「絶妙にコクのある、煮込みみたいな東京が好きなんだよ」玉袋筋太郎さん【東京っ子に聞け!】 (original) (raw)

玉袋筋太郎さん

東京に住む人のおよそ半分が、他県からの移住者*1というデータがあります。勉学や仕事の機会を求め、その華やかさに憧れ、全国からある種の期待を胸に大勢の人が集まってきます。一方で、東京で生まれ育った「東京っ子」は、地元・東京をどのように捉えているのでしょうか。インタビュー企画「東京っ子に聞け!」では、東京出身の方々にスポットライトを当て、幼少期の思い出や原風景、内側から見る東京の変化について伺います。

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今回お話を伺ったのは、浅草キッドの玉袋筋太郎さんです。玉袋さんは新宿で生まれ育った生粋の東京っ子。小学生のころから、西新宿のビル群や歌舞伎町を遊び場としてきました。幼少期や多感な思春期を新宿で過ごした濃密な日々は、玉袋さんの人となりや価値観にどう影響を与えたのでしょうか。また変わりゆく東京の街について、今どんな思いを抱いているのでしょうか。

ふるさとである新宿を中心に、修行時代を過ごした浅草や自身のスナックを構える赤坂など、思い入れの深い東京の街について語っていただきました。

西新宿の高層ビルを遊び場にドロケイ

―― 西新宿のご出身ということですが、玉さんが生まれた約50年前はどんなところだったのでしょうか?

玉袋筋太郎さん(以下、玉さん):西新宿一丁目、新宿駅から歩いて2~3分くらいのところだね。今じゃあのあたりはにぎやかですごいことになってるけど、俺が小さいころはまだ静かで、日曜なんて誰もいなかったよ。ガランとしてて、子どもたちが遊んでいるだけだった。

玉袋筋太郎さん 取材は玉さんがオーナーを務める「スナック玉ちゃん 赤坂本店」で行われた

―― 今ではオフィス街や繁華街のイメージですが、当時は多くの人がそこで生活していた。

玉さん:そう、そのあたりの酒屋や魚屋、肉屋にみんな買い物に行ってた。ヨドバシカメラだって、当時は街の小さな写真屋だったからね。実家にある家族写真は、全部ヨドバシカメラで焼いたもんなんだから。

―― 今の街並みからは想像できません。

玉さん:俺が幼稚園に入る前くらいに京王プラザホテルができて、それから高層ビルがニョキニョキと増えていったんだよ。京王プラザの向かいの幼稚園に通ってたんだけど、お袋が俺を幼稚園に迎えにきて、そのままホテルの樹林(じゅりん)って喫茶店によく行ってたな。お袋はタバコとコーヒーが好きだったから。

リクエストすると、47階の展望台にも連れてってくれた。当時、一番高いところからの景色を見ていた幼稚園児は俺だったんじゃないかな。俺からしたら京王プラザは「弟」みたいなもんだよね。

―― 小学生のころは、高層ビルが遊び場だったとお聞きしました。

玉さん:そうだよ。京王プラザのあとに住友ビルができて、三井ビル、野村ビル、センタービル、NSビルとどんどん増えてった。同時に俺も成長して、そこが遊び場になったんだよな。同学年の男子を集めて、ドロケイやったり。野村ビルとセンタービルが地下でつながってるからさ、ビル2棟を使ってね。

田舎だったら、駆け回る山や川があるじゃない。でも、俺たちにとっての山川は高層ビルやデパートだから。

―― ビルやデパートの他に、思い出深い場所はありますか?

玉さん:今はもうないけど、松の湯って銭湯だね。向かいに駄菓子屋があってさ、そこで買い込んだ駄菓子を風呂桶に入れて、風呂につかりながらジュース飲んでた。温泉で徳利で一杯やってる大人に憧れたんだろうね。たまに入れ墨の入った親父に怒られたりしてさ。

だいたい放課後は外で遊んで、家で飯食ったあとに「6時半に風呂屋集合な」ってなるんだよ。で、風呂屋でミーティング。そこで遊びの計画を立てて、風呂を出たら原っぱを自転車でレースだよ。転がって、泥まみれになっちゃったりして。風呂入りにいったのに、汚れて帰ってくるんだから仕方ねえよなあ。

玉袋筋太郎さん

歌舞伎町に入り浸って学んだこと

―― 小学生のころから、歌舞伎町にも出入りされていたんですか?

