【文字起こし】2024年9月22日一部『きょうのみことばを握りましょう』(ヘブル3:7~19) (original) (raw)

【文字起こし】2024年9月22日一部『きょうのみことばを握りましょう』(ヘブル3:7~19)

https://www.youtube.com/watch?v=73vwAUMHdbA

"ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、

荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。

あなたがたの父祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。

だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。

わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」

兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。

「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。

もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。

聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。

神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。

また、わたしの安息に入らせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。

それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。"

ヘブル人への手紙 3章7~19節

聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

1部「きょうのみことばを握りましょう」(ヘブル3:7~19)

神様は皆さんを伝道者として呼ばれました。皆さんが伝道者の務めを果たすことができるために必要なことは3つです。1つはみことば、2つ目は祈り、そして3つ目は伝道ということです。このみことばと祈りと伝道、それが毎日皆さんに臨むこと、それが伝道者の生活です。それで今日のみことば、今日の祈り、今日の現場伝道というように3つの今日と言われています。

この3つの今日の中で1番大事なのはみことばです。今日のみことばです。今日のみことばがないのに現場に伝道に行っても伝道はなっていきませんし、今日のみことばを握っていないのに祈ろうとしたならば、それは自己中心、自分の願い、ただ自分の欲望だけを神様に祈ることになってしまいます。

ですからみことばがまず最初に与えられて、そしてそのみことばを握って祈り、そうすると神様の祈りの答えが現場で与えられるということです。それが伝道者の生活です。それで今日は「今日のみことばをしっかり握りましょう」というタイトルですから、なぜみことばをしっかり握らなければいけないのかということが、今日お読みしていただいた聖書の本文に記されていたことです。昔あったことがこのようにして書かれている、その目的は神様が戒めのために、あるいは教訓のために残してくださっているとあります。そのようなことが書かれているために、私たちはそのような同じ轍を踏まないようにしようと、そのような信仰生活の戒めとなります。また教訓となります。

それで今日のみことばを見ていきたいと思いますけれども、まず第1番目に、この世の中全体というのはどのように皆さんには見えるでしょうか。この肉の目で見ると、場合によっては素晴らしいと見えたりし、あるいは本当に世の中に惹かれる心を持って生活している人たちがたくさんいますけれども、この世全体っていうのは第1ヨハネの手紙の5章の19節に「悪いものの支配下にある」とあります。

この悪いものというのは人間を指しているのでしょうか。人間がこの世を支配しているのでしょうか。そうではありません。それは悪魔という「死の力を持つもの」です、とヘブル人への手紙の2章の14節にありました。この世の支配者として悪魔がこの世を治めているということです。キリストが来られた目的は、この世に対して、そして悪魔に対して勝利しましたとあります。

YouTubeでこの礼拝のメッセージをご覧になっている方からこの質問が来ました。「キリストがこの世、悪魔に勝利したということはどのようなことですか」と。その方はこの意味が分からなかったようですから、神様の恵みで悟らせていただく以外ありませんから、もう1度説明したいと思います。

この世というのは、先ほど本文にありましたようにエジプトがこの世の象徴です。エジプトの象徴はピラミッドですから、ピラミッドでこの世を表すと、悪魔がこの世の王として王座についているということです。目には見えませんけれども、悪魔がこの世界を支配しています。そしてそのしもべである堕落した霊、天にいる諸々の悪霊がこの悪魔に仕えて、人間の中に入ったり出たりしています。

しかし悪魔の存在も悪霊の存在もこの人間は分かりません。なぜでしょうか。一生涯、この悪魔という「死の力を持つもの」の奴隷となっているとあります。自分が奴隷となっているという自覚もありませんから、一切この目に見えないこの存在が分からないということです。人間の学問であるとか、知恵であるとか、理解力では目に見えない世界を正しく知ることはできません。しかしその現れを見るならば、「あ、本当に一生私は死の恐怖につながれて奴隷となっていたものだ」ということが分かるようになります。

大体普通の人間は死が怖いと、そのように生きています。それがこの悪魔という「死の力を持つもの」に縛られているという状態です。それからこの世というものは、私中心ですから、この「私」というのは、お金さえあればというそういう考えに縛られています。今自分が色々問題があって苦しいのはお金がないからだ、お金さえあれば全てが解決する。しかしお金があったからといって世の中の全ての問題は解決しません。

