勝手に更新される毎日 (original) (raw)

最近、ジムに通い始めた。

私の記憶が正しければ、5年ぶり4度目のことである。

これまで健康診断において何かにひっかかったことがなかったが、齢四十も過ぎれば身体のどこかにガタが来るのも避けられないようで、前回の診断では初めて「血糖値が高い」と指摘された。

今のところは大層なことではなく、節制して様子を見てねってくらいのことなのだが、病状が進行して糖尿病にでもなれば大変厄介で、それを避けるためには、生活習慣を改めなければならない。

進行を食い止めて健康な状態に戻るためには、運動をする習慣を身につけるのが王道だ。

しかし、継続的に運動をするのには、強い決意と精神力を要するものである。

これまでも、よーしいっちょやったろかと奮起してジムに入会したことは何度かあったが、走ったり重いものを持ち上げたり下げたりするのは大変しんどいので、最初のうちは頑張っていても、しだいに、「今日はちょっと脚が痛いからやめておこう」だの「今日は二日酔いだからやめておこう」だの「今日はなんかムシャクシャするからやめておこう」やら、挙句の果てには「今日は仏滅だからやめておいたほうがよさそうだ」などと勝手に理由を作って自分に言い訳をし、しだいに行く頻度が減っていく。

そうなれば、全く行かなくなるのは時間の問題だ。

先日、同世代の知人と飯を食っていたときに、その者もアラフォーの呪縛にはまったのか、「この間はじめて脂肪肝って言われたんです」と言い出した。

「俺も高血糖だってさ。やっぱ四十になったら無事ではいられないんだね」

「そうなんですよ。でもそんなに暴飲暴食してるわけでもないし、あとは運動するしかないんですけど…」

そいつも私と同じようなジム遍歴を持っていたようで、これまでの傾向を脱却しサボらないようにするためには何かしらの強制力が必要と判断したらしく、「ふたりでジムに通いませんか」と提案してきて、渡りに船と思った私は、その場で2人でジムに行く日程を決めた。

何の予備知識もないが、高血糖にも脂肪肝にもまずは有酸素運動が第一じゃね?糖も脂肪も燃焼する感じがするし、と、我々はランニングマシンで走ることを、ジムでのメインの活動とすることにした。

2人がそれぞれ住むところの間を取った通いやすい場所にあって、かつ公営であるため利用料がリーズナブルであるそのジムは、マシンの台数が少なく、多くの人が利用できるようにと1回あたりの利用時間を30分以内に制限しており、そのためかそれとも偶然なのかはわからないが、マシンの1回あたりの稼働時間も30分より長くには設定できないようになっていた。

どれだけ走れば血液中の糖分量と肝臓の脂肪量が減じる効果が生まれるのかわからないが、とりあえず30分は走ろう、我々はそう決断し、マシンの上に立った。ちょうどいいペース配分もわからないため、とりあえず適当なスピードで走り出したが、3分ほど走っただけで息が切れ始めた。

こんなペースで30分もつのか、私は早くも強烈に不安を感じ始めていた。

私と同じようなことを思う人は多いのだろう、このランニングマシンには、走る人を鼓舞して士気を高める素晴らしい機能が搭載されていた。

走り始めてから消費したカロリー量とそれが食べ物や飲み物に置き換えるとどんなものに該当するか、が液晶画面に表示されるのだ。

しかも、「あとちょっと走れば○○1個分のカロリーを消費できるからここまでは走りきろう!」とメモリ表示があらわれ、通過すれば、次にそれよりちょっとカロリーが高いものが出てきてまたそれが目標になる。

いわば、常に目の前に人参がぶら下げられているような状態だ。

素晴らしい配慮だ、秀逸な機能だ、私は最初のうちは感心していたが、走り続けているうちに、絶望的な気持ちへ変わっていくことになる。

まず最初に現れたのは、かき氷だった。

これはすぐ通過してしまった。

当然だろう、かき氷のカロリーなんて、あの最後にたらーっとかけるシロップ分だけなのだ。

あれのカロリー消費に手こずっているようでは、先が思いやられる。

次に現れたのは、いちごだった。

いちごのカロリーなど意識したことがないからわからない。

というか、いちごなどそう頻繁に食べるものでもない。

とはいえ小さいものだから、カロリー量も大したものではないのは想像がつく。

これも難なく通過。

正確には覚えていないが、その次か次の次あたりに、目玉焼きが出てきた。

俺はこのあたりで息を切らし始めていた。

これだけ走って目玉焼き1個分にしかならないのか。

しんどすぎる。

俺はもう、トーストに目玉焼きをのせることは金輪際しないだろう。

そして食パンだのフライドチキンだのが出てきて、ぜえぜえはあはあ言いながらやっとの思いでそれらを倒した俺の前に、次に現れたのはビールだった。

ジョッキに入ったビールのイラストを見て、俺の心は折れてしまった。

え?ビール?まだビール1杯のところまで来てなかったの?

