ちゃんと自分の気持ち青木に伝えたのか?もしかして、好きかわからないまま付き合ってた?」

「浩介のほっとけない病じゃないよな?」

「ほっとけない病?」

「うん、お前困ってる人に弱いから。豆太郎拾ったのも、先代の犬もそうだったろ。バレー部に入ったのも」

「嫌々じゃない。それにバレー部も豆太郎も、今は大事になったんだ」

「あのな、それとこれとは全然違うんだって。向こうはお前のこと好きなんだから、同情だったら青木に失礼だろ」

「……同情、……ではない、な。俺も青木といて楽しいし」

「それって、青木の好きと同じか?お前の楽しいは、俺とかバレー部のみんなと一緒にいるときの楽しいと、一緒じゃないのか?…ちゃんと自分の気持ち考えたほうがいいって。中途半端な気持ちだったら、青木も、浩介も、辛くなるだけだと思うよ」

井田の青木に対する気持ちが「青木といて楽しい」だと聞くと、それは自分たちといるときと同じものじゃないのか?自分の気持ちと向きあわないと、ふたりとも辛くなると思うよと、青木に自分の思いを伝えることを勧めます。

青木のもとに向かうも、思いを話すことができずに結局ひとりで帰ろうとする井田。するとバレー部のメンバーがやってきて、横浜で青木と手を繋いでいたところを見られたことを告げられます。

【最終話─異性愛規範による分断を乗り越え、連帯する仲間として】

点火祭当日、橋下さんと井田に渡すためのケーキを試食しながらドキドキしていると、井田に呼び出され屋上に向かいます。そこで井田から、バレー部のメンバーに横浜デートを見られたこと、青木と付き合っていると教えたことを伝えられます。青木は顔をゆがませ、「なんで言うんだよ、そんなのテキトーにごまかせばいいだろ!?」と、泣きそうな顔で激昂します。

「……そんなに怒るなよ。隠すことでもないだろ」

「隠すことだよ」

「じゃあ青木は、俺と付き合ってるのが恥ずかしいってことか」

「……そういうことじゃない」

「じゃあどういうことだよ」

「……お前なんもわかってねーよ!」

「ああ分かんねえよ!……何にも」

「もう別れよう」

「……えっ?」

「って言っても、たいしてそんな付き合いしてねーけどな」

「とにかく、俺たちはもう終わりだ。……じゃーな」

クリスマスパーリィー(委員長リスペクト)本番、井田は部活の練習試合に向かいます。そしてバレー部のメンバーに、「青木と付き合っているのは冗談だから、青木のことはそっとしておいてほしい」と伝えます。

副委員長の手作りケーキをあっさり断ったあっくんと、から回る自分へのやりきれなさにブチ切れた橋下さんですが、しかし渡り廊下でふたりきりになったところで、橋下さんの手作り以外は欲しくなかったからあんな風に言ったのだと伝えます。そしてイルミネーションが光ると、あっくんは一緒に見に行こうと橋下さんを誘います。
点火の瞬間を青木は教室でひとりで迎えます。自分が作ったケーキをクラスメイトにすすめ、るみと弘夢カップルにも渡します。校庭に向かうと、ふたりで写真を撮る橋下さんとあっくんの姿を見つけます。恋に悩んできた仲間を祝福する気持ちはあるものの、「やっぱり、ああいうのが普通だよな」と心のうちでつぶやき、井田と映る写真を削除してしまいます。

決定的にすれ違ってしまった井田と青木ですが、ここで考えたいのが「何がふたりをすれ違わせているのか」です。

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「みなと商事コインランドリー」という作品でAロマンティックに読める人物をクィアリーディングした際、Aロマンティックスペクトラムにいる人物が「嫉妬」や「すれ違い」を経験するとき、そこにどんな規範が前提とされ、影響しているのかを考えてきました。この作品では「すれ違い」とは異性(恋)愛規範によって経験させられてきた自身の愛の無力化によるものと読んできましたが、今回はすれ違いの原因だと思われる「青木がわかっており、井田がわかっていないもの」を読み解き、異性(恋)愛規範によって分断される、AlloパーソンとAroパーソンの経験の違いを考えていこうと思います。

