そういちコラム (original) (raw)
デマに騙されないための考え方について、科学史家・教育学者の板倉聖宣(1930~2018)は、1964年に高校生向けの雑誌に発表された文章で、こんなことを述べています。
“相手のデマや宣伝にひっかからないためには,相手の言い分にのって,こまごました議論や行動にインチキがないかどうか、一つ一つ緻密にたしかめていっても,なかなかそのまちがいに気づかないことが多いものですが,おおまかでもよいから,もっと広い視野にたって問題を考え直してみると,案外相手のまちがいがみつかるものなのです。”(「デマ宣伝を見破るには」『板倉聖宣セレクション1 いま、民主主義とは』仮説社)
そして、板倉は「“もっと広い視野で問題を考え直す”とはどういうことか」の事例として、科学史におけるコペルニクスの天動説などをあげて論じているのですが、もっと簡単な、子どもにもわかるシンプルな例として、こんなことも述べています。
“手品のトリックを解きあかすことは多くの場合むずかしいことです。しかし,それが手品であり,インチキであることだけは,ちょっと視野広く考えなおしてみれば明らかです。弁当箱からいくらでも卵がでてくるものなら,手品師は,卵屋になった方がもうかるはずですから!”(前掲「デマ宣伝を見破るには」)
「弁当箱から卵を出す手品」の例は、1960年代前半という時代を感じさせます。ここを現代風にいえば「手のひらからお金をいくらでも出すことができるなら、マジシャンは大金持ちだ!」といった感じでしょうか。
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この板倉の言葉を、私たちは肝に銘じたほうがいいでしょう。
つまり、情報に向き合ってその真偽について真剣に考えようとするとき、「おおまかでもよいから、もっと広い視野で問題を考え直す」ということを心がけ、実践してみるとよいと思います。
たとえば、「あなたや限られた人にだけ、特別な投資案件を教えます」という話には、「なぜ、その投資話をこの人は独り占めしようとしないのだろう?そのほうが儲かるのでは?」ということを、まず考えてみるわけです。
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では、「兵庫県知事は、既得権を牛耳る闇の支配者たちと戦ったために、陰謀によって失職に追い込まれた」というストーリーは、どうでしょうか?
そのストーリーは、こまかいことも含むさまざまな説明によって、真実らしく感じられるのかもしれません。
しかし、一市民である私たちは、その具体的な内容の真偽を直接にたしかめることはできません。それができるのは、現場取材のリソース(組織・ノウハウ・時間など)を持つ報道機関やジャーナリスト・研究者といった専門家です。
ここでは、できる範囲でおおまかに「もっと広い視野で問題を考え直す」ことをしてみましょう。
たとえば、つぎのようなことを考えてみるわけです――「県議会において、全会派が一致して知事に対する不信任を突きつける」「一知事を失脚させるために、マスコミを片端から動かして世論を操作する」などということを工作できる強大な権力は、はたして今の日本に存在しうるのか?
今の中国における共産党やその指導者のような権力なら、自国内においてそれは可能かもしれません。
しかし、中国共産党は「闇の権力」などではなく、その存在じたいは誰の目にも明らかです。社会の隅々まで支配する強大な権力というのは、おおいに目立つものです。
ただし、中国のような国家においては、地方の首長くらいは、まわりくどい工作などしなくても、むき出しの権力を発動させて失脚させることになるのでしょう……ここでは、「強大な権力は目立ってしまう」ということを言いたいわけです。
だから、今回のように兵庫県知事を失脚させ得る強大な権力が仮に存在するとしても、私たちがその姿を捉えにくい、これまで気がつかなかったような存在であるとは、ちょっと考えにくい。
だとすると、知事が議会から不信任となったのは、闇の権力の陰謀ではなく、やはり議員たちがそう判断するに足る、それなりの問題・不祥事があったことを示すのではないか……
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たとえば以上のように考えてみる、ということです。
ただし、これは陰謀論を論破しようとしているのでありません。自分とはちがう考えの人を説得して、その考えを変えさせるのは、きわめて難しいことです。それはまた別次元の話になります。
ここでは、他者の論破・説得ではなく、「自分が騙されない」「騙されないように自分の考えを整理・確認する」ための考え方について述べているのです。
そのテーマについて、板倉という学者は、今から60年も前に非常に大事なことをわかりやすく述べてくれていると思います。よかったら、参考にしてみてください。
「何が嫌われているか」を見出し、それを徹底的に攻撃すること――それが現代の選挙ではきわめて重要である、ということを、このブログでは、このところ何度か述べています(都知事選やアメリカ大統領選関連の記事)。
経済成長が見込めなくなった、将来への期待を抱きにくい社会では、そのようなネガティブな感情が大きな影響力を持つ、ということも以前に述べました。
今回の兵庫県知事の選挙でも、上記の主張はあてはまると思います。
では、この知事選における「嫌われている存在」とは何か?
