「光る君へ」時代考証・倉本一宏が語る「平安時代は、本当はこんな時代だった」後編 (original) (raw)
今から1000年の昔の日本は、いったいどのような社会だったのか? 天皇や貴族たちの生活は? はたまた、ドラマに登場する紫式部や藤原道長たちはどのような人物だったのか? 時代考証を担当する倉本一宏氏に、最新の研究成果も交えながら解説してもらった。その後編(前編はこちら)。
古記録から見えてくる紫式部、道長、そして晴明の実像は!?
――紫式部はどんな人物だったと思われますか?
私は歴史学者なので本当は専門外なんですけれども、一般的に歌集『紫式部集』から、ある程度少女時代と結婚・出産・夫との死別、つまり第1の人生は復元できるんです。すべてが本当の話じゃないとは思いますが。そして、夫と死別したのちに『源氏物語』と『紫式部日記』を執筆するという、世間でクローズアップされている第2の人生があります。
ですが、私はむしろ『源氏物語』を書き終わった後の人生の方が長いと考えています。これは第3の人生と言うべきもので、実資さねすけの『小しょう右ゆう記き』から復元できるんですね。実資が、中宮彰子に何かお願いに行くとき、あるいは挨拶に行く際に、必ず取り次いでいる女房(皇族・貴族に仕える侍女)がいて、ある日の日記でその女房を「越後えちごの守かみ為時ためときの女むすめ」と書いて、“前々さきざきからこの女を介して取り次ぎを頼んでいた”と記しているんです。
これによって、為時の娘である紫式部が実在することがはっきりわかるのですが、”前々から”ということは、それ以前に『小右記』に出てくる女房もたぶん紫式部なんです。これは『紫式部日記』に、公卿たちが彰子に会いに来る際は、心寄せの女房、つまり、ひいきの女房を介して取り次いでもらい、その女房がいないと帰っていく、と書いてあるんですね。だから、実資のひいきの女房は紫式部であろうということになります。
その記述は長和2(1013)年の部分なのですが、その後に出てくる女房もおそらく紫式部。『小右記』には、ときどき感情豊かな会話が出てきます。実資はふだん女房とのやり取りなどを書く人ではないのに、ところどころにそういうものが出てくる。というのは、相手が紫式部だったからだと思うんです。
紫式部は、彰子の最側近の女房として第3の人生を生きたわけです。彰子はだんだん父・道長と仲が悪くなっていきますし、政治的な立場もものすごく強くなっていきます。天皇の母、国こく母もとして、あるいは女院、上じょう東門院とうもんいんとして、強大な権力を握るようになります。その側近ですから、紫式部の役割も大きなものがあったのではないか、と。
若いころに『源氏物語』を書き、名声を得た。それでも本人はその名声よりも、彰子の側近女房としての自覚の方が強かった可能性があります。だいたい『源氏物語』は、彼女が生きていたころにはそこまで広く読まれていないはずです。
当時は出版システムがないですから、写本を手に入れられた人しか読めない。ものすごく読者が限られていたはずです。きわめて評価が高かったとしても限られた範囲の話です。そうすると、本人としては「昔あんなの書いたけれど、今は彰子さまの側近をやっていて、そっちの仕事の方が大事なのよ」と思っていた可能性もあるということですね(笑)。
――藤原道長についてはいかがですか?
専門家ではないけれど歴史に詳しい方がお持ちになっている道長のイメージは、ほとんど文学、具体的には『大おお鏡かがみ』や『栄えい花が物もの語がたり』、『今昔こんじゃく物もの語がたり集しゅう』などが元になっていると思います。夜中に肝きも試だめしをしたとか、安倍あべの晴はる明あきらに「そこに呪じゅ物ぶつがあるから気をつけろ」と言われたとか、ですね。本当に古記録を読んで「道長ってこんな人」というのを理解している人は、ものすごく少ないと思うんです。
それはもう私たちの力量不足で、世間にもっと古記録を通じて見える道長の真の姿を伝えるべきだったと、本当に反省しているところなのですが……。
『御堂関白記』や『小右記』『権記』を読んでいると、彼は非常に豪胆でありながら繊細、勇気があって小心、傲慢かつ親切、すぐに怒るけど涙もろい、という人間の矛盾を一人で体現しているような人物です。しかも、ものすごい権力を持っている。私は、秀吉より道長のほうが強い権力を持っていたと考えています。だとすると、ちょっとした彼の感情の動きでさえ、周りに強い影響力を及ぼしたでしょうね。しかも、かなりの教養もある人です。
10年ほど前にあるインタビューで「現代でいうと誰に似ていますか?」と聞かれたとき、「家柄が良くて文化的な田中角栄さん」とお答えした記憶があります。角栄さんも人間的な人で、仲のよい相手にはとても面倒見がよくて、敵対勢力には厳しく当たる人という印象がありますが、その点で非常に似ている。政治的にはかなり近いところがあった人なのではないかと思います。
――一方、安倍晴明については?