ビールってこんなにカロリー高かったの?

「とりあえずビール」なんて言ってるやつ全員殴りたい。

飲み会に行ったらだいたいビールを4~5杯くらい飲むけど、チャラにしようと思ったらこれを5回も走らないといけないのか?

心が折れた格闘家は、ダウンしていなくてもギブアップしてしまう。

それはランニングマシンの上の素人ランナーも同じだ。

私はビールを見たあたりからなぜか急に膝の痛みを感じるようになり、走れなくなってしまった。

膝が痛いと走れないから仕方がない、と言ってしまえばその通りだが、打ち砕かれた私の精神が運動を中断する理由を作るために膝の痛みを作り上げたに違いない、と私は自分の身体に無意識下で起こった現象を分析した。

ランニングマシンのメーカーの方に言いたい。

あのタイミングのビールだけは逆効果である、と。

俺は家でこれを書きながら、途中で冷蔵庫に向かう。

取り出したのは、輸入ビール。

輸入ビールだから、カロリー表記がない。

これなら安心して飲めるから有難い。

先日、ある人と会って話をした。

その人はミュージシャンをやっているのだが、ミュージシャン活動のみでは食っていけないため、レッスンなどのビジネスも行っている。

音楽業界というと、作品の芸術性の高さや技術のみが評価される、さぞかしクリエイティブな業界だと想像していた。

しかしその人の話によれば実態は案外そうでもないようで、「超有名ミュージシャンの作品に参加したことがある」といった看板(実際はその超有名ミュージシャンからは認識もされていないくらい端役でも、話を盛った者勝ち)や、そういった目立つ仕事を回してもらうためのコネクションづくりの上手い人が幅を利かせているらしく、もう嫌になっちゃう、みたいなことを言っていた。

「はぁーそういうもんなんですかーたいへんですねー」などと適当に相槌を打ったあと、私は仕事で抱えている問題意識(と言えば格好はいいが、実際はただの会社への愚痴)を話した。

すると、その相手はこう尋ねてきた。

「そんな状況だと、創造の衝動はどうやって処理してるんですか?」

私は最初、何を問われているのか理解できなかった。

「そうぞうのしょうどう」が「創造の衝動」に結びつかなかったのだ。

「ミュージシャンだし、韻を踏んでるのかな」くらいにしか思えなかった。

しかし、日常会話で韻を踏む人などいない。

呂布カルマでもR指定でもしない。

だとすると何なのだ。

「しょうどう」はおそらく「衝動」だとすると、「衝動を処理」って自慰行為のこと?

でもいきなりそんな話をぶっ込んでくる人にも思えないし、流れ的にも意味不明だし。

「え?どういう意味ですか?」と聞き返して、ようやく質問が飲み込めた。

そういえばそうだった。

私も、業界や肩書きだけを聞けば、クリエイティブだと思われても仕方のない職業だった。

ただ実態はぜんぜんそのようなことは無く、あまりにそんなこと無さすぎて、最近では、周囲からそのように見られていることすら忘れてしまっていたくらいだった。

その結果、「そうぞう」が「創造」を指しているとは、「想像」がつかなかった。

質問の意味が理解できると、すぐさま別の疑問が生まれる。

「創造の衝動なんて無いですよ。あるんですか?」

するとその方は、「降ってきたイメージや表現したいことを形にしないと、居ても立っても居られな くなる発作のようなもの が頻繁に来るらしく、日常生活に支障があって大変だ、と明かした。

いったい何なのだ、その状況は。

どういう人生を送ってきたらそんな現象が起こるというのだ。

そんな衝動、兆候すら微塵も感じたことはない私には、全く想像すらできない。

なんらかの制作作業を行う際、大概の人が、取引先や上司から納期を設定された、とか、締切までに提出しないと失格になってしまう、などの「強制力」「制約」によって動かされている。