玉さん:してたよ。当時は新宿ミラノ座や新宿オデヲン座なんかもあって、街全体が巨大なシネコンみたいだった。そのころ、映画のチラシ集めが流行ってたから、歌舞伎町は格好の場所なんだよ。子どもがそんなとこ出入りしてたら顔をしかめる親もいるかもしれないけど、俺たちの家はあんまりうるさくなかった。

―― 教育上、あまりよろしくない場所ですもんね。

玉さん:ほんとにガキのころから行ってるんだから仕方ないよね。それに、そういう場所でこそ身に付くこともあるんだよ。当時の歌舞伎町にはヤクザも、フーテンもヒッピーもキャッチもいた。そこで、子どもながらに「この人はやべえな」っていうのが察知できるようになったんだね。本当に危ないことを警戒するセンサーができた。

だから、この歳になっても俺はマルチ商法とかに絶対引っかからないの。あと、芸能人にありがちな投資話とかもね。

―― 高校時代には、歌舞伎町のラーメン屋でアルバイトをしていたそうですね。

玉さん:そうそう。小さいころから入り浸ってるから、歌舞伎町でバイトすることに何の抵抗もなかったの。出前にもよく行ってたんだけど、ヤクザの事務所からストリップの楽屋、デリヘルの待合所、色んなとこに持ってったな。高校のときは学校がつまらなかったから、そっちに刺激を求めてたんだな、きっと。俺自身は不良じゃなかったけど、ワルがいるところの空気が好きなんだよ。

―― 当時の歌舞伎町は、今よりもっと雑多だったり、危険な雰囲気の街だったんじゃないですか?

玉さん:そりゃあ、今とは全然違うと思うよ。今の歌舞伎町は歌舞伎町じゃないと思ってるもん。歌舞伎町っていえば、生ごみやゲロの酸っぱいにおい、据え置きの灰皿から立ち昇るタバコの煙のにおいだよ。あれ、俺たちにとっちゃ浅草寺の煙(常香炉)と一緒だからさ。身体の悪いところにかけるやつ。でも、今はそういうのもなくなっちゃったな。自分の家ならいいけど、街全体をファブリーズしちまうのはどうかと思うよ。

玉袋筋太郎さん

―― 歌舞伎町はもちろん、新宿の街全体が大きく変わりましたね。

玉さん:俺が遊んでた界隈も道路の拡張なんかで全部なくなった。原風景が消えていくっていうのは、ふるさとの山が削られていくような悲しみがあるよ。でも、それは東京の運命だから仕方ないよな。街は変わっていくものだって、納得はしてるんだけどね。

―― それでも新宿のことは今でも気になってしまうものですか?

玉さん:そうなんだよ、今も一日一回は新宿を通らないと気が済まない。毎日パトロールしてるよ。結婚してからは中野や杉並を転々としてきたんだけど、どうしても新宿を経由して帰れるところに住んじまうんだよな。やっぱり郷愁っていうのかな、根がおセンチなんだろうね。

ビートたけしさんに弟子入りし、浅草フランス座へ

―― 芸人になったきっかけは、高校生のときにビートたけしさんの追っかけをしていたことだと伺いました。

玉さん:そう。俺は殿のオールナイトニッポンを第1回から聴いてたんだよ。当時は中学1年生で、そこから心酔していくわけ。当時、新宿の淀橋中学の同級生はみんな不良で突っ張っててさ、「横浜銀蝿が最高!」とか言ってた。でも、俺は本当のワルっていうのは、ビートたけしなんじゃないかと思ってたんだよ。

ラジオでたけしさんがするスケベな話を聞いてると、ガキのころみたいにワクワクした気持ちになった。近所のおじさんがガキを集めて、悪い遊びを教えてくれるみたいな感じかな。そっちのほうがワルでかっこいいと思ったし、それがあったから俺はヤンキーみたいなグレ方はしなかったのかなって。だから、恩人だよね。

―― 憧れを募らせ、実際に会いに行かれたんですよね。

玉さん:高1の時に、たけしさんを探しに行ったんだよ。ラジオで四谷の「羅生門」って焼肉屋によく行くって話をしてたから、1日かけて自転車でぐるぐる回って、やっとその店を見つけてさ。