練習試合をぼろ負けに終えたバレー部。なぜ自分にボールを集めようとしてくれたのか?と聞くと、「青木の思いに報いるためだ」と返ってきます。何のことだかわからない井田に、4人は試合前に青木が話しに来たことを伝えます。

「井田なら、いないぞ」

「あのさあ、そのことなんだけど。知ってるのって、誰だ?」

「この4人だけだけど……」

「頼む、俺と井田が付き合ってたってことは、他の誰にも言わないでくれ

っていうか、俺が強引に井田を誘っただけで、付き合ってるとかそういうんじゃなかったんだ。あいつはほんと関係ないから。横浜で、手つないでるの見たらしいけど、あれも俺が勝手にやって、あいつに迷惑かけてただけだから。俺はもう、井田と関わらないって決めたから。だからお前らは、井田とこれまで通り、普通の友達でいてくれ。……頼む、この通りだ

この作品は、学校というコミュニティがいかに異性愛中心主義的で、クィアがどれだけその差別に怯えなくてはならないかを一貫して丁寧に描いています。*2青木たちは高校2年生、つまり学校というコミュニティでまだ1年以上も過ごさなくてはなりません。そんな中でクラスメイトに(*差別的なニュアンスを表すため、敢えてこの言葉を使用します)「ゲイバレ」してしまったら。言葉通り、青木は学校にいられなくなってしまうかもしれません。そして、そうなるのは青木だけではありません。自分と付き合っていることを知られたら、井田も学校にいられなくなってしまうかもしれない。井田が自分と付き合っていることでホモフォビアに巻きこまれることを避けるために、青木は関係を終わらせることで自分から遠ざけ、それだけでなくバレー部のみんなにそのことを言いに行きます。しかも、あくまで井田は自分に巻き込まれただけ、全部自分が勝手にやっただけだからと説明することは、自分のことをどう思っているかわからない、そしてクィアへの差別心があるかもしれない相手にカミングアウトすることと同義です。そのリスクを冒してでも守ろうとしている自分に対し、あっさりと自分たちの関係を第三者に伝え、自分が感じている切実な恐怖を「わからない」と言ってのける井田に、青木は絶望すら感じたのだと想像します。それと同時に、

「俺たちはお前らが付き合ってるって聞いて、お祝いしようとしてたんだ」

「お前や井田のことを馬鹿にしたりしないし、他の奴に広めたりもしないから、安心しろって」

と、バレー部のメンバーは「普通の」カップルと同じようにふたりを祝福しようとしていたこと、ふたりの関係を笑ったり不必要に広めたりしないこと、そして変わらずバレー部のメンバーとして、井田の友達としていてくれることを知り、井田にとって学校が安全ではない場所ではなくなったことに安心した青木は、自分の恋を終わらせる決心がつき、井田にメールを送ったのだと思います。

「好き」という感情と同じように、井田にとって青木の感じる恐怖や怒り、悲しみは「よくわからない」ものです。それは、井田が恋愛に関わること全般に興味関心がなく、恋愛に巻き込まれることもなかった(自覚していなかった)ために、「**異性愛カップルではない恋愛関係に向けられる社会からの差別」には、青木ほどの当事者意識(恐怖感)を抱いていなかったから、ということが想像できます。しかしクィアリーディングの視点から読んでいくと、「青木は同性愛差別を経験し、井田は経験してこなかったことが原因ですれ違い、ふたりは別れることになってしまった」と解釈するのは不十分**だと考えます。