この延長線で考えれば、「創造の衝動」も、別の類の「強制力」や「制約」が形を変え表出したものだと見做すのが自然であろう。

つまり、「これを出すことこそが、私がこの世に生まれてきた目的そのもの」とか「この作品を世に発表しなければ、私の存在価値は無いも同然」といったような思い込みだ。

なぜそういう発想が出てくるのか、その原理はわからないが、外部もしくは(人格の)内部から来る強制力の存在無しで手の込んだ作品を完成させるなんて、面倒すぎてやっていられないのではないだろうか。

とはいったんは考えたものの、芸術家の創造の源泉を芸術家ではない私が推察することが、そもそも浅はかな行為なのかもしれない。

その発生源が何なのかはさておき、芸術家として作品を生み続けることができる人は、漏れなく「創造の衝動」によって突き動かされているのだろうか。

思い返してみれば私にも、文筆家として世に出たいと夢見ていた時期がかつてあった。

しかしそれとて、出版社やWEBサイトなど媒体からいきなり何の実績もない私に発注が来るわけもなく、かといって本物の芸術家の皆さんのように「創造の衝動」がやってくるわけでもないし、ましてや書きたいテーマや訴えたい主張があるわけでもないから、当然、執筆は進まない。

進む理由がない。

そうこうしているうちに今週も、今年も20年後も通勤電車に揺られ続け、気がつけば、作品を作れないほどに思考力が低下した老人になっていた。

そんな人は世の中にごまんといるのではなかろうか。

私もそのルートを爆走中だ。

そこに絶望はない。

あるのは納得感だけだ。

「衝動もなければやらないといけない理由もないのだから、やらないままで別にいいじゃん」と言われればそれまででしかない。

「創造の衝動」無しに芸術家として大成した人など、存在するのだろうか。

アメリカのバイデン大統領に対して、党内からの選挙戦からの撤退圧力が強まっているようだ。

バイデンは81歳とたしかに高齢ではある。

私はバイデンやアメリカの政治についての知識を全く持ち合わせていないが、高齢による衰えはあっても、とりあえず非常に長いに違いないキャリアを持ち、最強国家アメリカのトップである大統領になるくらいだから、実績や政治力でもずば抜けているはずだ。

バイデン自身はかたくなに続ける意志を示しているらしいが、彼にすれば、そんなダントツトップの俺様に、少々歳を取って何回か言い間違いをしたり居眠りしそうになったくらいで揚げ足を取りやがって、自分よりも能力も実績もはるかに劣る奴らから「撤退しろ」なんて言われたら、腸煮えくり返るくらいムカついて、「お前ら如きに大統領が務まるわけがない、他に誰が適任だと言うのか」「冗談も休み休みにしろ」「おれ絶対辞めへんで」ってなるのも無理はない気がする。

つい先日、3つほど歳下の同業者と立ち話をした。

彼は最近になって、本業とは関係のない副業を始めたという。

その理由を聞くと、
「この業界でやっていく才能がないって認定されちゃったときに、自分の創造性を発揮できる別のジャンルを持っておく必要があるって思った」 という。

私がいる業界は確かに若干特殊なところがあって、自身が立ち上げた仕事がなんとなくそれなりにヒットしたと認められると、以降の仕事も次々と入ってくるのだが、そうならなければ、けっこう早い段階で本流を外され、望まぬ閑職に追いやられることが多い(もちろん例外もまあまあ多く、これといって何の実績も無いのに定年まで居続ける人もいる)。

私は彼の仕事を詳しく知っているわけではないが、彼が中心となって続いているプロジェクトのことを見聞きはしていたので

「え、でもあの仕事とか、がんばってるんじゃないの?」
と尋ねると、

「そうなんですけど、あれだっていつまで続くかわからないですし、年齢的にも微妙なタイミングですよね」 という。

さらには、
「その点、先輩は、もう明らかに才能が無いから、諦めて別の道でやっていく判断をするのも簡単そうでいいですよね」
とも付け加えた。

最後の一文は、本心半分いじり半分(と書いたが、実際のところその比率はわからない。いじり1割で本心が9割かもしれない)だろうが、30代後半の奴がもう引き際を意識しながら仕事をしているのかと考えると、なかなか息苦しい業界だと感じてしまう。

と同時に、そいつよりも歳上の俺は、もっと真剣に、深刻に自分の心配をしなければならないのか、と、いきなり何の脈絡もなく通告されたような気持ちにもなった。

バイデンさんの取り巻きの方々、引き際について教えてください。

今から8年前のことだが、前職から今の会社に転職する際に、他にも複数社を受けていて、その中に出版社がいくつかあった。

(「いくつかあった」って、今の会社、業界とは全然違うよね? 節操なくね? 何がしたかったの? しかも前職も出版関係ないじゃん。なんでいけると思ったの?)