それは、「多くのふつうの人たちにとってイメージしやすい既得権の側の人たち」ということになります。
つまり、生活するなかで視界に入ってくる、自分よりも優遇されていると思える人たち。
たとえば、失職して今回当選となった知事と対立している、県庁職員などの公務員の人たちはまさにそうです。
そして、地元の経済的・政治的利権に何らかのかたちで関わっている人たち。大手マスコミの高給取りのエリートや、マスコミで発言する知識人もそうです。
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私も、これらの「既得権」の人たち、あるいは「優等生」といえる人たちには、いろいろな問題があると思っています。しかし、この人たちの持っているものは、たかが知れているとも思います。
説明は省きますが、それは「中流」「中産階級」レベルの既得権に過ぎません。いわば「中くらいの(あるいは小さな)既得権」です。
しかし、世の中には、「支配層」と言えるレベルの、もっと巨大で強力な既得権というものがあるはずだと、私は思います。しかし、それは当然ながら、私を含め多くの有権者の視野には入りにくいはずです。
「あいつらばかりいい思いをして…」という不満は、「雲の上」よりも自分に近いレベルのところにまず向けられるものです。
アメリカの例でいえば、大富豪や巨大企業の持つ利権よりも、移民のようなマイノリティ的な立場の人びとへの優遇や福祉のほうに、かなりの人たちが不公平感を持つということがあるわけです。
私たちの多くは、プライベートジェットやそのオーナーを身近にみることはまずありませんが、政府や自治体から何らかの優遇を受けている人なら、かなりみたことがあります。
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そこで、今回はここでいう「中くらいの既得権」と戦ってくれそうだ(だからマスコミから攻撃されている)、というイメ―ジが形成され、期待を集めた人が当選したのではないかと、私は感じています。
また、そのイメ―ジ・期待は、SNSの言論を通じて形成されたわけです。
このようなパターンは、これからの先進国の選挙においてくり返しあらわれるはずです。
つまり、多くの人にとってみえやすい「中くらいの既得権」に敵対している、という側に(イメージとして)立つことができた者が勝つ、というパターンです。一方、既得権側や優等生側だと思われたら、おおいに不利になる。
また、そのような「勝つ側」に立つうえで、SNSはきわめて有効な道具だということも、今回非常に明確になったと思います。
そして、「大きな権力や既得権の側が、中小の既得権を攻撃する(それによって支持を得る)」傾向が、政治において強くなる可能性(場合により危険)も感じます。そのような構図を、かなりの有権者が、どこまで自覚しているかはともかく、つよく求めている。
そして、今回の選挙でSNSでの真偽不明も含めた情報がおおいに拡散したのは、「中くらいの既得権」を嫌悪する、かなりの有権者が求めている構図に沿ったものだったということです。
とりあえず、今回はここまで。選挙結果に対し、思ったことを早く発信したいと思い、取り急ぎ書いた次第です。
10月の日本の衆議院選挙と先日のアメリカ大統領選挙を通じて、私は「今の政治を動かしている嫌悪感や憎しみは何だろうか」ということを考えました。
何かを嫌い・憎む感情が、今の政治には決定的な影響をあたえていると思うのです。現代の先進国のような、以前ほどの経済成長ができなくなった社会、つまり将来への期待を持ちにくい社会では、嫌悪感のような人間のネガティブな面が強い影響力を持つ、ということです。
そして、私のなかに浮かんできたのは、「教師」あるいは「教師的知性」という言葉です。ここで「教師」というのは、一般な意味合いとはやや異なる、私なりのものです。その「教師」「教師的知性」は今、日本でもアメリカでも、以前よりもさらに嫌われているのではないか。
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では、「教師的」とは、どういうことか。
それは、近代の知識人たちが歴史的に生み出した、「正統」とされる価値観や教義を、社会の現実的な問題解決とは距離を置いた立場で「正しい」ものとして説く姿勢のことです。
「“正統”とされる価値観」とは、たとえば、自由や平等といったことです。最近の政治的な争点にもなっている、妊娠中絶の自由や、ジェンダーの平等は、近代が生んだそのような価値観から派生した考え方です。
そして、「正統」な価値観から逸脱する者を、「教師」は「不適切」だと叱るのです。これは、「優等生」的だともいえます。
断っておきますが、そのような存在は社会に必要です。学校の先生は、まさに上記のような「教師」の立ち位置にあります。それは必要な役割です。
そして、現代においては、政治家や政治的発言をする知識人、あるいはそれを支持する人たちのかなりの部分が、これまで以上に(私に言わせれば必要以上に)「教師」的になっているように思います。これは、たとえば「平等」意識のような、近代的な価値観が圧倒的に優勢になった結果です。