―― すごい執念ですね。

玉さん:それで、ラジオが終わる夜中の3時ごろに家を抜け出して、店の前で待ってた。半信半疑だったけど、だんだん軍団の若手が集まってきて、3時20分くらいにすーっと殿が来た。それが初対面だったな。「おう、メシ食ってけよ!」って気軽に誘ってくださったんだけど、そのときは遠慮して断った。もう場所はつきとめたし、いつでも会いにいけるからさ。

ただ、ズケズケ通ったりして図々しいと思われるのがイヤだったから、殿の著作が出たときなんかに限ってサインをもらいに行くっていうルールを自分の中でつくってね。

玉袋筋太郎さん

―― そして、高校卒業後に晴れて弟子入り。

玉さん:弟子にしていただいて、最初は『風雲!たけし城』のエキストラをやってた。でも、仕事といえるのはそれくらいで、これといった芸もない。すでに知り合っていた相棒(水道橋博士)とも、このままじゃダメだなってよく話してた。そんなとき、当時はまだストリップ劇場だった浅草フランス座で、住み込みで働ける芸人を探してると聞いて手を挙げたんだ。

―― かつて、たけしさんも修業時代を過ごしたフランス座ですね。

玉さん:そう。それで、きったない喫茶店で当時の劇場の社長と面談をしてフランス座に行ったら、劇場の前で殿が待っててくれたんだよ。「お前ら、ここで修業して芸人の匂いをつけてこい」って。うれしかったなあ。そうか、芸人にも匂いがあるんだって思ったね。

―― 当時の浅草は、どんな雰囲気でしたか?

玉さん:今みたいににぎやかじゃなくて、歩いている人より寝ている人のほうが多かったぐらい。バブルから完全に取り残された街で、夜の8時には真っ暗。酔っぱらってフラフラのおっさんしか歩いてないような状態だったな。

住み込みの修業も苦しくて、よく芸人が若手時代の貧乏話をするけど、あのころの俺たちには誰も勝てないと思うよ。

―― どういう生活だったんでしょうか?

玉さん:朝の9時から劇場の掃除を始めて、そこから劇場がはねる(※終了する)夜の9時まで働きどおし。その後、劇場の社長が経営してるスナックを手伝うわけ。日当1000円だから、時給100円にも満たないよね。

まともに飯も食えなくて、3カ月で体重が20kg以上減ってガリガリになっちゃった。楽屋の汚い布団で寝てたからダニにくわれて身体中にブツブツもできて、病院に行ったら「こんなの戦後すぐの病気で、今時は野良犬もかからない」って医者が興奮して、図鑑に載せてもいいか?って言ってきたからね。たぶん、皮膚病の図鑑に俺の写真が載ってると思うよ。それが俺の雑誌デビューだな。

玉袋筋太郎さん

―― 今でこそ明るく振り返っていますけど、当時は笑えない状況ですよね。

玉さん:大変だったね。みっともない生活をしてたと思うよ。でもね、浅草時代は本当に楽しかったんだ。同年代のやつらと親元を離れて共同生活をするのも楽しかったし、何より前説で舞台に立てるからさ。当時は相棒の博士も素人同然だし、俺なんかつい最近まで高校生だったわけだから、芸にも何にもなってないんだけどね。ストリップの客相手に泥臭いベタベタのコントをやっているのが面白かった。

本当はずっとそこにいたかったんだけど、劇場の経営者が追い出されて、その下で働いてた俺たちも居場所がなくなっちゃったんだよ。だから浅草にいたのは7カ月くらいの短い期間だったけど、濃厚だったな。

スナックで赤坂を提供する面白さ

―― 新宿や浅草以外で、思い入れのある街はありますか?

玉さん:この店(スナック玉ちゃん)がある赤坂は面白い街だな。スナックを始めるとき、最初は俺の生活圏の中野や荻窪でやろうと考えたんだけど、TBSのテレビやラジオで世話になっている人たちも来やすいんじゃなかと思って赤坂にしたんだ。

赤坂ってさ、やっぱりナイトビジネスがすごいじゃない。古くはナイトクラブのニューラテンクォーターやミカド、ペペルモコがあってさ、昭和の一番ピカピカした大人たちが集まる街ってイメージがあった。だから、最初は俺が足を踏み入れていいのかなって気持ちもあったな。

玉袋筋太郎さん

―― それでも、赤坂に根を下ろしてもうすぐ3年になりますね。街の印象はどうですか?

