「芸人になりたい」僕をつくった三重という故郷|文・永見大吾(カベポスター) (original) (raw)


こんにちは。僕はカベポスターというコンビの永見と言います。
今回は地元・三重についてのエッセイをというお話を受けてこれを書いているのですが、正直に言うと僕は三重の観光スポットやお店についてあまり詳しくありません。なので、自分が大阪のNSCに入学し、芸人になる以前に暮らしていた、三重での個人的な思い出を振り返りたいと思います。

地元が近い人以外にとっては「そもそも三重ってどこだっけ?」って感じかもしれませんね。立ち位置としては近畿地方で、愛知と奈良に挟まれて若干気まずそうにしているのが三重です。
関東と関西のちょうど中間にあることから、三重にはいろんな地域の人が集まるのが特徴です。僕は大学時代、地元の名張市から離れて大学のキャンパスのある津市に下宿するようになったのですが、「〜だよね」と喋る人がいるんや、と驚いたのを覚えています。名張は奈良にくっついている地域だったので、それまでの周りの喋り言葉がバリバリの関西弁だったんですよね。大学でいろんな人の喋り言葉を聞いた影響もあってか、自分の言葉遣いもその頃にちょっと柔らかくなりました。

だからかどうかはわからないですが、三重の人には比較的、周りに合わせられる人というか、相手のことを重んじられる人が多い印象があります。気のせいかもしれませんが。

公園が選び放題の自然豊かな街、名張


三重での暮らしを振り返ります。僕が生まれた奈良県生駒市から、家族で三重県名張市に引越したのが小3の終わり頃です。
当時の写真を見返すと、僕は常に変顔で写っています。ということはたぶん、ひょうきんな子どもだったのでしょう。僕には姉と妹がいるのですが、家ではよく姉妹のセーラームーンごっこに付き合わされ、タキシード仮面役として、いつもできるだけ高いところから登場していたのも覚えています。

引越し先は「百合が丘」という、その名の通り丘の上にある住宅地で、当たり前ですが、奈良と比べると「家、めっちゃあるなあ」という感じでした。家の周りがお寺や田んぼだらけだったそれまでの環境と比べると、公園の多い百合が丘は小学生にとっての天国。友達と遊ぶときは、野球をするなら広めのあの公園、今日はアスレチックで遊ぶからこの公園、と、常に公園選び放題の贅沢な環境でした。
それに加えて大きく変わったのは、引越しを機に、親が僕の部屋にブラウン管の小さめのテレビを置いてくれたことです。それまではリビングで決められた時間にしか見られなかったテレビがわりと自由に見られるようになって、『マジカル頭脳パワー!!』などのクイズ番組が好きになりました。

当時、永見家では「子どもは夜9時までに寝る」というルールがあったのですが、お姉ちゃんが「テレビ見せて」と夜10時くらいに部屋に入ってくることも多く、その隣にベッドがあった僕は、寝っ転がりながらなんとなく一緒にドラマを見たりもしていました。9時ルールが親にとっても僕にとっても徐々に曖昧になってきた頃には、さんまさんの『明石家マンション物語』なんかのバラエティも見るようになり、芸人って人たちはすごいな、おもしろいんやな、と思うようになりました。

ゲームに音楽、テレビ……ひたすらにインドアだった10代


中学に上がると、小6まで一番の仲良しだった同級生の女の子が、受験で地元を離れてしまいました。おしゃべり好きだった僕ですが、仲がよかった子がいなくなったことで、初対面の人にどう話しかけていいかが急にわからなくなってしまい、友達づくりに失敗します。住宅地のため、10代向けの遊び場が少ないという百合が丘の土地柄もあり、僕はこのあたりから突如としてインドアになっていきました。

そんな中で夢中になったのがゲームです。少ないお小遣いでゲームキューブ向けのソフトを買い、スマブラをやり込みました。当時通い詰めていたのが、名張に本店がある「ネクスト・ワン」というお店です。ここはゲーム機やゲームソフトを始め、カードゲームやボードゲーム、CDなど、10代男子の好きなもののすべてが揃う場所でした。
そんな夢のようなお店が近くにあるとはいえ、自分のお金でゲームがたくさん買えるわけではなかったので、同じくゲーム好きだった妹からも、よくソフトを借りていました。妙に忘れられないのが『ギフトピア』というゲーム。これは南の島に住む少年が大人になる方法を探すというストーリーのRPGなのですが、ゲームをクリアするには、島の住人たちをたくさん助けて徳を積み、周囲に大人と認めてもらうか、お金をひたすら集めて成人式(ゲーム内では「大人式」)代を払うかを選ぶ必要があります。大人ってすごいシビアやな、と子ども心に思ったのを覚えています。

高校に上がってからも友達は少なかったのですが、「ネクスト・ワン」や近所のレンタルショップのおかげでCDを買ったり借りたりするようになって、音楽が好きになりました。
僕はそれまで「音楽を聴いている人は全員格好つけたいから聴いてるんやろな」という嫌な偏見を持っていたのですが、ガラケー向けの視聴サイトや動画サイトでいろんな曲を聴いているうちに、ASIAN KUNG-FU GENERATIONやBEAT CRUSADERSなどにハマっていきました。ビークルに関してはメンバーが全員お面を被っていたので、「格好いい人たちが演奏している曲は聴きたくない」と思っていた、ひねくれた高校生にとっては本当にありがたかったな。