先日、Dropboxの容量がいっぱいになって、ファイルを整理していると、

(そんなヒマがあったら有料契約できるようになるくらい働けよ。ってかそれくらいの金はあるだろさすがに)

ある出版社のエントリーシートの課題の回答として書いた文章が見つかった。

(こんなテキストファイルを整理したくらいで、Dropboxの容量なんて増えないだろ、もっと画像とか映像とかばんばん消していけよ、しょうもない企画書とかもたくさんあるだろ)

読み返してみると、「俺もこの頃と比べると成長したなあ」と思ったので(無論、当時がアホだったなあ、という意味において)、自戒の念を込めて、その作文を公開しようと思う。

(40にもなって何が「成長したなあ」だ。もう成熟してろよ馬鹿)

文章は、日本語がちょっとおかしかったところ以外は変更していない。

(出版社落ちた理由、それだろ)

課題は「1冊本を読んで、その感想を500文字程度で書きなさい」という内容で、俺が選んだ本は『Licca’s Tweet スーパーおしゃれ女子、リカちゃんの華麗なる日常』(香山リカ著 監修:タカラトミー 出版社:宝島社)だった。

(普通、受ける出版社が出版してる本を選ぶだろ、何を考えてるんだ。しかもなんだこのチョイス)

これは恐るべき本である。

今後、リカちゃんを超えるインフルエンサーは、現れることはないだろう。

いや、リカちゃんのTwitterが人気だからといって、リカちゃんを「インフルエンサー」と呼んでよいのだろうか。

リカちゃんに影響を受けてしまってよいのだろうか。

リカちゃんが一人形であった牧歌的な時代においては、それでよかったのかもしれないが、SNS時代である今となっては、その影響を受けて後を追うことは、地獄への一歩ではなかろうか。

Twitterは自分がシェアしたいと思った瞬間だけを共有することができる「選択同期」が特徴のプラットフォームだが、これはまさにリカちゃんが最も得意とする分野、リカちゃんのために存在する仕組みといって過言ではない。

リカちゃんは服のセンスが最高で、毎日違うファッションをして様々なところへ出かけて、その様子を、最高の笑顔と底抜けに明るいテキスト、そしてじっくり練られたカメラワークの写真とともに、投稿し続けている。

これを並の女性が同じことをやろうとすると大変だ。

相当の努力や資金力が必要となる上に、周囲からの妬みに対するストレスも、たまったものではないはずだ。

生身の女性であれば、どうしてもそういった「背景」が、ツイートからにじみ出てくる。もしくは、たまには弱音を吐きたくなったりする。

しかしリカちゃんは決してそうはならない。絶対に弱みを投稿しないし、「背景」なんていくら目を凝らしたところで見えない。

当たり前だ。

「背景」など存在しないのだから。

タイムラインを見ると、リカちゃんは完璧なのだ。

もはや、殺人的に完璧である。

殺人的? 誰を? 無論、他の数多のインフルエンサーである。

SNSを眺めていると、「私の誕生日パーティーを開催するので、ぜひ来てください!参加表明はこちらのボタンをクリック」といった投稿をたまに目にするのだが、これを見ると毎回なんとも言えぬもやっとした気持ちになる。

そして、しばらく考える。

すると、そのもやっとした感情の発生源は、単なる「うらやましい」であることに気がつく。

俺はなぜ、自分の誕生日パーティーを自分で主催して、告知、招待できる側の人間になることができなかったのだろうか。

一度、仮に俺が同じことをやったらどうなるか、想像をしたことがある。
結果は、恐ろしいものだった。

パーティー開くはいいけど、自分で主催するからには内容も自分で決めないといけないが、何をやろうか。

というか、俺では、何をやったとしても、見る側は「私達はいったい何を見せられているのだろうか」ってなるだろうなあ。

中身はさておき、会費はいくらにしようか。

こんな暇イベント、無料でも人は集まるのだろうか。

招待はどこまで幅広く声をかけようか。

仲の良い人たちだけにするのか、それとも、とりあえずSNSでつながっている人は全員か。

いや、もはや、つながっていても俺のことなど知らないもしくは覚えていない人が過半数くらいいるだろうから、全員は無いか。

でも仲の良い人に絞ったのに全然集まらなかったらどうしよう。

そもそも、仲の良い人なんていたっけ?