晴明はいわば官僚です。それも、かなり優秀な。彼が生きていたときは、今伝えられるさまざまな伝説はまだできていないんですよ。道長よりもずっと世代が上なので、本来ドラマに登場するなら、かなりのご老人でないといけないのですが、そういうわけにもいかないんでしょう(笑)。
晴明が亡くなってから200年ほどの間、いろいろな説話集や『大鏡』などの歴史物語が出来上がる平安末期までに、彼にまつわるいろんな伝説ができました。皆さんがご存知の小説や漫画、映画に登場する晴明は、その伝説をもとにしたものですね。ちなみに我々は「せいめい」ではなく「はるあきら」と呼んでいます。当時、人名を音読みで呼称するはずはないんです。
陰陽道おんみょうどうは、朝廷では晴明の子孫が継いでいくのですが、それとは別に民間陰陽師など胡う散さんくさい人々が出てくるんですね。一般的な陰陽師のイメージはそちらだと思うのですが、その人たちが自分たちの始祖は、実在する「はるあきら」ではなくて「せいめい」であると言い出したわけです。
民間陰陽師というのは非常に身分の低い人たちで、蔑視されていた階層だったのです。そういう人たちは(陰陽師だけでなくいろんな職業でそうなのですが)、自分たちの始祖をなるべく有名な、しかも身分の高い人に求めます。天皇とか皇子に求めることもありますが、陰陽道では晴明がいちばん有名だというので、彼になった。そこから伝説がだんだん増幅されて、現在の小説や映画のイメージになっていったと思います。
実際には、晴明は陰陽博士になったことはなく、天文博士です。その後、国司(地方官)になったり、左さ京きょうの権ごんの大だい夫ぶ、つまり平安京の長官になったりしていますので、とても有能な官僚です。
一方、占いをするときは、いつも占いの依頼主が望んでいるような結果を出すんですね。彼らの占いというのは、素人が見てもわからない式ちょく盤ばんという道具を使いながら、中国の古典をもとにして結果を出すのですが、いつも依頼主が望むことを言って喜ばせる……。そういうセンスのよさを持ち合わせた有能な占い師、かつ優秀な官僚だったと言えます。
貴族の女性は、夫以外に顔や姿を見られてはいけない!?
――平安貴族の女性の収入や立場、結婚に関して教えてください
まず、女性には自前の財産がありません。親がしっかりしていれば屋敷を引き継いだりはしますが、当時はまだ荘園制の時代ではなく、朝廷からの給与が主な収入なので、親が死んでしまって兄弟もいない人は、自分で働いていなければ自前で収入がある方が珍しい、というのが普通の貴族の女性です。『源氏物語』の末摘花すえつむはな*5は象徴的ですね。
*5 『源氏物語』の登場人物。天皇の子・常陸宮ひたちのみやの娘だが、父が早く亡くなってしまい、収入が途絶え困窮を極める。
一方、すごく偉い大臣などの娘が天皇のきさきになると、それなりに高い地位に上がります。そして産んだ子どもが次の天皇になれば、国母としてかなり強い権力を持ちます。政治的に天皇にも影響力を及ぼしますし、下手すると摂政・関白よりも力があります。
具体的には、一条天皇の母である詮子や、後一条天皇・後ご朱雀すざく天皇の母、後ご冷泉れいぜい天皇・後三条天皇の祖母である彰子などは、最高権力者といわれた道長やその息子の頼より通みち・教通のりみちよりも強い力を持っていたと思われます。しかしながら、そんなふうに活躍できる女性はごくわずかです。
当時は結婚形態が“婿むこ取とり婚こん”なので、女性の実家へ婿に入って、そこで生活します。お父さんが裕福だったらその娘も裕福だし、夫もいい生活ができる。ちゃんとした手続きを踏んで結婚した女性を嫡妻ちゃくさいといって、「正妻」はその一人しかいません。だから、結婚に関する儀式がいろいろやかましくて、両家納得の上で執とり行いました。
例えば『源氏物語』の光源氏の妻は、葵あおいの上うえと女三宮おんなさんのみやの二人だけです。ほかの女性は全員、妾しょう(愛人)です。光源氏が寵ちょう愛あいした紫むらさきの上も一緒に住まわせているだけで、正式な妻とは言いがたい。
一方、女性でも働く人たちがいて、それが女房です。だけど、ほとんどの貴族は身内の女性を女房に上げることを嫌がっていました。『紫式部日記』にも『枕まくらの草そう子し』にも、そう書いてあります。女房は、はしたない職業であると当時の人が認識していたからです。