「ポリコレ」とか「キャンセルカルチャー」といった、教師的な人たちが「正統」から逸脱した言動を非難・排斥することに関わる言葉が一般化したのは、社会のある部分における「教師」化をあらわしています。
そして、ここで「教師的知性」と呼ぶ「ある種の知性」に過ぎないものを、知性そのものや知性のすべてだと勘違いしている知識人もいるわけです。たとえば、「○○支持は反知性である」といった言い方。これは、傲慢になっているということです。
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ここで述べたような「教師」的な知性・言動に嫌悪感を抱く人は、当然多くいるはずです。
たとえば、「現実を見ないで格好いいことばかり言っている」といった嫌悪感があり得ます。「平等や人権の理念をふりかざして、真面目にやっている人間が割を食うことになっている」と思う人もいるでしょう。
「教師」やそれに追随する優等生に対して、好きになれないという感覚は、多くの人たちのあいだであるはずです。
社会のなかでかなりの割合を占める人たちは、リベラルといわれる政治勢力やそれを支持する知識人に、「教師」や「優等生」をみているのだと、私は思います。
そして、「教師」に真っ向から批判を浴びせる政治家や知識人に好意を抱くのです。また、その人たちは、万人にとって分かりやすい、届きやすいメッセージで、熱量をもって語りかけてくれる。
一方、「教師」たちのメッセージは、読みにくい教科書みたいなところがあります。かなりやわらかく述べてはいるのですが、頭に入れるのに一定の努力を要します(日本のリベラルや左派の政党のサイトをみてください)。そして、今や最も万人に届きやすいメディアであるインターネットの活用にも不熱心なところがある。つまり、本気で万人に語りかけていないということです。
そこには、自分たちが「正統」であると自負する人間特有の傲慢さがあるのではないでしょうか。「自分たちは正しいのだから、わかってもらえるはずだ」というわけです。
そして、「それほどはわかってもらえなかった」という選挙結果になると、「わからないのは、有権者がダメなんだ」という感じになる。あからさまには言わないにしても、その認識が言葉の端々からにじみ出てしまう。
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私自身は、近代が生んだ「正統」とされる価値観、たとえば人権、自由、平等、法の支配、民主主義を支持・信頼しています。このブログでも、ふつうの教科書よりは読みやすいつもりですが、「教師」みたいなことを述べているところがかなりあります。
そんな私ですが、「リベラル側の人たちは、自分たちに染みついた“教師”的なあり方を真剣に反省し、修正する必要がある」と思っています。
まずは、「万人に語りかける」ことを、きちんとやり直す必要がある。また、「現実の問題解決」ということも、これまでよりも真剣に取り組む必要があるでしょう。要は「現実に向き合おう」ということです。
そういう立て直しをしないと、悪いケースだと、「教師」化を是正できずに衰退するリベラルとともに、近代の偉大な成果であるさまざまな価値観まで支持や信頼を失ってしまうかもしれません。
「風呂の湯と一緒に赤子まで流す」という慣用句があります。「何かを改善するため、不要なものと一緒に大事なものも捨ててしまう」ということです。
汚れたお湯は捨てていいのです。しかし、そのお湯と一緒に、自由や平等や法の支配のような「赤子」まで捨ててしまうようなことは、絶対に避けるべきです。気をつけないと。
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明日10月27日は衆議院選挙の投票日。誰に・どこに投票するか。
さまざまな立場の政党があります。おもな政党のそれぞれの主張には、それぞれもっともなところがあると、私は思います。この「それぞれもっともなところがある」という感覚を、私は大事にしているつもりです。
しかし、自分の考えとぴったり重なると思える政党もみあたりません。それは当然のことです。いろいろ不満があるとしても、ベターだと思う政党や人を選ぶのが選挙だと思います。
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しかし、どの政党に対しても、私が共通して不満に思うことがあります。
それは、ある重大な問題について、明確に方向性を示していないということです。それについての言及を避けている、といったほうがいいでしょうか。
その大問題とは、高齢化などにともなう財政の悪化です。別の言い方をすれば、政策を行ううえでの「財源」の問題です。
経済成長が比較的順調だった時代には、日本政府は「財源」の問題にはあまり悩まなくて済みました。政府が大きくなるのを、成長する経済が支えてくれました。だから、政策的にかなり安定した状態が続いたのです。しかし、1990年頃以降に経済成長が鈍ると、いろんな問題が生じたわけです。