全員に声をかけたら、SNSで招待を見た人はどう思うのだろうか。「なにやってんだこいつ」とか思うのかな。

などの難題が山積、考え出すと面倒すぎて目眩がしてくるから、私は私の誕生日パーティーを開催することは永遠にないであろう。

しかしこれで終わってしまうと、今回のブログのテーマが完結してしまうので、面倒を承知で、パーティーを開こうとするとどうなるか、推考を続けてみよう。

特にややこしいのが、会費である。

一般的には、人が参加したいという気持ちは、会費の額と反比例すると考えられる。

さらに、会費が高ければ高いほど、参加する側が「こんな高い金払ったんだから、さぞかし面白い催し物をやるんだろうな。それが無いなら最低限、美味いもの食って元を取ったろ。しょうもなかったら承知せんぞ」と、内容およびクオリティに対する期待値、言い換えれば、主催者に対する精神的圧力、が上がる。

募集要項を見た人の「こいつの誕生日に○○○○円なんて、果たして誰が行くというのか」というつぶやきが、スマホの画面越しに聞こえてくるような気持ちになる。

会費が高ければ高いほど「誰が行くねん」という人の数は増えるし、「行くわけないだろうが」の気持ちも強まる(であろうと、スマホの画面越しに伝わってくる)。

誕生日パーティーを開きたい人は、おそらく、ある程度の数の人に祝ってもらいたいから開催するわけであって、参加者を減らしたくないから、会費はなるべく抑えたいところだ。

一方で、会費が低ければ低いほど、会場費、運営費、飲食費などの費用が賄えずに赤字になる可能性が上がる、また赤字額も膨れ上がる。

このバランスをとって絶妙な会費を設定するのは大変困難と想像され、会費が高すぎても安すぎても、赤字になるリスクは大きくなるが、最適解は事前にはわからないし、事後にもわからないであろう。

つまり、自前誕生日パーティー開催を実現するには、相応の集客力と、赤字を厭わない資金力が必要とわかる。

さらにやっかいなのが、相応の資金力を持つ人は、だいたい、集客力も兼ね備えている場合が多い。

それは資金資産がある人に近づくとおこぼれに預かれると考えて行きたくなるのか、または資産資金がある人は人間的魅力、いわゆる人間力が高いことの所作であるから必然的に集客力も持っているのか、もしくは逆に、集客力すなわち人気があることで収入が高まり資金が貯まっているのか、鶏と卵の関係で因果関係はわからない。

ただ確実に言えることは、誕生日パーティーの開催資格を持つ人は、一部の富裕層に集中し、ピケティも見落とした「自前誕生日パーティー開催力」の偏りの存在だ。

この偏りには、SNSのある機能も影響を与えている。

俺は集客力も資金も持ち合わせていないが、仮に、そんなことを意に介さず強行して誕生会を行った場合にも、SNSには困った機能がある。

誰が、何人が参加する意向を表明しているのか、一目でわかるあれだ。

これがあることによって、参加者が多い誕生日パーティーは、「お、なんかめちゃめちゃ人が集まっとるやんけ。楽しそうやな、俺も参加したろ」となるし、参加者がほとんどいないパーティーだと、「なんやこれ、2人しかおらんやんけ。こんなん行っても誰とも話されへんし、楽しなさそうやからやめとこう」となる。

人が人を呼ぶ、もしくは人の不在が人を遠ざける。

これによって、誕生日パーティー集客力の格差社会が生まれるのだ。

では、この格差を克服し、誕生日パーティーを開催できる人間になるには、どうすればよいのだろうか。

上記の考察により、以下の筋道が考えられる。

①とにかく金を貯める

俺には金があるから赤字になっても全く構わない、という精神的余裕を拠り所とし、参加費を極限まで下げる。

それでも集客力が足りないのなら、参加費を無料にした上で参加者に金を配る。

行くだけで飯が食える、金がもらえるのであれば、主催者に人気がなくても、つまらないパーティーでも、ある程度の人は集まるだろう。

金を貯める方法は、死ぬほど働いて収入を増やしながら、生活費をギリギリまで節約する、以外の方法を知っている方はぜひ教えてほしい。

②人気者になる

言うのは簡単だが、実行するのは至難の業である。

そして前にも述べたように、人気者になる資質は、資本主義社会で成功する能力と共通する部分が多い。

もちろん、資本主義社会で失敗することによって人気者になる、というケースもあるが、これは、水原一平や粗品、(規模は全然違うけど)岐阜暴威などのように、金を失ったこと自体をエンタメ化できる強靭な精神力が必要となる(水原一平はまだそれをやっておらず、彼の復活のためにはそれしかないだろうからがんばってほしい、という期待を込めて)。