また自分が世の中の快楽とか、あるいは堕落した生活をしていればそれも幸せかなと思う人もいます。好き勝手な生活をするということです。しかしそのような生活もその人に本当の喜びとか満足は与えません。ある人たちは、私の名前がこの世の人たちに認められれば幸せかなと思います。しかしどんなに有名になったからといって幸せになる、そういうことはありません。時には本当に世の中の有名な人が自殺してしまうことがあります。お金もあり、世の中で色々な快楽を味わっているのに、なぜと思うようなそういう人たちもいます。

こういうニュースが出ましたけれども、50を過ぎた息子が非常に子供の時からカレーライスが好きで、自分の実家に帰るとお母さんがその好物のカレーを作ってくれていた。里帰りをした時にそのカレーを食べて、次の日の朝そのカレーを見るとなくなっていた。お母さんに「あのカレーはどうしたの」と、また食べたいと思っていたわけです。お母さんは近所の人たちに「おすそ分けした」とそのように言った時に、その息子がお母さんに暴力を振るって「お前なんか死んでしまえ」とそのように暴言を吐いたそうです。すると本当にそのお母さんは自殺してしまったということです。

裁判があって判決が出たというニュースですけれども、その裁判官の言葉は「あなたをそのように狂わせたのはお酒です」と言いました。なぜかというとその男の人は、楽しかったらお酒を飲んだらその楽しみが2倍になり、怒っている時にはその怒りが酒を飲むと2倍になるとそういうような証言をしていたために、「酒を断ちなさい」とそういう風に勧めたそうです。酒を断ったらこの人の問題は解決するでしょうか。決してそんなことはありません。

このサタンの支配という世の支配という、この枠の中から出なければ本当の解決にはなりません。そのためにはどうしたらいいのでしょうか。方法はただ1つだけです。それは自分が住んでいる家の入り口、そこに血を塗るということです。これは何を意味しているのでしょうか。それはキリストの十字架を信じるということです。キリストが十字架でその死によって、悪魔という死の力を持つものを滅ぼしたとあります。まことの王としてキリストが十字架の上でサタンを滅ぼされました。ですからその十字架を信じるということです。その血によって私たちを罪と死の原理から解放してくださいました。

罪と死の原理から解放されたということは何を意味しているのでしょうか。一生涯死の恐怖に捉えられている私たちをその恐怖から解放したということです。本当にキリストを信じたという人はもう死に対して怖いということはありません。なぜかと言うと、死ぬということは眠ることであり、眠ることは神の国で再び目を覚ますということですから、何も恐ろしいことは1つもありません。

それでこの玄関に血を塗ったということは、このキリストの十字架を信じたというそのしるしの現れです。するとこの人はどうするのでしょうか。この人は必ずこの道を行くようになります。この道とは何でしょうか。ヨハネ福音書の14章の6節、「私が道であり、真理であり、いのちである」と、そのイエス様がおっしゃったことばの通りに、ここには海があります。海があって普通の人には絶対に渡ることができませんけれども、モーセはこの海に向かって杖をあげました。するとこの海の中に道ができました。この道ができたところを渡ったということです。これを聖書で救いと言います。

「あなたがたは全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」とイエス様が言われました。「福音を信じてバプテスマを受ける者は救われます」。それが約束です。ですからこの時はモーセにつくバプテスマを受けましたけれども、今私たちは父と子と聖霊による三位一体によるバプテスマを受けたということは、2番目の荒野に入ったということです。

荒野の目的は何でしょうか。これは信仰の訓練です。荒野は何もない、ある意味で非常に恐ろしいそういうところですけれども、この荒野でなければ味わうことができないそういう訓練があります。それは何でしょう。なぜ、何でしょうか。目に見えないサタンがいるというようなことだけではなくて、目に見えない神の国があります。神の国の中心に御座があり、御座にキリストが着座しておられます。十字架で死なれたキリスト、3日目に死者の中から甦り、そして今天に昇って父の右の座についておられるキリストがおられます。

十字架の上で全ての問題を完了したと、終わらせてくださったのでもうそれ以上何もしてくださらないということはありません。御座についておられる方が今の私たちに対して3つの働きを同じようにしてくださっています。

1つ目の働きは、大祭司、油注がれた方として、この大祭司の働きを今もしておられます。それはどのようなことでしょうか。荒野に入ったならば、まずすることは幕屋を立てるということです。幕屋を立てる目的は礼拝を捧げるということです。恵みのゆえに信仰によって救われた人たちは、神様の前に出て礼拝を捧げたい、そのように思うようになります。しかし勝手に神様の前に出ることはできません。それで大祭司が生贄を捧げます。この生贄の血が流されることによって、私たちは神様の前に近づき、神様と交わることができます。これが大祭司の働きです。