そして現在は超・高齢化で財政は一層深刻な状態になり、経済の生産性を上げることもさらに困難になっている。
そこで、リベラルも保守も、それぞれの政策における「財源」の問題を、説得力のあるかたちで説明するのが難しい。そして、財源確保のための大幅な増税ということは、政治家はなかなか主張できない…
非常に難しい問題ではあります。一刀両断な解決策などないのでしょう。そこで、さまざまな施策や調整を組み合わせて、長期的な視野で細い道をいくしかない。
それは、かなり系統だった政策のパッケージに基づく取り組みであるはずです。
そういう「系統だった政策のパッケージ」という考え方が、今のどの政党にも弱いように、私は感じています。そのパッケージには「財源」の問題が含まれていないといけない。
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「系統だった議論など、有権者は理解できない」という考えもあるでしょう。でも、選挙活動ではワンフレーズでシンプルな主張をくり返すとしても、その背景には、系統だった考えがあって然るべきです。
わかりやすいメッセージと、その背後にさまざまな要素から構成される複雑な考えがあることは、必ずしも矛盾しないと思います。複雑な考えから、シンプルなメッセージを抽出することは、可能です。
しかし、今の政治的なメッセージには、シンプルなメッセージの背後に、同じくシンプルで少ない思考しかないように思えて、不満があるのです。
また、国民はほんとうに「系統だった政策のパッケージ」を理解できないのでしょうか? ほんとうにそういう人ばかりなのでしょうか? そして、議論の詳細は理解できない場合でも「この政党や候補は本気できちんと考えている」と伝わることはあるはずです。
「シンプルな話をしないと、国民に届かない」という考えにとらわれていくうちに、政治家の側の系統的な思考力・構想力が劣化していないか、心配です。
そして、その劣化が起こっているとすれば、それは私たちの選挙における選択が積み重なった結果なのでしょう。
ブログの著者そういちの最新刊。世界史の大きな流れを述べた入門書。2024年2月刊。
大谷翔平選手が「50-50」を達成したときのホームランボールが、日本円で6億6千万円で落札……こういうニュースを見聞きすると、「コレクションされるモノの価値」というのは、そのモノ自体よりも、その背景にある「物語」「コンセプト」のような付加的な情報なのだと痛感します。
あの6億何千万円のボール自体は、モノとしては、少し汚れた、ただの野球ボールにすぎないのですから。
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ドラえもんのひみつ道具に「流行性ネコシャクシビールス」というのがあります(ビールスは、ウィルスのこと)。設定した特定の流行に、感染した人が夢中になるウィルス。つまり、流行を思いのままに生み出せる道具です(ただし感染の効果は期間限定)。
この道具は、『ドラえもん』のなかで複数回出てきますが、ある話では、「ドリンクの王冠のコレクション」を、このウィルスを使って流行らせています。王冠は、もともとのび太が集めていたのです。
そして、この話では、どんどん流行が過熱していき、最後のほうでは「のび太が8月○日に三河屋で買ったコーラの王冠」を100万円で買いたい、というおじさんまであらわれます。それほど高値なのは、「その日に三河屋で売れたコーラは、のび太が買ったそれ一本だけ」だからです。
そのような、「背景となる物語」にバカみたいな値段がつくというわけです。50年近く前の子ども向けの漫画で、このような文化の本質を突く話を展開している藤子F先生、やはりすごい。
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美術品は、コレクションされるモノの頂点といっていいでしょう。そして、その価値・値段は、作品としての表現のすばらしさだけではないわけです。背景にある物語・コンセプトが、その価値のかなりの部分をなしています。
とくに現代美術は、その傾向が強いです。たとえば、有名なバンクシーの作品などを思い浮かべていただければと思います。
そして、生成AIによるイラスト・絵画などの作品は、その表現としての品質が今後さらに向上したとしても、このような「背景にある物語」という点では弱いです。「誰がつくった」ということ自体がはっきりしないのだから、背景や物語など成立しようがない。
そこで、AIの作品にものすごい高値がつくということはないのではないでしょうか。
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いや、それでも将来的にはどうなることか?
「こんなものがヴィンテージになるなんて、昔は思いもよらなかった」というケースは、結構あるわけです。今の中高年が子どものときのゲームソフトが、場合によっては高価な美術品のような値段で取引されたりしているのですから。
AIが発達すると、「歴史や物語を背負ったAI」「ヴィンテージなAI」というのが何らかの形で成立することがあるかもしれません。