『小右記』の中にも「公卿の娘が女房に上がるなんてとんでもない」という記述があります。それはなぜかというと、高い位の貴族の女性は多くの場合、結婚相手の男と一度も会ったことないうちに結婚するし、ほかの男性ともほとんど会わないから。外に出ない、学校もない、会社もないので、ずっと家の中にいるわけです。そこにいきなり夫が婿入りしてくるので、夫ぐらいしか他人の男と会う機会がないのです。
それが、いわば当時の理想的な女性像なのです。ところが、いろんな事情があって女房に上がる女性がいる。なぜ女房がはしたないのかというと、不特定多数の男性に顔を見られるからです。だいたいは扇で顔を隠していますが、姿は見られます。しかも内だい裏りで泊まったりすると、男が訪れることも多いわけですよね。これはよくないことだ、と。
女房の仕事をしていると非常に刺激的で楽しい日々だと思いますけれど、なかなか正式な結婚には至らないし、世間からもわりと白い目で見られている、というような状況だったと考えています。紫式部など平安時代の女性の活躍ぶりを「現代のキャリアウーマン」のように捉えるなら、それはちょっと違うと思います。
大事なことは、文学作品を書いた女性のほとんどが女房か、嫡妻ではない妾だったということ。嫡妻だったら女房に上がることもほとんどないし、何かを書くこともないのです。おそらく文学作品を最初に読むのもほぼ女房たちだと思いますから、書くのも読むのも同じ階層なわけです。
『源氏物語』が書かれた本当のわけは、やはり道長!?
――『源氏物語』が評価を受けた理由と、書かれた背景をどう考えていらっしゃいますか?
『源氏物語』を読むと、読者である女房と同じような立場の女性たちが、光源氏のような素敵な男性に言い寄られている。結局は、ほとんどが悲恋に終わってしまうのですが、いつか自分にもそういう“王子様”が現れるかもしれない、というファンタジー要素が女房たちには受けたんだと思います。一方、男性読者は、政権抗争物語や皇位継承物語として面白く感じたと思うのです。
紫式部が『源氏物語』を書いた意図や目的については、あくまでも私の想像にすぎないのですが、そこに関与した大きな力があったのではないかと思っています。最初は自発的に、おそらく夫を亡くした後に、彼女が言うところの「とりとめのない物語」を書いていたはずです。
でも、物語の根幹となるのは、光源氏が藤ふじ壺つぼと通じて皇子みこが生まれ、その皇子(冷泉れいぜい帝)が天皇になること。あれほど長い物語の、しかも最初の方に「光源氏は帝の父になる」(「若紫」)とか、後にも「子どもは3人生まれて、天皇になる、きさきになる、太政大臣になる」(「澪みお標つくし」)など夢解きの話が書かれていますから、最初からかなり後のストーリーまで構想していたはずなんです。
そんな物語を自発的に書き始められるものなのだろうか? 私は学生時代から、それをすごく疑問に思っていました。しかも、あれだけ長い文章を書く紙をどうやって調達できたのか? 読者は誰を想定していたのか? と考えると、普通に考えれば、誰かから要請(または命令)され、紙をもらって書いて、それを献上する、という流れが想像できます。
『源氏物語』を書き始めたのは道長の娘の彰子が一条天皇の后になったけれども、まったく相手にされていない時期と符合します。また、ある程度書いて彰子の女房として宮中に上がったのは、彰子と一条天皇との間に男女の関係が生じ始めた時期と符合します。この二つは偶然ではなかったと考えています。
いちばん最初に読ませたのは女房ではなく、おそらく一条天皇ではないか。一条天皇は『源氏物語』の続きを読むために、中宮彰子のところへやってくる。となると、必然的に皇子が生まれる可能性も高くなってくると、彰子の父・道長は踏んだのだろうと。
私はある時点から、紫式部は道長に頼まれて『源氏物語』を書いていったのではないかと思っています。途中までしか書いていないうちに、式部は女房として後宮に上がっていますので、続きはおいおい書いていったと。
ただ、どうやって彼女があのストーリーを考えたかのかは本当に分かりません。それは国文学の研究分野ですが、紫式部はたくさんの歴史書を読んでいたようなので、平安時代あるいはもっと昔の時代の皇位継承の争いを取り入れたかったのではないか、と思います。そこに壮大なラブストーリーを入れこんで、その構想のもとで、あれほどの大作を創り上げたのかなと思ったりしています。