玉さん:やっぱり大人なお客様が多いよね。変につっかけてこないんだよな。レディース&ジェントルマンが集まってくる。それに、赤坂だとスナック自体が初めてっていう人も多いんだよ。バーやクラブで呑んでた人が、スナックは面白かったって言ってくれるのがうれしいよな。

これまではさ、新宿や浅草といった街が、俺にいろんなものを提供してくれてた。でも、スナックを始めて、今度は俺が赤坂を提供する側になった。それって、すごく面白いよ。

―― 玉さんは「スナック文化の発展と保存」を目的に、全日本スナック連盟も立ち上げられていますもんね。

玉さん:スナックは楽しいよ。ドラクエと一緒だから、スナックって。重い扉を開けたら、自分の職場では見かけないような人たちがいる。ドラクエも、ダンジョンによってはすげーおもしろいモンスターがいたりするじゃない。そういう場所にあえて行くことでレベルがどんどん上がって行くわけ。

例えばさ、たまたま入ったスナックで、常連のおじいちゃんがわけの分からない昔の歌を歌ってたとするじゃない。そこでジェネレーションギャップを感じて諦めるんじゃなくて、何度も通うことでスピードラーニング的に歌を覚えちゃうわけだよ。新しい呪文を覚えるみたいなもんだな。最初はホイミくらいしか使えなかったのが、最終的にベホマズンまで行く。そういうロールプレイングゲームだと思って、スナックを楽しんでほしいな。

―― まずは近所のスナックから挑戦してみるのもいいかもしれませんね。

玉さん:そうだなあ。東京にもまだスナックはあるからさ。繁華街だけじゃなくて、自宅の半径100メートル以内にあるスナック、住宅街にポツンとある店の扉を開けてみなよ。そこで長年やってる、地域に根付いたスナックは外れがないと思うよ。

例えば地方から上京してきてさ、なかなか街に馴染めないときってあるじゃない。でも、合わないと思いながらも暮らしていくしかない。そんなときは地域密着のスナックに行くことで、その街のことが分かってくると思う。そうすると、意外といい街だなって感じられるかもしれないよ。

コクのある東京を残してほしい

―― 最後に、改めて東京の良さを教えていただけますか。

玉さん:東京はいいよ。よく東京は冷たいって言うけどさ、そんなことないって。東京ほど、いろんな人を受け入れている場所はないんだから。地方の人もチャイニーズもコリアンもいて、なかには怖い人やアヤシイ人もいるかもしれないけど、それが絶妙にコクを出す。東京は煮込みみたいなもんだよ。だから下手に綺麗にして、せっかくのコクなくさないでほしい。上澄みだけじゃなくて、どこをすくっても濃い東京であってほしいね。

―― 今はどの街も開発されて、平均的に住みやすい街がつくられている印象です。

玉さん:まいっちゃうよね。全部が全部、そうならないでほしいんだよ。街全体のつくり方をうまくグランドデザインしてほしい。ここは残そうとか、開発されて新しくなってもこのスタイルだけは受け継いでいこうとかね。でないと、俺たちが心地いいと思う場所がどんどんなくなっちゃう。

小池さん頼むぜって思うよ。やっぱ、俺が都知事になろうかな。

玉袋筋太郎さん

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お話を伺った人:玉袋筋太郎(たまぶくろ すじたろう)

玉袋筋太郎さん

1967年生まれ。東京都新宿区出身。高校卒業後、ビートたけしに弟子入り。1987年、水道橋博士と浅草キッド結成。著書に『新宿スペースインベーダー―昭和少年凸凹伝―』『浅草キッド玉ちゃんのスナック案内』、コンビの著書に『キッドのもと』など多数。一般社団法人全日本スナック連盟会長を務め、自身がオーナーを務める「スナック玉ちゃん」の経営も行っている。

Twitter:@snack_tama
HP:スナック玉ちゃん 赤坂本店

聞き手:榎並紀行(やじろべえ)(えなみ のりゆき)

榎並紀行(やじろべえ)

編集者・ライター。水道橋の編集プロダクション「やじろべえ」代表。「SUUMO」をはじめとする住まい・暮らし系のメディア、グルメ、旅行、ビジネス、マネー系の取材記事・インタビュー記事などを手掛けます。

Twitter:@noriyukienami
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編集:はてな編集部