これは並大抵のことではなく、私なら、株取引で1000万円失ったら1年は立ち直れないだろうし、ギャンブルで60億も溶かしたらUber Eatsなんてやっても意味がないと絶望して身体が動かないだろうし、ましてやYouTubeに動画を投稿するなどして自分の失態を世に広めようなんて、思いも寄らないだろう。

しかし、私は、資金力や集客力より根本的な問題を抱えていることに、逃れることはできないだろう。

それはひと言で言えば、気持ちの問題である。

「私の誕生日に、参加したい人を募集する、または、幅広く募るほどの価値がある」と、自分が思っているかどうか、ということだ。

前にも述べたことがあるが、私には、10歳より前の記憶がほとんど無い。

suzuki1001.hatenablog.com

家族で誕生日パーティーを開くのなんて、だいたい10台前半くらいまでだろうから、私は、人生で私の誕生日パーティーをやった、もしくはやってもらった経験がない。(経験はあるのかもしれないが、記憶がない以上、それは経験していないのと同じだ)。

せいぜい、飲み屋で飲んでいたら突然店内が暗くなって、BGMが流れ、花火が3本ほど乗ったケーキを持ってきてもらった経験が2度ほどある程度だ(それも大変ありがたいことであり、本当は「程度だ」なんて書いてはいけないのだが、ここは便宜上、誕生日パーティーと比較するためにそのようにする)。

5段の跳び箱を跳び越えられない者が12段に挑戦しようとは思わないのと同様に、私のような誕生日パーティー童貞が、「私の誕生日パーティーを開催するので、ぜひ来てください!参加表明はこちらのボタンをクリック!」なんて、SNSに投稿できるわけがないのは自明のことであり、集客力とか資金力とか以前の精神性の部分で、私は「自前で誕生日パーティー開ける」勢に完敗していたのである。

誤解しないでもらいたいが、これは私の心の闇とか、そういった類のものでは全く無い。

どちらかといえば、「右利きか左利きか」といった、単純な個性の違いに近い。

ただ、私はそれを心底うらやましいと思っている。

昭和初期~中期くらいに書かれたものを読むのが好きだ。

その魅力のひとつに、平和な話の合間に突然、女は馬鹿だとか、子供をぶん殴ったとか、黒人は嫌だとか、いまの時代にはコンプライアンス的にアウト、アウトもアウト、大アウトな言動が、前触れもなくポンポンと、カジュアルに飛び出してくることがある。

別にアウトローな書籍を選んで読んでいるわけでもなく、普通の随筆でもそんな様子だから、こっちはそんな心の準備もなく、不意を突かれてしまう。

「この人は日常生活でも面白い視点で物事を見ていて、優れた洞察力の持ち主だなあ」なんて思いながら読み進めていても、いきなり「同性愛は病気の一種であるから…」とかいった文言が飛び出してくるのだから、公園の児童向けアスレチックだと思って登ってみたら「実はこれ『風雲たけし城』です」と言われて放水車が出てくるようなものである。

こんなジェットコースターみたいな本が、昭和の作品には、たまに存在する。

筆者に対するそれまでの印象も、たった一文で180度変わってしまう。

もっとも、そういった内容を含む書籍でも、再刊行された書籍であれば

「現在では差別的で不適切と思われる語彙や表現がありますが、作品が書かれた時代背景、また、著者が故人であることを考慮し、原文のままとしています」

といった注釈が冒頭に入ることが多く、安心して読み進めることができる。

最近話題のドラマ『不適切にもほどがある!』に代表されるような、現代と乖離した昭和の常識を笑う企画はたまにあるが、あれも冒頭に「不適切な内容があるが、当時の時代背景を表現するために、あえて使用して放送します」といった注釈があり、不適切表現に対する心の準備を促している。

しかし、たまに注意をかいくぐり、注釈がないまま不適切表現がビーンボールのように不用意に飛び出してくる作品と出くわすケースもあり、これはこれでドキドキ感がひとつの魅力である。