たとえば、架空の世界のことですが、映画『2001年宇宙の旅』に登場する、木星探査の宇宙船に搭載されたAIのHAL9000(映画のなかで重要な役回りで、特別なことがこのAIに起きる)が、地球に戻ってきたとして、このHAL9000が絵を描いたり歌ったりすれば、そのオリジナルデータは、たいそうな値段がつくのでは……
でも、AIの描いた絵に高値がつく世界なんて、あまり待ち遠しくないです。ただ、その可能性を、否定はしないということです。
ブログの著者そういちの新刊。世界史の大きな流れを述べた入門書。
私は、30代だった2000年頃から株式投資をしています。
といっても、個別銘柄ではなく、株式投資を行うファンドを複数買っているのです。私が買いはじめた当時、日経平均は1万円を切っており、株式投資への関心は、今よりも低かったと思います。
その後、夫婦共働きでそれなりの給料があった頃には、夫婦それぞれで毎月の積立とともに、ボーナスでファンドを買っていました。
当時の私たち夫婦は、今でいうFIREをめざしていました。
2000年頃からの数年間で、株価がどん底からある程度上昇したこともあり、私たちは30代の会社員としてはかなりの金融資産を形成しました。
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しかし、2000年代半ばに、私は勤めていた会社をやめて起業し、その事業に資産のかなりの部分をつぎこんでしまいました(その事業についてはここでは踏み込みません)。
「つぎ込んでしまった」というのは、その起業はうまくいかなかったということです。私は、借金こそ背負いませんでしたが、「丸裸」に近くなって事業から撤退しました。
そしてその頃、リーマン・ショック(2008年)があり、株価は急激に下がります。私は、資産の多くを株式ファンドで持っていたので、これは痛手でした。
しかし、「株はもうこりごり」となったのかというと、そうではありません。
その後も私たち夫婦は、会社勤めをしていた頃のようなぺースではありませんが、ファンドを毎月買い続けました。
失業状態になって、経済的に厳しい時期もあり、その後も安定した仕事には就いていませんが、ファンドを買うことはやめませんでした。それは今も続いています。
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そして、リーマン・ショック以後、紆余曲折はありましたが、大勢として株価は上昇し続け、ついこの間は「最高値」となったわけです。
今の私の投資額はたかが知れているので、たいした資産にはなっていません。
しかし、この10年余り、ファンドの運用益にはずいぶん助けられました。何か新しいことに取り組むとき(たとえば、妻が自分の書道教室を始めたとき、私がまたもや仕事を辞めて執筆活動に専念しようとしたとき)などに、ファンドの一部を取り崩して、そのための資金・生活費にするということもありました。
そのような資金がなければ、私たちの生活・活動は、もっと制限されたものだったでしょう。
私たち夫婦がファンドを解約するのは、自己都合でお金が必要になったときであり、相場の動きは関係ありません。
これからも、経済的余裕のあるほうではありませんが、株式相場の動きにあまり一喜一憂せず、「長期投資」を続けていくつもりです。
***
以上、株式相場が激動しているなかでの、「長期投資のすすめ」です。経験に基づく、私の想い・考えです。
私は若い頃から「長期投資」を意識的にはじめ、たしかにタイミング的に幸運な面もありました(でも、暴落局面も経験しています)。
その経験から、「(10年単位の)長期投資」という考えを、つよく持っています。
たしかに、先日のように株価が大きく下がればおどろくし、資産の評価額が減るのは悲しいですが、長期投資の考えを捨てるつもりはありません。
でも、この考えは(ちがう前提に立つ)他者と共有するのがかなりむずかしいです。そのことは、この20年ほどずっと感じてきました。だがしかし、共有できる人がいることもたしかです。
そういう「むずかしさ」は承知なのですが、やはりこの機会に「長期投資」について自分の考えを発信したいと思って書きました。
私そういちの著書。ライフワークとして取り組んでいる世界史の入門書。2024年2月にPHP文庫から出ました。
「夢をかなえる」というときの「夢」は、「その夢にどの程度のきびしい定員があるか」という視点で分類・整理ができると思います。
つまり、「その夢・目標をかなえられる人数がどれだけ限定されているか」ということは、「夢」というものを考えるうえで大事な要素です。
そのような「定員」が最もきびしいのが、スポーツ競技の世界です。
オリンピックで金メダルがとれるのは、世界でたった1人。オリンピックに出場できる枠も、きびしく限定されています。
「夢をかなえました!夢はかなう!」と、金メダルをとった選手(とくに日本選手)が喜ぶ姿は、やはりみていてうれしいです。