街についてのエッセイなのに僕のインドア話が続いてしまいますが、この頃もテレビは好きでした。特に見ていたのは『内村プロデュース』や『着信御礼! ケータイ大喜利』。『ケータイ大喜利』は大喜利の回答を視聴者が投稿できる番組だったので、よくこっそり投稿していました。このあたりからさまぁ~ずさんが好きになり、お笑いライブのDVDなども見るようになって、漠然と芸人に憧れるようになりました。

海沿いでゴミを拾いながら思い出した「芸人」への憧れ

とはいえ、三重の高校生にとって芸人は「テレビの向こうの人」。憧れはありつつも、高校卒業後にすぐ養成所に入るような気合も度胸もなく「将来はふつうに働くんやろな」と思いながら三重大学に入学しました。
最初に書いたように、三重大学は津市にあります。キャンパスは伊勢湾のすぐそばで、自然豊かでのどかな環境でした。僕の下宿先も海まで徒歩30秒のところにあったので、暇なときはよく海岸をぶらぶらしたりしていました。
僕の学科は情報系だったので、授業は基本的にパソコンに向かう時間の連続です。もともと理系でプログラミングなどは得意だったし、最初のうちは楽しかったのですが、朝から晩までパソコンの前に座っている日があまりにも多すぎて徐々に「これは耐えられへんな」と思うようになってきました。そんな日々が続いて大学がだるくなり、3回生のときにはついに留年が決まってしまいました。

ちょうど2011年の春のことです。一気に何もすることがなくなり、いつものように下宿先の目の前の海岸をぶらついていたのですが、波打ち際を歩いていると、震災の影響で流れ着いたゴミや流木が岸辺に打ち上げられているのが見えました。当時の僕は単位をあとすこし取得すれば4回生になれるのに、ギリギリで留年してしまった状況だったので、無限の時間を持て余していました。
ある日、ふと「海岸の掃除でもするか」と思いつき、スーパーで手袋と長靴を買ってきて、海岸を歩き始めました。想像していた以上に海は広く、気温もまだ低くて寒かったのですが、どこまで掃除できるかと考え始めたらなぜか止まらなくなってしまい、来る日も来る日も海辺を掃除し続けました。
拾ってきたゴミは1カ所に集めていたのですが、集めすぎて僕の背の高さほどになったこともあります。誰にも気づかれたくなくて、ニット帽を目深に被ってマスクもしていたので、たぶんあのときの僕を見ていたのは海沿いをランニング中のおっちゃんだけだったと思います。

無心でゴミ拾いを続けているうちに「自分は将来どうする気なんだろう」と自然と考えていました。そこでふと、「芸人」という夢を抱いていた高校時代を思い出したんです。本当になれるのか? そもそも自分はなる気があるのか? と、海岸をひたすら歩きながら自問自答を繰り返しました。やっぱなりたいよな、と腹を決めたのが先だったか、大学のボランティアサークルが海岸のゴミを僕より早く集めてしまい、ついにやることが完全になくなった日が先だったかは覚えていません。

いまの自分の下地をつくった三重での日々


いま振り返っても、なんであんな無意味なことをしようと思ったのかよくわかりません。たぶん暇すぎて、「いま自分、本当に何もすることがない人間やな」という感覚に耐えられなかったんだと思います。
でも「なんとなくおもしろそうだから」という理由で淡々と意味のない作業を続けられる性格は、もしかすると自分の芸人としてのネタづくりにも活きているのかもしれないとも思います。M-1グランプリ2022の決勝で披露した「大声大会」のネタをつくるときも「大声で言ったらおもしろい単語ってなんだろう」と、来る日も来る日も机に向かって黙々と考え続けていた記憶があります。

僕はその後芸人を目指して大阪に引越し、NSCに入学するのですが、意外だったのは「芸人になりたい」という僕の夢を両親がそこまで否定しなかったことです。10代以降、ずっと引っ込み思案な性格だった僕が自分の気持ちを伝えたのが父としてはうれしかったらしく、ありがたいことに「大吾がやりたいことなら」と応援してくれました。ちなみに母は、『ケータイ大喜利』で投稿を採用されるともらえる携帯クリーナーが長年実家に届き続けていたこともあり、僕がお笑い好きということには最初からうっすら気づいていたようです。

いまも実家には、大阪から近鉄に乗ってときどき帰ります。電車が綺麗な山あいの道を通ったり、僕の中学校の前を通ったり、ちょっと信じられないほど夜暗い道を通ったりするのを窓から見るたびに、ああ三重に帰ってきたんやな、と安心します。

著者:永見大吾(カベポスター)

浜田順平とのお笑いコンビ・カベポスターのボケ担当。コンビとしては2019年・2021年ABC「ABCお笑いグランプリ」準優勝、2020年 第五回 上方漫才協会大賞 文芸部門賞、2021年 第六回 上方漫才協会大賞 新人賞を受賞。M-1グランプリには2022年・2023年と連続で決勝に進出し、ピンとしてもR-1ぐらんぷり2023で決勝に進出するなど実力派。

構成:生湯葉シホ 編集:ピース株式会社