近江ミッション(1)近江商人について知る (original) (raw)

7月29日に琵琶湖東岸の近江八幡に行った話の続き。
今回は近江商人のことを書きたい。
(情報元は主にWikiと観光情報)

近江商人はほぼ近江八幡市出身かと思っていたが、違っていた。
確かに、寝具の西川の創業者 西川仁右衛門が出ているが、他の地域の人も多い。
近江商人は、近江(滋賀県)出身で外に商売に行った人のこと。

近江全域から商人が出たのではなく、商人を多く輩出した地域には偏りがある。
また活動時期や進出地域、取扱い品目などが異なる。
近江商人を4グループに分けると、琵琶湖北西部の高島商人、湖東部の八幡商人、日野商人、湖東商人になる。

近江商人が創業し、現在も元気な企業は、
西武グループ 堤康二郎(愛知郡)
髙島屋 飯田儀兵衛(高島郡)の婿養子 飯田新七が創業
伊藤忠商事 伊藤忠兵衛(犬上郡
トヨタ自動車 豊田利三郎彦根
日本生命保険 弘世助三郎(彦根
などなど多数ある。

このように近江から多くの豪商・起業家が出た理由は、
・湖を船で移動できた
・湖があるため農地が少なく、農民が困窮し次男・三男が商人になった
楽市楽座の政策により商売が盛んになった
東海道中山道北陸道などが通り、交通の要衝であった
などと言われているが、上2つは事実と異なるようだ。
近江商人は主に陸上を移動していたし、農民は暮らしに余裕があった。
また、近江の人の進取の気性もあったと私は想像する。

という知識を入れて、近江八幡の旧市街で商家などを見て回った。

景観保全区域
モノトーンの建物がきれいに維持されている
真ん中の木が「見越しの松」
わざと塀を超えるように植えた松が、内に籠らず世間をよく見るよう諭している

白雲館
1877年、子供の教育充実を図るため建設した八幡東学校の校舎
大半は近江商人の寄付で建設
現在は観光案内所に

白雲館の2階の階段

旧 伴家住宅
八幡を代表する商人 伴庄右衛門の邸宅
後に、八幡西学校、尋常高等八幡小学校として利用される

八幡小学校
その後、小学校を統廃合し、1917年に現在地に建設された校舎、田中松三郎の設計
こちらも多額の寄付あり
こういう小学校に通ったらさぞやる気が出ただろう

西川甚五郎
寝具の西川の初代仁右衛門から12代当主までが暮らした邸宅
仁右衛門は1587年に「山形屋」を創業し蚊帳や畳表などを生業とした
2代甚五郎は、萌黄蚊帳を考案し西川家の基礎を築いた
11代甚五郎は、明治維新後に伝統的な蚊帳が衰微した後、西川産業として様々な事業を展開し「ふとんの西川」の祖とされた

旧西川邸宅
典型的な近江商家の面影を残す邸宅
今日(月曜)は見学はお休み

日牟禮八幡宮
長い由緒については以下を参照されたい
由緒 - 日牟禮八幡宮
名前の由来は、このリンク先によれば、272年に応神天皇行幸されてこの地で休憩された後、太陽が2つ見えるという吉兆があったため、祠を建てて日群之社八幡宮と名付けたのが始まりらしい
その後、皇室や将軍家の崇敬を受けながら近江商人の信仰を集めてきた
徳川家康関ヶ原決戦の後に参拝した

鳥居 白雲館の2階から撮影

楼門

本殿

以上、近江商人の商家や関連する建物を見てきた。

どれも当時最高の技術を使って建てられたものだろう。
立派な建築物は地元住民の誇りになるだけでなく、建物を使う人をやる気にさせるのではないかと思った。

次回は、「青い目の近江商人」と呼ばれたヴォーリズ氏について。

(つづく)