しかし、その夢をかなえられるのは、世界でたった1人。「ほかの大勢は、夢をかなえられなかった」ということも、私はつい思ってしまいます。
じっさい、夢破れた選手の落胆する姿を、私たちは何度もみてきました。今回のオリンピックでも、印象的なシーンがいくつかありました。
「かなえられる定員は世界で1人(あるいはごく少数)」という点で、オリンピックでの栄冠という「夢」は、非常に特異な「夢」なのでしょう。
***
もちろん世の中には、「オリンピックでの栄冠」よりも、定員がゆるやかな「夢」もあります。
「ある競技でプロの選手になって成功する」→「ある競技で(とにかく)プロになる」→「指導者や関係者として職を得る」……
以上は「定員がきびしい順」で並べたのですが、定員がゆるやかになるほど、「夢」よりも「現実」の要素が大きくなっていきます。
しかしそうはいっても、「ある競技の指導者になる」といったことも、誰もができるわけではありません。相当な鍛錬や就職活動などが必要です。
自分にうまく合うかたちで、「それなりの定員のある夢」を見出し、そこに向かって頑張れると、人生はかなり充実するのではないかと思います。
その過程で「夢」は修正されていくはずです。「定員」がより厳しい方向へいく場合もあれば、緩やかな方向へ修正される場合もあるでしょう。
でも、とにかく目標や夢を失わないという人が、世の中にはいるわけです。それはやはり幸せなことだと思います。
だがしかし、この世界には「それなりの定員の夢」ではなく、「世界でたった1人」という、最もきびしい定員の「特異な夢」を必死に追いかける人たちがいます。
そういう人たちも、もちろん必要です。そして、その姿を、近頃の私はテレビ中継で毎日みているわけです。
私そういちの著書。2024年2月刊のPHP文庫。
「ジャンヌ・ダルクってほんとうにいたんですか」という人と話したことがあります。たしかに「伝説」っぽい人ですが、彼女は実在の人物です。
パリオリンピックが開幕します。「フランスといえばジャンヌ・ダルク(1412~1431)」ということで、彼女をごく手短にご紹介。
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1400年代のフランスに、ジャンヌというごくふつうの、中流の農家の娘がいました。
彼女は17歳のとき、英仏の「百年戦争」で、フランスの重要な都市オルレアンがイギリス軍に包囲され苦戦しているなか、「今こそ戦って国を救え」という不思議な声を聴き、立ち上がります。
彼女は13歳から、そのような「声」を何度か聞いていたのですが、まさに動き出すときがきた、ということです。
彼女はまず、親戚のおじさん(彼女を信じた)に付き添ってもらい、フランス軍の司令官の1人を訪ねます。そして、「王太子シャルル(当時の最も有力な権力者、のちにフランス王シャルル7世)に取り次いでほしい」と懇願し、希望が実現。
そして、最初は半信半疑だった王太子や周囲の学者も、対話を重ねるうちに彼女を信じるようになりました。「神の声を聞いた私が、戦いを率いて国を救う」という、彼女の言葉には、たしかに力があったのです。
王太子は、ジャンヌに数千の兵をあたえオルレアンへ派遣します。そして、オルレアンの軍人・兵士は、彼女の指揮でイギリス軍を敗走させてしまいました。
彼女はそのカリスマ性で、軍隊の士気をおおいに高めました。それだけでなく、彼女は具体的な戦術(どこをどう攻めるか)も打ち出しています。その指揮が有効だったのです。
彼女に会った人は、最初は「この娘、頭がおかしい」と思います。しかし、結局は信じてしまう。
その後、ジャンヌはシャルルにほかの地域のイギリス軍への積極的な攻撃を進言し、その進言を受け入れたシャルルの軍に参加しました。攻撃は、成功をおさめます。
そして、王太子は、シャルル7世として即位。シャルルには、国内にもライバルや敵がいたのですが、それをおさえてのことです。ジャンヌはその即位の立役者でした。
しかし、事態が落ち着くと、彼女は危険人物として孤立していきます。
そして、フランスの政敵側に捕えられ、さらに身代金を支払ったイギリス側にひきわたされてしまいました。国王シャルル7世も、彼女を切り捨てたのです(身代金を国王が支払ってジャンヌをひきとる選択肢もあったが、それは行われなかった)。
捕らえられたジャンヌは、イギリス側とフランスの反ジャンヌ勢力によって裁判にかけられます。そして、「異端(神に反する悪)」の判決をうけ、火あぶりの刑に処せられました。このとき、彼女は19歳。
以上は史実です。 この驚異の出来事は、当時の人びとの信心深さや愛国心の芽生え、苦しいときの「奇跡への願望」などの条件が重なった結果です。
条件がそろえば、「ジャンヌ・ダルク」はまた現われるかも。
***
(以下、妄想です)パリオリンピックの開会式では、最終聖火ランナーはジャンヌ・ダルクの格好をした女性になるでしょう(イングランド人が怒るかな)。
その最終ランナーがドローンに点火し、ドローンがエッフェル塔の先端にこっそり設置された、小型の聖火台に飛んでいって火をともす(エッフェル塔そのものが聖火台)……そんなことを私は期待していますが、どうなることか?