それからキリストは油注がれた方として王の働きです。王の働きは何でしょうか。それは先週のみことばに皆さん1人1人が神の家であるとありました。イエス様をキリストとして信じた、それは神の子どもとなる特権が与えられました。悪魔の子どもから神の子どもに身分が移りました。それが神の家であると言われました。王として神の家である皆さんを治める、それがキリストの働きですから、どのようにして治めるのでしょうか。この荒野の過程を守り、導き、養ってくださるということです。

そのために雲の柱、火の柱、目に見えるような形で神がここにおられるということを証しするのがこの雲の柱、火の柱です。今はそうではなく、皆さん1人1人に仕えるように御使いを遣わしてくださっている、これが王としてのキリストの働きです。

それからもう1つ、キリストの働きは何でしょうか。それは預言者です。預言者として働かれるということは、みことばをくださるということです。今日のみことばをくださる。今日のみことばだけではなくて、これからどのようなことをご自分がしようとしておられるのか、その皆さんの行くべき道を前もって与えてくださるということです。

この約束の地に入る前に申命記がありますけれども、その申命記を読むともうすでにあなたたちはこちらの地に入るから、入った後でこの地でどのように生活をするのかということがもうそこで前もって預言されています。ですからもう入ることは神様にとっては確実なことだということです。問題は聞いた人たちがその神様のみことばを信じないということです。それが今日の本文でした。

人間にとって1番悪いもの、その人間の心に1番悪いものとしてあるのは不信仰の悪い心だとありました。この不信仰というのは何でしょうか。それは3つありますけれども、1つ目は固くなな心ということです。固くなな心というのは、言い換えれば頑固な心ということです。その石のような頑固な心があるとどうなるのでしょうか。それは罪に惑わされているそういう状態であるために、みことばがその人の心に入っていかないということです。神様がどんなに今日御声を聞かせてくださったとしても、もう心の扉がシャットアウトされて入っていかないような状態になってしまっている、それが固くなな心という状態です。

それから2つ目は、神様を試みる、試すという心です。「本当に神様、あなたがそのように願っているならば、目に見える証拠を私に見せてください」というのがこの神を試みる心です。神様の側から言えば、もう散々神様は目に見える印としての証拠をこの契約のために与えました。海が2つに分かれて道ができるなどということを経験することができたのはこの人たちだけです。もう他の人たちはこんな経験をしたい、見たいと思っても誰もできません。雲の柱、火の柱が目に見えるように現れる、それももう神様が共にいるということの証拠です。朝目が覚めると自分の家の前には天からマナが落ちてきます。目に見える食料が与えられます。水がない時には岩から水が流れてきました。神様の側から言えば、もう散々目に見える印としての証拠は与えたでしょうと。それでもなおこの不信仰な悪い心っていうのは、また証拠を見せてくださいと。つまり信仰はないっていうことです。信仰は見えないその神様のことばを本当だと信じるのが信仰ですから、この神様を試みるというのは不信仰の現れです。

それから3つ目は、常に迷うそのような心であるっていうことです。それは神様の道がはっきりと示されています。神様の道はこの荒野から約束の地カナンの地に入る、もうこれは明らかなことです。ここ以外に神様のみこころ、ご計画はどこにもありません。しかしこの不信仰な心というのはどういう行いに出るのでしょうか。それは不従順な行いに出るっていうことです。不信仰と不従順というのはコインの裏と表のような関係で、いつも一体になっています。心が不信仰であるならば、その行いは不従順です。

この不従順の現れというのは何でしょうか。もちろんその背後には悪魔に惑わされるということもありますけれども、「あ、私たちはもう1度エジプトに帰りたい」と、エジプトにいた時の方が幸せだったというように惑わされる、そういう状態が不信仰ということです。それから「神様はなぜ私たちをエジプトから荒野へ導き出したんだろうか。それは私たちをこの荒野で死なせるためなのか」というふうに言いました。つまりこの荒野というものが神様が私を呼んでくださった目的地なのかということです。決してそうではありません。これは契約の予定の1つの訓練の時刻表というだけです。この訓練を通らなければ約束の地に人は入ることができません。それで神様はあえて荒野で契約の民を訓練します。ところがその訓練の中で「ああ私たちを殺すために神様はここ荒野へ入れたんだ」と、それは不信仰な悪い心です。

