極道の娘たちの悲劇~『リア王の悲劇』KAATホール内特設会場 (original) (raw)
シンプルな演出と台詞
セットのない平場に、泣く赤ん坊を抱く女、そして老人(木場勝己)が出会う。老人は女と赤ん坊に少しだけ興味を持つも、うつろな様子。惑う老人にコロスが王冠と職杖を渡し、彼は**リア王(木場勝己)**となる。
セットは背面に大きな地図、その中心に階段状の王座。リアはそこに座る。
戯曲冒頭の貴族らの噂話がカットされているので、それぞれの関係性の前提はここで分からない。わりあいにカットされる部分ではあるが、**エドマンド(章平)**が妾腹であることが強調される箇所なので、今回の演出意図ではあった方がよかった。
すぐに三姉妹の領土分配になるわけだが、ここもすっきりめだった。サクサクとリズミカルに進む。コーディリア(原田真絢)の傍白、彼女がなぜリアに塩対応だったかの理由、がカットされてしまったので、分かりにくくなってしまっているし、コーディリアのキャラが薄まる。「言う事は何もございません」「何もない?」「ございません」*1のやりとり、大事な≪Nothing≫のインパクトが薄まってしまったように感じた。
よかった点は、現代語訳なので冒頭からそれぞれのキャラが分かりやすい。リアが「老後はこの子に面倒を見てもらおうと決めていたのに」*2は、老いた親の図々しくも正直な本音が引き立つ。
あと戯曲にはないが、リアがケント伯(石母田史朗)に呼び捨てにされた時に「俺にため口をきくのか」のような返しがあって、アドリブか上演台本に加えられたかは不明だが、現代語訳公演ではありだなと思ったし、ケントの覚悟が際立つ。
演出もシンプルで、高見で座るリアを中心に周りでただ立つだけの長女ゴネリル(水夏希)、次女リーガン(森尾舞)や、その夫、家臣たちという配置。ゴネリル側は上手に、リーガン側は下手に配置し、上演中も基本的には統一していた。見やすさもあったし、ゴネリルとリーガンが共闘しつつも分断されているのが視覚に刻まれる。後ろの地図も半分になり、ゴネリル領土のシーンは上手側半分の地図が出てきて、リーガン領土の時は下手側のが、と美術の使い方もよい。
また、リア以外の者たちは基本立ったままである(覚えている限りでは、なので記憶違いあればご指摘願います)。死ぬまで立っている。しゃがみこむのはリアとともに追放されたものたち。道化、エドガー、ケント伯。三姉妹は死ぬまで立ち続けていた。
女性配役への試み
女性俳優を重視した演出面も現代的。**エドガー役が土井ケイトさん、道化役はコーディリアと二役で原田真絢**さん。 シェイクスピア劇には女性の役が特に主要な役が少ない。それがために女優が活躍しにくい演目である。今回、女性俳優の機会を増やしたという点ではよいと思う。そして土井さんの雰囲気、存在感と演技力は、国を追われたエドガーが何者でもないトムでもあるという事を意識させ、何者でもないリア王との性別を超えた奥行きを与えた。原田さんの歌唱力は芝居の中で彩りを放ち、耳にも楽しませた。また歌によってリアが癒されて軟化していくようにも見えて、言葉による説得よりも伝わりやすさがあった。
しかし気になる点も多々。土井さんの雰囲気ならば、エドガーを「長女」つまり女性に変えてしまう必要はなかったのでは?「女性だけど長子相続が優先」はリアの三姉妹が遺産相続してる点からもありとして、エドマンドとの嫡子と庶子の関係性が薄れてしまうし、「グロスターと息子たち」と「リアと娘たち」という男女対比も弱まる。またエドガーが剣の達人であるがゆえに暗殺者を返討ちにするくだり、ここも弱くなってしまった。
エドガーを長女にするなら、リアの娘たちとの「女性性」の違いあるいは共通項などをもう少し掘り下げてよかったのでは。戯曲の筋を外れない流れであったため、結果いろいろぼやけてしまった。この設定を生かすなら、少々台詞に変更を加えてもよかったかもしれない。土井さん自体はジェンダーレスな演技が素晴らしかったので、そこを生かすためにも長男のままでよかったのでは。
