墓はなかった? (original) (raw)

島田裕巳*1

庶民が火葬した遺骨をおさめる墓を建てるようになったのは、戦後になってから。土葬時代は墓など庶民はまったく作らなかった。その点で、墓は高度経済成長が生んだブームの一つ。ブームにはいつも終わりがある。だから、最近になって墓じまいが増えている。ブームの後処理だ。
https://x.com/hiromishimada/status/1823193834718986265

というツィートが炎上している。
「 土葬時代は墓など庶民はまったく作らなかった」ということは聞いたことがなかったし、どのような歴史学的・民俗学的エヴィデンスに基づいているのだろうか。島田氏は、時には罵声も混じる批判に対して沈黙を保っているようだ。
批判者の中には、考古学者の山田邦和氏*2もいる;

いくつも間違いがあるのですが、
◎「土葬時代」は変。飛鳥時代以降20世紀にいたるまで土葬と火葬は併存していた。
◎江戸時代にも庶民の火葬墓はいっぱいあります。
◎遺体遺骨を収める施設である「墓」と、その外部標識である「墓石」のどちらのことを言っているのか明確でない。⇨ https://t.co/VKDwAEdQuv

— 山田邦和 (@fzk06736) 2024年8月14日

⇨「土葬時代は墓など庶民はまったく作らなかった」は、「庶民の墓には墓石のないものもある」というまでなら適切ですが、「遺体遺骨を納める施設としての『墓』を作らなかった」ということになってしまうとナンセンス(それだと遺体を放置する「風葬」になってしまう)。https://t.co/ssyf4iQIjC

— 山田邦和 (@fzk06736) 2024年8月14日

どんどん間違った知識が流れてきて困惑。一条天皇皇后藤原定子は鳥部野に葬られました。土葬説と火葬説がありますが、いずれにせよ「鳥葬(風葬、遺棄葬のこと?)」ではありません。鳥部野では確かに遺棄葬も行われていましたがそれが全てではなく、土葬も火葬もあります。https://t.co/L2amMD3nXI

— 山田邦和 (@fzk06736) 2024年8月14日

⇨日本の古代中世には野山や河川に遺体を遺棄する「風葬・遺棄葬」が行われたことは事実です。勝田至さんの『死者たちの中世』(吉川弘文館、2003年)が有益です。しかしさすがにこれは不衛生でもあり、江戸時代以降には火葬にしても土葬にしてもとにかく土に埋めるということがほとんどになりました。

— 山田邦和 (@fzk06736) 2024年8月14日

たしかに「飛鳥時代以降20世紀にいたるまで土葬と火葬は併存していた」わけだけど、大まかに言って、「土葬」が主流だった前近代、「火葬」が主流となり「土葬」の禁止が広がった近代以降という区別は有効なのでは?
何れにしても、「土葬時代は墓など庶民はまったく作らなかった」という島田氏の発言が暴論だというのは明らかだろう。以前も述べたかもしれないけれど、「火葬」が主流になって、当たり前化したのは(〈先祖代々〉と銘打たれることもある)家墓だろう*3。それは火葬によるコンパクトな骨と灰ということで可能になったのであり土葬では一基の墓に数代に亙る家族の遺骸を収納することはスペース上不可能であった。また、江戸時代以来の個人墓を畳んでひとつの家墓に統合してしまったという例もけっこう見られる。ただ、家墓化の趨勢の中で一時的に個人墓が復活したことがあったようで、その契機は戦争だった。出征して戦死した人の場合、家の墓とは別に、勲位や軍の階級が明記された個人墓が建てられるというのはかなり広く行われていたのではないか?