越前・朝倉山城と朝倉景連 (original) (raw)

越前・朝倉氏一族である朝倉景連(あさくら-かげつら)の居城となったことから、朝倉山城(あさくらやま-じょう)と呼ばれている模様です。
朝倉景連は、朝倉景伝または朝倉景宗の子として生まれました。
この朝倉景連の家は、代々一乗谷にて奉行として活躍しています。
通称は、朝倉玄蕃助景連です。

主君は朝倉義景で、前波景定、小泉長利、河合吉統らと共に、朝倉景連は行政面を担当しました。
例えば、但馬の赤渕神社に書状を送るなど外交面でもその名が見られます。

弘治元年(1555年)、朝倉宗滴を総大将にした加賀一向一揆の討伐では、朝倉景連も参加して津葉城を陥落させています。

永禄4年(1561年)4月6日に、朝倉義景が棗庄大窪の浜にて犬追物を開催した際には、奉行職の朝倉景連が500余人の家来と共に、主君を上回る豪勢な出で立ちで現れたため、周囲を驚かせたとあります。
これは、伝統行事を復活させることに、朝倉景連が熱心だったからとも言われています。
鎌倉時代・源頼朝が由良が浜の犬追物した時よりも、盛大であったと評されています。

また、永禄5年(1562年)、朝倉義景の継室・近衛稙家の娘の叔父とされる大覚寺儀俊を歓迎する酒宴にも、朝倉景連の名が見られます。

永禄9年(1566年)を最後に、奉行から名が見えなくなっており、永禄11年(1568年)、足利義昭が朝倉義景邸に御成りした際にも名が無いことから、この頃までには死去したと考えられています。

三国に近い鶉(うずら)に高い朝倉山は福井県福井市深坂町にある標高173mの山城で、山頂が主郭となり、周囲には郭(曲輪)がめぐらされていました。

朝倉家が滅びたあと、一向一揆が越前を支配した際には、朝倉山城にも一揆軍が立て籠もっています。

日吉神社脇から登山道があるようですが、駐車場はありません。

なお、茅野にも朝倉山城(塩沢城)、高知にも朝倉山城と言う同名の城がありますので、調べる際には混同しないよう注意が必要です。

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