先日、あるエッセイを読んでいた。

それは昭和に書かれたものではなく、作者は現役の作家であり、最近になって文庫化されたものである。

複数の作者のオムニバス形式になっており、私はそのうちの2人がよく読む作家だったので読んでみたが、一度も読んだことがない作家がほとんど、中には名前も知らない人も数人いた。

読み始めてしばらく、ある作家のページにて、「愛想が悪い女はだいたい顔もブスで、心もブスだ」みたいなことが書いてあって、ぶっ飛んでしまった。

なんせ、昭和ではない、現代もののエッセイを読んでいるのだ。

もちろん、「不適切な表現をあえて使用します」などの注釈はない。

え、だれこの作家?

何者?

現役?

何歳?

いいの?これ回収しなくて?

すぐさま発行年を見ると、2017年だった。

うーん、8年前か。

昭和どころか平成終期だが、それでもまだギリギリセーフだったのだろう。

それくらい、ここ数年の、世の中の空気が変わっていくペースは急である。

7年前の作品でもまだ、平和のネコをかぶった凶暴な本が残っているのだ。

これが昭和の本だったら「あははーびっくりした」で済んでいるのだが、相手は現役,

笑って済む話ではない。

時期が数年ズレていたり、書籍ではなくブログだったりしたら、作家生命が終了していた可能性もある、空恐ろしい話なのである。

これだから本を読むのは面白い。

他山の石にしないといけないけど。

そして、あの知らない作家さんは、まだこの世で、業界で、生き残れているのだろうか。

以降の作品を読んでみたい。

1, 2, 4, □, 16, 32, 64, 128, … この□に入る数字はなんでしょうか?

私は、この手のクイズが嫌いである。
謎解きが流行ってから、よく見かけるようになった。
実際には、良問とされるクイズはこれほど単純ではないが、今回の主旨は、問題の完成度が高いとか低いとかにはなない。
私がこの手のクイズを害悪だと感じるのは、「規則性」というものに対する人々の舐めきった態度を、この設問が代表していると考えるためである。

上の問題であれば、答えは「当然、8です」と言いたくなるだろう。
しかし、実はこれは「当然」ではない。
それどころか、場合によっては不正解かもしれない。
物事はそこまで単純とは限らないのだ。
にも関わらず、クイズクリエイター(なんだそれ)がドヤ顔で、「正解は…8です!」なんて言っているのを見ると、「そんな規則どおりになるわけねえだろ」という、ツッコミを超えて反骨心にも似た独り言が思わず飛び出る。

実際、上記の問題であれば、前からn番目の数字を
\[a_{n}=2^{n-1}\]

という数式で表現することができる。

しかし、数学界では常識らしいのだが
「数列の一部から、その続きを類推することは不可能」
だそうである。
私はこれを高校生のときに数学の参考書かなんかで読んで、驚きのあまり感動すらしたことを今でも覚えている。

実際、上記の数式も、ちょっと工夫して
\[a_{n}=2^{n-1}+(99999-2^{n-1})\frac{\left(n-1\right)\left(n-2\right)\left(n-3\right)\left(n-5\right)\left(n-6\right)\left(n-7\right)・・・}{\left(4-1\right)\left(4-2\right)\left(4-3\right)\left(4-5\right)\left(4-6\right)\left(4-7\right)・・・}\]
と変化させれば、□は8ではなく99999になるし
\[a_{n}=2^{n-1}+(\pi-2^{n-1})\frac{\left(n-1\right)\left(n-2\right)\left(n-3\right)\left(n-5\right)\left(n-6\right)\left(n-7\right)・・・}{\left(4-1\right)\left(4-2\right)\left(4-3\right)\left(4-5\right)\left(4-6\right)\left(4-7\right)・・・}\]
とすれば、□はπになる。

つまり、数列の規則性なぞ、問題作成者の意思でどうとでも取り繕うことができるし、見るものの目を欺くこともできるのである。

数列ですらそうなのだから、ましてや人間など言うまでもない。
「あいつはこういうやつだから、こういうときにはこうするに違いない」
などと予想することなど無意味であり、また、人格の奥深さを過小評価している点で失礼でもあり、あまりにも浅はかで、滑稽ですらある。

もう20年も前のことだが(これを書いていて、もうそんなに年月が経ったのかと、自分のことながら驚いたが)、私は、新卒で入社した広告会社での採用面接で
「いまの広告に必要なものは何だと思いますか?」
と問われ
シュールレアリスムです」
と回答した。

