紀伊・亀山城 湯川氏の本拠地である御坊の詰城 (original) (raw)

紀伊・亀山城(かめやま-じょう)は、標高118mの亀山に築かれた山城で比高は110m、和歌山県御坊市湯川町にあります。
別名は湯川城、丸山城とも言います。

最初の築城時期は不明ですが、麓にある湯川氏館を本拠とした湯川氏が、詰めの城として築いたものと考えられます。
紀伊・亀山城が築かれたのは南北朝時代ともされ、その場合、湯川光春が築いたとも伝わります。
主郭部の周囲を巡る大規模な土塁があるそうですが、恐らく戦国時代に入ってからの改修でしょう。
ただし、詰めの山城として規模も大きいので、戦国末期には本城格として使われたかも知れません。

湯川氏11代・湯川直光は1549年に、平時の屋敷として、山城の麓に紀伊・小松原館を新たに築いたとされます。
戦国時代には生きるか死ぬかの争いが頻発しますが、わざわざ平城を築いたのは「紀伊・亀山城は寒風の季節は住みにくい」との理由があったと史料にあります。
紀州ですので、暖かいのではと言うイメージですし、北陸や東北の武将からは怒られそうですが・・。

紀伊・亀山城

1585年、豊臣秀吉の紀州征伐の際に、仙石秀久中村一氏らが、紀伊・亀山城へ迫ります。
このとき、12代・湯川直春は小松原館を焼いて、山中に籠ってゲリラ戦を展開しました。
湯川衆である山本康忠の龍松山城に入って3ヶ月間籠城したともあります。
神出鬼没のゲリラ戦に悩まされた豊臣勢は、和睦して湯川氏の所領を安堵しました。

紀伊・亀山城

こうして、紀伊国羽柴秀長に与えられ、近くの紀伊・入山城には青木一矩が入りました。
そして、羽柴秀長の大和・郡山城を訪問して挨拶しようとした湯川直春は暗殺されて、湯川氏は滅亡しています。
紀伊・亀山城の本丸跡には、城址碑と湯川氏供養塔があるそうですが、全盛期は全山に曲輪が築かれた大規模な山城だった模様です。

登城口は三明寺からとなります。
道路がありますが、関係者以外の車両は進入禁止となっていますので、徒歩で登る形になります。
亀山城址一帯はミカン畑になっていますが、ハイキングコースでもあり、津波の避難場所にも指定されていることから、整備はされています。

本丸からの展望は素晴らしく、南の平野部には小松原館、西には紀伊・入山城、東には玉置氏の紀伊・手取城が見えると言います。

交通アクセス・行き方ですが、JR紀勢本線の御坊駅から登城口まで徒歩約15分となります。
このあとは、小松原居館跡に行きました。

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