この作中に、井田の思いを理解しようとする人物は登場したでしょうか。周囲の人々は井田を恋愛の文脈で解釈し、井田の「好きがわからない」に寄り添おうとしません。周囲の人々は井田が恋愛に鈍感なことや「好きがわからない」ことを「Aロマンティックだから」とは理解せず、井田はずっとAlloパーソンとして扱われ、アイデンティティを否定され続け、孤立させられ続けてきました。井田はその問いにひとりで向き合い続け、自分の力で答えにたどり着きかけました。しかし歩み寄ろうとした瞬間に、青木から別れを告げられてしまいます。恋愛を前提とする社会の中でアイデンティティを獲得しようともがき、考え、ようやく大切にしたい思いと相手をつかみかけたと思ったらその相手が離れて行ってしまう。井田が「わからない」と表現したのは、どうにか自分なりにたどり着いた大切な人間関係が、恋愛が関わることでこじれたり失われてしまうやるせなさや、大切に思う人ですら自分にとって意味の分からない恋愛のルールに支配されている悔しさなのだと思います。

Aロマンティシズムに関わる困難が「個性」に矮小化されたり、Aロマンティックなアイデンティティを漂白されることがどれだけAロマパーソンを抑圧するかを、これまで何度も書いてきました。しかしAロマンティックへの差別は「不可視化」というかたちで起こることが多く、井田は青木が怯えるような直接的な差別は浴びにくいと言えます。そうであっても、Aロマンティックが受ける差別を同性愛差別と比較して「まし」だとするのは間違いです。存在を不可視化され続けることで、Aロマンティックな人々は自らに「異常」のラベルを貼ってしまったり、「そのうち良い人と出会うよ」「まだ恋を知らないだけだから大丈夫」などとアイデンティティを否定される経験を繰り返すことで、本当のことを誰かに伝えることを諦め、孤立してしまったりします。これらが人生に及ぼす影響は甚大で、それらを軽視するまなざしこそがAロマンティックに対する抑圧なのです。

このように読んでいくと、井田と青木の「すれ違い」は、同性愛差別とAロマンティックへの差別の経験の違いがふたりを分断してしまうことで起こっていると理解することができます。ここで重要なのは、その分断は 井田が同性愛差別を理解しないから/青木がAロマンティックへの差別を理解しないから生まれたのではなく、異性愛規範がそれ以外の在り方を抑圧することで、クィアのなかで生じている分断であるという点です。
青木が井田との関係を終わらせる決断をしたのは、井田の思いを無視した行動ではありますが、それは井田が同性愛差別に巻き込まれることを避けるためでした。これほど同性愛差別に怯えなくてもいい環境だったら、青木は井田を諦めなくて済んだでしょう。異性愛主義の抑圧を気にしなくてもいい環境だったら、青木は周囲の恐怖に神経をすり減らす分を、井田の言葉を受け止めることにもっと余裕を割けたはずです。そうすれば、井田も青木を大切に思う気持ちを途中で手放すことなく、青木を「好き」だと感じる自分の思いを否定されたり諦めさせられる経験を避けられ、アイデンティティの獲得から遠ざけられることもなかったはずです。

ふたりの関係を築くことを難しくさせているのは、AroスペクトラムクィアとAlloスペクトラムクィアが経験する差別の違いではありますが、これらの「差異」を「分断」に塗り替えようとしているのはふたりの立場の違い自体ではなく、その差異を「異性愛に沿わないから」という理由のみで埋め尽くそうとしている異性愛規範です。その対立構造に飲み込まれるのではなく、異性愛規範に対抗し連帯することで、ふたりは分断を乗り越えられるはずなのです。

「浩介が青木のために嘘ついたみたいに、青木も浩介のために必死だったんだよ」

「浩介!本当にいいのか?このままで」

その分断を乗り越えるきっかけを先に手にしたのは、豊田から互いが相手のために行動していたことを教えられた井田でした。青木が自分を守ろうとしていたことを知った井田は、ひとりでいる青木のもとへ駆け出します。この姿が本当に特大連帯物語すぎて泣けてきました……