また最後の言葉をエドガーが言うくだりここは当時の初期の上演ではゴネリルの夫・オールバニ公爵が言う台詞だった。シェイクスピア劇において、最後の台詞は次の為政者になるからである。しかしエドガーが言うようになったのは、当時エドガー役の俳優が人気があった、また「老人から若者への世代交代」の演出意図もあったのではという。ならば今回せっかくエドガーを女性にしたなら、最後は女性の権利や主張に光が当たる未来を示唆した演出を強調したらよかったのでは。ゴネリルとリーガンが果たせなかった女為政者、という因縁も女性性を意識した演出に合うはずだ *3
コーディリアと道化の二役については、シェイクスピアの時代にそのようにしてたのではという説がある。コーディリアがいない間に道化がいて、道化がいつの間にかいなくなってからコーディリアが再登場するので、同じ役者がやっていたのではという推測だ。これは諸説あり、二役だった事実が確認できてないこと、二人が入れ替わるような設定はたまたまそうなだけというのもある。
原田さんによる道化の歌を前面に出したのは河合訳の特色も出てよかった。ただこちらも二役である意図がつかみきれぬまま終わってしまった感はあった。コーディリアが亡くなる時にリアが「阿呆」と呼ぶ*4ので、道化=コーディリアと解釈させるのだが、深読みさせる演出がもう少しあってもよかった。
ここは俳優が、というよりバランスの問題だった気がする。彷徨うエドガー=トムが道化の役割に似てしまっており、なおかつ土井さんをかなりフィーチャーした演出だったので、その分だけ道化の役割が弱くなった。
河合翻訳の詳注に、コーディリアの独善性について書かれている。
「徳高い人間になることが、他より抜きん出ることになるなら、それは他の人たちを見下し、独善的な態度をとることにもなりかねない」 *5
彼女が美徳を守ろうとすることにこだわり、素直に愛情を表現しなかった、という解釈である。彼女の大人気ない頑なさが悲劇を呼び、最後リアと共に死ぬ。リアの頑固さはコーディリアの頑なさにも通じる。しかしコーディリアは愛情がないわけではない。それは傍白によって分かるのだが、前述したように今回それをカットしてしまったので、コーディリアの人としての奥行きが見えにくい。
極道の娘たちと優男
今回、ゴネリルとリーガンは俳優の演技力と存在感の強さで、新たな女性キャラの人物像ができあがった。水夏希さんの立ち姿の凛々しさや台詞の強さは、ゴネリルの長子としてのプライドや判断力、野心などをより強く表現していた。男ならば王としての威厳は充分であったと思わせる。
具体的な長台詞が多くないが、出番ごとに印象を残す演技だった。序盤、コーディリアがリアに塩対応した際も、その発言に「何言ってんのこの子」というような動揺の大きい表情をしていた。ここはコロスも含め全体も緊張感が漂うのだが、一番観客の目を引くゴネリルの演技は重要だった。その後もコーディリアの領土が自分に分配されるという利点よりも、末妹の不在によるリアの暴走を感じ取ってリーガンに連携を申し入れるなど、リーダーとしての資質が伺える演技となっていた。
リアに逆らったがゆえ、リアに「その卑しい体に、決して尊い子宝が授かりませんよう」*6などとすさまじい呪いを吐かれた後の彼女の心中はいかなるものだったか。その後、エドマンドとの不倫関係も、気弱な夫・**オールバニ公爵(二反田雅澄)**への不満だけではなく、若い男の精力、つまり子種を意識してのことではなかったか。
というようなことまで想像させてしまう、たいへん理想的なゴネリル像であった。
またコーディリアが国を去る際にに「せいぜい亭主を大事にするのね」「あんたには素直さが欠けているのよ」*7という台詞も、実はゴネリルがよく妹を見ている的確な意見である。前述の「コーディリアの独善性」解釈にも通じる。今回は他の上演と同じく単なる嫌味な姉の言葉という演出でしかなかったが、ゴネリルのひとつひとつの台詞から成り立つ人物像、というのがたいへんクリアにこちらに伝わった。