(追記:2024年7月28日)
はてなブログのお仲間である、空飛びネコさんからこの記事に頂いたコメントで「状況が混乱している時に、周辺的な立場から状況を打破する人物が現れると、カリスマとして持ち上げられるが、状況が落ち着くと中心の人々から異端として排斥される」という主旨の指摘がありました。
たしかに、まさにジャンヌはこれにあたりますし、空飛びネコさんもいわれるように、過去にも現在にも、大小さまざまなかたちで、似たような「排斥」の事例はあるわけです。
日本人におなじみの例だと、源義経はそうです。義経には神の声や女性という要素はありませんが、その活躍や排斥された経緯はジャンヌと似ています。「経験のない若き軍事的天才」という点も共通している。義経の活躍で権力の座についた源頼朝は、シャルル7世にあたるわけです。
空想的な歴史ドラマとして「義経は女性だった」という設定(そういう「おんな○○」「ミス○○」というのは過去にもありました)にすれば、日本版の「ジャンヌ・ダルク」になるでしょう。これは、現代的ないろんな視点やテーマも扱えるような気がします。
参考文献
先日、郊外のシネコンでアニメ映画『ルックバック』(押山清高監督)を、夫婦で観てきました。
人気漫画『チェンソーマン』の作者・藤本タツキによる同タイトルの短編(といっても150ページ弱あるそうです)をアニメ化したものです。「上映時間58分」という、多くのスクリーンで公開される作品としては異例の尺。ネット上の評判をみて、「ぜひ観たい」と劇場に足を運びました。
私が観たときは、若い客がほとんど。中高年は私たちと、50歳くらいとおぼしき男性が1人。
私は原作を読んでいません。ほぼ予備知識なしでこの映画を観たのですが、それで(それが)よかった。58分間はすばらしい体験で、おおいに満足して帰りました。妻は途中から泣いていました。
ネタバレになるので、内容には踏み込みませんが、この作品は、「クリエイティブの(絵を描く)仕事をめざす主人公たちの青春映画」です。おもな舞台は、少し前の現代日本。都会ではない、田舎といえる地域(その描き方は、たしかに現代的でした)。
「絵を描く仕事」にあこがれを持つ・持っていた人、それを志して学んでいる・学んだ人、そしてその仕事をしている・していた人が観たら、胸がしめつけられるような、強い感情がわきあがってくるのでは、と思います。
旧ツイッターで、美大卒の方が、そのような感情・感動で「吐きそうになった」と述べているのをみかけたこともあります。
あるいは、絵を描く仕事でなくても、なんらかのクリエイティブな分野に志を持つ・持っていた人なら、同じような感情が起こるかもしれません。
***
私がこの映画の最初のほうをみて、まず思い出したのは、ジブリ映画『耳をすませば』と『魔女の宅急便』です。
これらの映画の主題のひとつは、「自分の才能とどう向き合うか」「才能をどう育てるか、どう生かすか」ということだったと思います。
絵を描くのが上手い、文章が得意、あるいは歌がうまい、足が速いといったことを周囲が褒めてくれて、自分にも自覚があり、その活動が好きだという子どもや若い人がいる。それは素晴らしいことなのですが、悩みや苦しみは、そこから始まる……
2つの作品は、そのことを大事な要素として描いていました。『耳すま』の主人公が向き合ったのは、物語などの文学。『魔女宅』では、空を飛べる力が「才能」の象徴として描かれています。
そして、『ルックバック』は、「自分の才能と向き合う」ことを、さらに真正面から、徹底して掘り下げています。そのテーマが、映画全体を貫いています。
***
58分のあいだに、私は何人かの若い人のことを思い出しました。
私は、学生・若い人向けのキャリア・カウンセラーの仕事を(仕事のひとつとして)、もう10年余り行っています。
これまでにお会いした数千人の就活生のなかには、それなりの人数の美大生や、芸術・エンタメ系の専門学校生がいます。その方面の学科でなくても、いわゆるクリエイティブの仕事をめざす人も少なくありません。
あるいは、「ふつうの仕事」に就職しながらも、創作や音楽の活動を続けたいという人もいる。
この分野で自分の希望をかなえることは、たしかにむずかしい。
しかし、その「狭い道」にあえて進もうとする若い人がいる。
私も、その人の状況・条件をふまえながら、どうにかその「狭い道」を行けないものかと一緒に考えたり、アドバイスをしたりしてきました。そして、やはり「ふつうの仕事」の就職とは異なる、大変な面があることを実感しています。
キャリア・カウンセラーの仕事でこれまでお会いした何人かのことが、頭をよぎりました。
あの人たちは(希望する道へすすんだ人もいるし、そうではない人もいる)、今どうしているだろう……
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また私は、2021年に観た『映画:フィッシュマンズ』のことも、この『ルックバック』から思い出しました。1990年代に活動したバンド、フィッシュマンズについてのドキュメンタリー映画です。
このバンドで作詞作曲やボーカルを担った佐藤伸治さんは、1999年に急逝し、その後は他のメンバーがゲストのボーカリストを迎えてバンドを続けています。90年代当時は、一部で高く評価されたものの、大ヒットには恵まれなかった。しかし、近年は海外でも知られるようになりました。
『映画:フィッシュマンズ』は、「ひとりの創造的な若者が、喜びや苦しみを味わいながら道を究め、たしかな高みに達したところで亡くなってしまう」という成長過程を描いています。
その過程で、ボーカルの佐藤伸治さんの様子は、変わっていきます。
デビュー当時はかわいらしさも残るお洒落な若者だったのに、亡くなる直前の最後のライブではすっかり「道を究めた人」という感じです。必死に歩み続けた結果、多くのミュージシャンには不可能な、遠く高いところに達していた……