「ごめん。俺が悪かった」

「どうしたんだよ……」

「バレー部のみんなに聞いた。青木は俺のこと真剣に心配してくれてたのに、気づかなくて。……ほんとにごめん」

「俺もごめん。……お前に嘘つかせようとして、堂々とできなくて

「それは、俺のこと心配してくれて」

……お前のためだけじゃない。……怖かったんだ、他の人に知られるのが

やっぱり青木はすごいな。自分の気持ちがちゃんとわかって、正直に言えて

「すごくねーだろ、わかるだろ自分のことだし。変な奴……」

井田は青木の行動が自分を守るためだったことを理解したことを伝え、青木は同性愛差別への恐怖が井田の思いをスルーさせていたことを認めます。ふたりとも「同性愛差別」が前提としている異性愛規範に傷つけられてきたことを共有することで、青木にとって再び井田は味方になり、素直な思いを伝えられるようになります。そして井田は、自分の思いを言語化して伝えられる青木に共鳴し、青木に思いを伝えます。

「俺もはっきりわかった」

「ん?」

俺、青木がちゃんと好きだ

「なぜに!?嘘だろ!?」

「嘘じゃない」

「でもお前、からかってばっかで、俺のこと馬鹿にして」

「馬鹿にしてない。お前の反応が見たかっただけなんだ。お前が、照れたり焦ったりしてるのかわいいから。……青木のそういう顔見ると、……いつも胸が苦しくなる。ただの友達とは思えない

「わ、わかったから、もう、もう十分。ちょっとタンマ」

「つまり、お前が好きなんだ。……悪かったな、時間かかって」

「いいよ、ちゃんと考えてくれたんだって、わかったし」

「青木。……俺ともう一度、付き合ってくれないか」

「……まあ、お前がそこまで言うなら、別にいいけど?」

「俺たち、両想いってことでいいのか?」

「いちいち口に出さなくてもわかるだろ、んなこと!!」

「……よかった」

練習試合のときは「俺、青木が好きなのかな?」と問いかけていましたが、ようやく井田は「好き」を自分の感情としてちゃんと獲得したことを読み取ることができます。そして、青木と井田をすれ違わせていた行動が「お前の反応が見たかった」ためのものだったと説明されることで、井田にとっての「好き」は、好きがわからないままであっても「青木に応答しようとすること」から、「ただの友達とは思えない」感情を自分の中に生み出す、井田自身にとって固有のものになったと理解することができます。

井田から口にされる「もう一度付き合う」も「両想い」も、異性愛規範による分断を乗り越え共にいる存在として、「これからは困ったことがあったら、何でも相談しろよ」「付き合うってよくわかんねえけど、ふたりでいろんなこと話しあったり、助けあったりするんじゃないのか?」「少なくとも俺は、お前が困ってたら助けたい」をふたりでやっていこうとする意味合いなんじゃないかな、と考えます。

クィアリーディングすることで、この作品は「井田が青木との関わりを通してAロマンティックなアイデンティティを獲得し、非恋愛規範的な関係を築いていこうとする」「異性愛規範によるクィアの分断を乗り越え、連帯しようとする」というふたつの軸で進められていると解釈しました。

Aロマンティックなアイデンティティを獲得する過程で青木に向ける「好き」が恋愛伴侶規範に組み込まれることに抗い、井田の「好き」は「よくわからないもの」から「わからないまま、青木の好意を受け取り応答しようとすること」、そして「他の関係と比較して理解されるものではない、固有の思い」へと変化し、自分の感情として獲得できるようになりました。

また、同性愛差別への恐怖から逃れられない青木と、不可視化というかたちでアイデンティティを抹消され続けてきた井田は、その経験の違いのために分断されそうになります。しかし、学校の中で差別に巻き込まれず安全にいられるように周囲の人々に働きかけていた青木の思いを知った井田は、青木が押し殺そうとした思いに応え、そして自分の井田に対する固有の感情を伝えるべく、井田のもとへ向かいます。一度は追い出された学校という場所で、ふたりは互いを思い、異性愛規範が生み出す差別から守ろうとしてきたことを共有し、居場所を取り戻します。Aロマンティックなアイデンティティの獲得とクィアの連帯との結びつきが丁寧に描かれた、エンパワメントを感じた作品でした!!!