神様のみこころはこのヨルダン川という川の水が流れている、そこに道を開くことです。ここに必要なものはただ信仰だけです。こちらは海が分かれてもうすでに道が見えましたから、誰でもある意味で渡ることができます。ところがここはまだ目の前には川が流れていますから、とてもここに道があるということは信じることができません。それで先ほど聖書の中では、エジプトを出た全部がその滅んでしまったかのような、エジプトを出た全員じゃないですかという、そういう書かれ方がしていましたけれども、全部ではありませんでした。この中でこの信仰を持った人たちが、大人で言うならばカレブとヨシュア、この2人は信仰を持って「是非ここに行きましょう」と言いました。他の人たちは「行けない、絶対不可能だ、無理だ」と言いました。それで荒野で40年彷徨いながら屍をさらしましたけれども、その子供たちが、エジプトを出た時にはまだ子供であった、その子供たちが40年の間成長して次世代の子供たちが中心になりました。

その子供たちはこの自分たちの親の不信仰には習わないと、親のその不信仰に習ったならば自分たちも同じ目に遭うということを目の当たりにしましたから、ヨシュアとカレブについていく、そのような信仰が与えられました。それは3番目に神様がアブラハムと結んだ契約、アブラハムの子イサク、ヤコブと結んだ契約でした。エジプトで彼らが奴隷であった時に、彼らのその苦しみ、叫びを神様が聞かれて、そしてモーセを遣わして、アブラハムに約束した通りに乳と蜜の流れるこの非常に良い地にあなたがたを導き出していく、そのように神様は約束されました。そして信じた人たちはカナンの地に入りました。

これは何を意味しているのでしょうか。この契約に対して私たちは「今日、もし御声を聞くならば」とあります。御声を聞かなければならないということです。神様が契約のためには必ずみことばを与えてくださいます。それは預言者、まことの預言者であるキリストが皆さんにこれから行くべき道、未来について語ってくださるっていうことです。そのためにはやはり神様の声というものが聞こえるように集中しなければなりません。「主よ、私にお語りください」と集中しなければ、エリヤに神様が語られた時のような、かすかな細いみことばを聞き分けることができません。雑念だとか世の中の声とか人々の声とか、それがみんな不信仰な悪い声ですから、その悪い不信仰な言葉に皆騙されてしまいます。

エス様を信じて救われて荒野に入った人たちが、この約束の地に入れないということがたくさんあります。それは不信仰になってしまって、この約束の地は自分たちに与えられたものではないと、そのように騙されているということです。昔はこのカナンの地に入るということでしたけれども、今は何でしょうか。それは世界福音化、これが神様が今伝道者として呼ばれた皆さんに契約として与えてくださっていることです。創世記の12章1節から3節、アブラハムの契約のように、アブラハムの子孫として召された皆さんに対して、あなたによって全ての民が祝福を受ける。私たちはこのカナンの地にいるその人たちを生かす、そういう使命があります。

このカナンの地にいる人たちはどのような人たちでしょうか。バアルとアシェラという偽預言者に騙されて偶像礼拝をしている、そのような人たちです。まさに日本と同じ状況です。そのような人たちに私たちはこの「イエス様はキリストです」という正確な福音を伝えて、99%の異邦人を生かしていく、それが日本福音化という神様が準備しておられる道です。

それで今日「もし御声を聞くならば」とあります。信仰がなければ神様に喜ばれることはできません。神様が喜ばれる信仰というのはただ1つ、キリストを信じる信仰だけです。キリストを信じる信仰、その信仰を皆さんが今持っているということは、その信仰によって勝利するということです。必ずイエス様は「私は世に勝ったのです」。悪魔はまことの王であるキリストによって、その権威が完全に踏み砕かれました。私たちはそのことを信じていますから、イエスはキリスト、全ての問題は完了した。それで約束の地、日本福音化のために私を、皆さんを呼んでくださった、その契約を握って神様の御声についていく、それが今日のみことばということです。

講壇から語られるその神様のみことばが私に与えられた契約であると、そのように握って勝利する皆さんお1人お1人となりますように、主の御名で祝福をお祈りいたします。

父なる神様、恵みを感謝をいたします。「もし今日御声を聞くならば」とありました。どうかその細い神様の声を、私のための契約であると信じて心に釘のように打ち込むことができますように信仰を与えてください。イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。