リーガン役の森尾舞さんは、台詞まわしの快活さ、水さんとのコンビネーションが本当に素晴らしい。本当の姉妹のようにも見えてしまう。台詞だけでなく、体の動きも目を引く。水さんがただ立っているだけで、その威厳を表現しているなら、森尾さんは軽やかに人の目を引くようにわざと隙間を縫うような動きにて、次女ならではの姑息さあるいは機敏さを表現していた。
森尾さん、初めて見たと思ってたのですが、名取事務所公演パレスチナ演劇上演シリーズ『占領の囚人たち』の配信で見てました。イスラエル在住のパレスチナ人への不当な差別を描いた作品で、森尾さんはただ演者としてではなく、自身の感想やコメントも話す、ドキュメント形式的な公演だったが、台詞というのはただ言葉の羅列ではない、演技というのは技術だけではない、というのを分かってる俳優さんだなと、印象にありましたが、今回実際に目で見てその力を確認しました。
姉二人があまりに存在感が強すぎて、エドマンド役の章平さんが薄まってしまっていた。引き締まった体躯、ちょいチャラ目なルックスは魅力的な色悪キャラにピッタリだったが、二人の女優の演技力と存在感に圧倒されてしまった。それはそれで二人に振り回されるエドマンドという見方になるのだが。いっそのこと上半身裸になったり、視覚的にセクシーさを打ち出して「姉妹がエドマンドの性的魅力に夢中になっている」という演出にしたらエドマンドのキャラも引き立ったのでは。
見終わってから何か既視感があって、モヤってたのだが、今回のゴネリル&リーガン、映画『極道の妻たち』の岩下志麻とかたせ梨乃じゃん!と思いいたる。そうするとエドマンドは世良公則か~。納得。まあそんなつもりがあったかどうかは分からないけど、ってか絶対なかったと思うけど。ただリア王を昭和の極道の跡目相続ドラマとしてとらえたら、すごくはまってしまう。最後のシーンもパート2、パート3を感じさせちゃう。**グロスター公爵の伊原剛志**さんも、ちょっと優男すぎて、グロスターとその息子の造形がぼやけてるとこもあったが、極道幹部ポジとして見ると伊原さんの雰囲気は合うのよな。
姉二人はこの二人ありきの人物像だったので、演出はどの程度影響してたかな、と邪推してしまうけど、キャスティングが特にはまったなと。
女性を意識した演出、というわりにはそこまでではないな、という感じ。ジェンダーを超える演出、ジェンダークロスキャスティングというのは女性らしさを打ち出すことやまたその逆でもないんだと思う。きちんとその役を読み込み、表現すること、男性俳優であろうと女性俳優であろうと。ということを俳優はきちんと分かっているのに、演出が昨今の女性配役の意図を意識しすぎてるのでは?と受け取ってしまいました。
女性俳優に男性の役を配役する、というのは活躍機会を平等に与えるという意味がまずあり。男性演出家はまずはそこをきちんと理解してほしい。女性らしさ、女性ならでは、という陳腐な言葉をまずは頭から削除してほしい。
あと今回は結果、女性より男性役の方がぼやけた印象になってしまってたので、不思議なもんだなーと。
かわいいリア王
最後になりましたが、今回とにかく木場勝己ありきでした。完璧。
老いた王のアイデンティティの喪失を巡る悲劇としての解釈はよかった。
近年リア王を認知症として解釈する演出だったり、古くは狂人として、スタンダードなのだと傲慢な王の零落、といろいろ解釈はあれど。木場さんのリアは「人とは老いるもの」という単純なことを見せていた。
それを可愛らしく、どうしようもなく悲しく演じる。しかしリアに同情したり、共感したり、ましてや正当性は感じさせない。老いて弱くなり、人間の醜さが思わず露呈してしまう過程を細やかに。いつか誰もがそうなるんだよ、という示唆すら感じさせる。
藤田俊太郎演出、なにげに初めてのシェイクスピアだそう。細かい点では気になるとこがありましたが、さすがの美術や転換のうまさは見やすく分かりやすい。蜷川オマージュもところどころ(コロスのスローモーション、嵐のシーンの本物の水をつかった演出など)あり。しかし一番よかったのは木場勝己さんのリア像をしっかり伝えた点。今年はリア王当たり年で、いろいろなリアを見る稀有な年でしたが、木場さんのリアは出色でした。