そして、佐藤さんの「輝く才能」にひかれて集まり、深くかかわった人びとの喜びや苦しみも、もうひとつの主題として描かれている。
つまり、この映画は、現代の日本で「自分の才能と徹底して向き合い、道を究めていった人」の物語です。その意味で、私のなかでは『ルックバック』と重なります。
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さらに、「自分の才能と向き合う」というテーマは、私自身のことも考えさせるものでした。
私は、ごく若いときはそういう悩みは希薄でした。しかし、30歳くらいから(今から20数年前)、会社の仕事以外での自分の関心領域が深まり、その方面で何かを書きたい、著書を出したいと本気で思うようになりました。
それは客観的にみれば「狭い道」そのものでした。著作活動には(どんな分野であれ)、一定の特別な能力・才が要ります。私の経歴(一般的なサラリーマン)では、それがあるとは考えにくい。だから、悩みは多かった……
しかし、紆余曲折を経て、中高年になった現在、自分の思いはある程度は実現しています。そして、今も「もっと実現させたい」と思って、取り組んでいるところです。
そんな自身の事情もあって、若い人が自分の才能と向き合いながら、「何かを表現したい」「それを仕事にしたい」と悩むのをみると、私は共感をおぼえます(キャリアについての相談者である若い人には、自分のことは言いませんが)。
『ルックバック』の、若い主人公たちに対しても、私のような中高年のジジイが、すっかり共感し、感情移入してしまいました。
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映画よりも自分語りになって、脇道に逸れてしまったかもしれません。
でも、『ルックバック』は、これを観たことで、いろんなことを思い出したり考えたりしてしまう映画です。
いろいろな人が、(ここでの私のように)自分の経験や、これまでに触れた作品と重ね合わせながら、この映画を語っていることでしょう。観た人にそうさせるのは、それだけの力を持った作品だからです。
すぐれた原作を、おそらくは予算などの制約も多いなか、みごとな技量で映画化した傑作だと思います。
私そういちの著書(2024年2月に出た文庫)
今回の東京都知事選の結果をみて、とくに思ったのは、つぎのことです。
「政治において、与党や既得権側ではない、挑戦者あるいはアウトサイダーにつよく求められるのは、“有権者のあいだで何が嫌われているか”を察知することである」
その「嫌われている何か」がみえていれば、それを「敵」として批判・攻撃することを、ときには貶めることさえも、徹底して行うのです。
情熱をこめて、ひるむことなくそれを行う。それは自分の立場や論点を明確にする、ということです。自分についてのイメージづくりの核でもある。攻撃対象である「敵」は、対立候補の場合もありますが、むしろそれ以外の「社会のなかの何か」であることが一般的です。
もちろん、そのような「攻撃」だけでなく、建設的なメッセージや政策も求められます。しかし、そこは肝心ではないのかもしれません。
つまり、とくに目新しい、すぐれた内容のものでなくても、一定のレベルの主張や政策のパッケージがあれば、とりあえずはそれで良い。もちろん、創造的ですぐれた政策が打ち出せるなら、なお良いのですが、それは必須ではない。
あるいは抽象的に「変化」「改革」「既存の体制を壊す」的なメッセージを効果的に伝えることができれば、まずはそれでよいのではないか。身もふたもない話ですが、有権者は、政策の詳細にはなかなか関心を示さないからです。
以上は、別の言い方をすれば、「ここに、これらの事柄や人びとを嫌っている、憎んでいる人たちがいる」という「鉱脈」を、手ごたえをもって発見できたら、その「挑戦者」は強い、ということです。
もちろん、「鉱脈」を発見しただけではダメです。それを掘り起こしていく具体的なスキルや実行力が必要なわけです。しかし「鉱脈」がみえていなければ、いろいろやってもなかなか成果はあがらないでしょう。
「何が嫌われているか」をうまく察知したアウトサイダーの政治家が天下を取った例は、いくらでもあります。
その近年の最大の例は、トランプ氏です。彼は、アメリカの既得権側のエリート的な人びとや「正統派」とされるマスコミや知識人などの、いわば「優等生」たちが、ある種の人たちにおおいに嫌われていることを発見しました。
この「ある種の人たち」には、さまざまな属性の人びとが含まれます。それだけに、その「鉱脈」はじつに大きなものだったのです。
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今回の都知事選で、蓮舫氏は結局のところ、以上の意味での「鉱脈」を察知できなかったのでしょう。「みれどもみえず」だったのかもしれません。蓮舫氏のバックにいる野党にも、同じことがいえます。
一方、石丸氏は「何が嫌われているか」を、蓮舫氏よりも正確につかみ、その鉱脈を掘り起こすために必要なことを、強い意志で実行したのです。そのことで自分の立ち位置や、政治を変えるという想いを明確に表現した。だからこそ、当選はできませんでしたが、相当な票を集めました。
石丸氏がSNSをフル活用したことは重要ですが、しかしそれ以上に大事なことがあるはずです。
だとしたら、「(今の日本の政治で)どのような人たちが、何を嫌っているか」という話になるのでしょう……でも、殺伐とした内容になりそうなので、ここらへんでやめておきます。
今の新しい政治の動きは、特徴として、何かへの嫌悪や憎しみを根底につよく持っていると、私は思います。これはインターネットとの親和性も高いはずです。
嫌悪や憎しみが政治を動かすのは、今に始まったことではありません(歴史的にもみられることです)。政治にとって必然的で必須なことなのかもしません。しかし、やはり嫌だな・辛いな、と感じてしまいます。