「いま言った『シュールレアリスム』とは、一種の『不連続性』のようなもので、いまの消費者はあまりに広告に触れる経験に慣れすぎているため、いかにも広告っぽい広告に接触すると『あーまた広告か』と、広告であると認識された瞬間に無視される運命にある。この状況を打開するために、もっと『シュールレアリスム』的な発想を広告表現の制作過程に取り入れるべきなのではないか」
みたいなことを言った。
この頃から、私は連続性や規則性といったものが苦手だったようだ。

ちなみに、ここでの「シュールレアリスム」は誤用らしく、正しくは「超現実主義」という意味だとあとになって知ることになるのだが、日本ではなぜか「シュール」という言葉に略され、意味的にも誤用のまま幅広く使われてしまっているようだ。
詳しくは難しいのでこちらで。
ja.wikipedia.org

これは余談だが、他にも
「最近見た、好きな広告はなんですか?」
という質問に対しては
江角マキコが出ている年金のCMです」
と答えた。

当時、社会保険庁が行った「年金をちゃんと払いましょう」という内容の広告キャンペーンがあり、CMで国民年金未納者を問い詰める江角マキコが、実は年金を払っていなかったことが明らかになり、大問題になっていた。

俺はこのCMを挙げた理由を
「あえて年金未納者をCMキャラクターに据えて、後になってから未納が明らかになって叩かれまくることで、CMがめちゃめちゃ話題になり、若者も『こんな恐ろしい目に遭うなら絶対に年金を払おう』と心変わりをすると思います。ここまで計算され尽くした広告キャンペーンは類を見ないと思います」
と説明した。

しかし、当たり前のことだが、年金未納のタレントをそれとわかっておきながらわざと起用するなんてことを広告制作者が行うわけがなく、当時の担当者はさぞかし大変な思いをしたであろう。
20年近くの社会人経験を経た私とっては明白だが、その程度のビジネスマインドは学生でも身につけていているべき最低限のものであり、そんな社会常識も持たず呑気に「類を見ないと思います」などとほざくのは、世の中を舐め腐っている証左であり、私が面接官であればこのような学生は真っ先に落とすであろう。

突然だが、私はダムを訪れるのが趣味である。
ある日、「ダムのどういうところが好きなんですか?」と尋ねられた。
私はダムの魅力など考えたこともなく、ただ漫然と「かっこええなあ」と口を開けて見上げていただけだったのだが、それをそのまま口に出すと「こいつ何も考えていないな。唯の阿呆か」と思われるに違いなくそれは恥ずかしいので、なんとかその場で答えをひねり出さなければならない。

「ダムって、ちょっとシュールレアリスム的なところがあるんですよね。つまり、ダムがある場所ってだいたい辺鄙なところで周りは全部大自然なんだけど、大自然の中にいきなり巨大人工物がドーンってあるわけです。その自然と人工の不連続性が、なんか面白いんですよね」

こう答えて、初めて気がついた。
やはり私は、不連続性に惹かれるのである。

私は、ある海外の取引所で仮想通貨を保有している。
基本的には放置しているのだが、ある日、ふと気になってアクセスしてみると、その取引所は消滅予定であると書かれていた。
「もうこれ以上取引はできません。完全に消滅する前に、なるべく早く出金してください」と大きく注意喚起されていた。
あわてて別の取引所に口座を開設し、資金を移動させようとするが、何度やってもうまくいかない。
Q&Aの記載に従って各通貨のステータスをまとめているページへ移動すると、私が保有する通貨の欄には「Currency Maintenance」と書かれている。
「Fromなんとか」の欄を見ると、かれこれ1ヶ月も前からメンテナンスしているらしい。

それ以上の説明が無いので何もわからないが、メンテナンスが終了して正常に資金移動が可能になる前に取引所が消滅する可能性だってある。
そんな馬鹿な話があるか。
塩漬けになっている額は、大金ではないが、簡単に諦められるほどの少額でもない。

仮想通貨を支えるのがブロックチェーンと呼ばれる技術だというのは、有名な話である。
この技術によって、仮想世界に現実世界と同様の「連続性」が与えられるらしい。
bizgate.nikkei.com

つまりメンテナンス中の今は、「不連続」ということである。
それが私の資金が返ってこない理由なのであれば、私は「不連続性好き」を返上したい。
早く金を返してくれ。