日常の雑感 (original) (raw)

昨日は、平凡な日だった。落ち着いて過ごせた。仕事をして、帰宅後は本を読んだ。昨日みたいな日を重ねて、淡々と生活できたらいいと思う。毎日何かしらの事件が起こるような日常では疲れてしまう。反面、変化や刺激がなくては老いが早くなるような気がするが、何かと感じやすい性分なので、イレギュラーな事件はたまにあるだけで十分だ。

今日は休みなのに疲れているし、ストレス強く感じる。

酒も飲まない、タバコも吸わない、ギャンブルもしない僕は、こういう時には衝動に高額な買い物をしたくなる。そして、実際に買ってしまうと、後悔してたまらない気持ちになる。

ここ数年は、そういう衝動買いはしていないのだけど、今日は久し振りにしてしまいそうなくらいのストレスだ。午前中はなんとか抑えたが、午後から夕方はどうか。昔だったら、お店に実際に足を運び、商品を見て、我に返るようにして収めていたが、今は、ネットショッピングがある。深夜でも衝動買いができてしまう。抑えられるか。

抑えるために、今回、このブログを書いてみる試みをしているわけだが、効果はどうか。文章に書き出してダメなら、次は、実際にお店に行く作戦だ。でも、どうだろう。自動車のような額でなければ、多少は買ってみるのもよくないか。それとも、額の問題ではなく、徹底しないと癖になるのだろうか。買ってしまった後のあの後悔で気分が沈むのは目に見えているが、ストレス買いは一瞬でも快い状態になれる。よくないし、家に使わないガラクタが増えることにもなる。強いストレスを健全な方法で解消するにはどうしたらいいのか。

諦めるが少し早すぎた半生だ。もう30代の中盤くらいで、諦める、期待しないと悟って、そのほうが楽に感じて、何も新しいことはなく40手前の今に至る。このブログではない、紙のノートに書き連ねている雑記には、諦めようとか、もう無理だと書くことが多かった。最近こそ、そういう話題は減ってきているが、一時期はそればかりだった。

今現在、諦めの危険性を少し感じている。諦めは麻薬である。気の持ち様は楽になるが、徹底していくと、何にも希望が持てず、何もしなくなる。希望を自ら消していくのが諦めなのだから、当然といえば当然だ。

今、何をするのか。楽しいことでも、お金を稼ぐようなことでも、何か動いたほうがいいのではないか。自分の興味のあることをもっと突き詰めていってもいいのではないか。頭で考えるより、純粋にしてみたいとことをする。まあ、歳を重ねると腰が重くなるのは否めない。淡々と生活するのもいいが、まだ変化に対応できる年齢だし、動きのある生活に挑んでいくのもいいかな。

昨日は、風邪を悪くしてしまったのもあって、意識して早くベッドに入った。ベッドに入ったあとも、スマホを見たり、普段の音量で音楽を聴いたりは止して、静かにしていた。音楽も音量を絞って、穏やかな曲にして。

早く寝たこともあって、今朝はとても楽になった。風邪も少しよくなった気がする。ここ何日かのベッドに入っても何かしていて、眠りに就くのが遅くなっていた日と全然ちがう。今日も頑張れそうだ。

ゲームとか映画のような、人が作ったモノで心を動かされるのは、予定調和でつまらないことだと思っていた。もともと心を動かせるように腐心して作られたモノであるから、当然、心は動いてしまうのだ。

人が作ったモノではない、感動の源とは?例えば、大自然の圧倒的な景色に心を打たれるとか、みんなで作り上げた学園祭の出し物の成功とかか。

最近は少し反省して、人が意図して作った感動の源を享受するのもいいかなと思ってきた。大自然に圧倒されるのは、そう毎日できないし、定型的になっている日常にスパイスを与えるには、ゲームや映画でもいいかなと思えてきた。だいたい難しく考えすぎなんだな。

ここ数日、気温が急に低くなって、ついていけず、風邪を引いてしまった。つい、この前も引いていてやっと治ったばかりなのに、なんてこった。いままではこんな弱い身体ではなかったのに、どうしたのか。油断か、加齢か。まだ中年に差し掛かったところ、加齢云々を言うのは早い年頃だと思う。油断だと考えたい。

PC2台体制でいこうと思って買い足した、ThinkPad X250。Arch Linuxを入れて安定運用できる見通しがたったと思ったら、片方のメイン機、ThinkPad X220の電源ジャックが接触不良を起こすようになってきた。これは老い先短いぞ。直す技術も気力もないから、メイン機の交代か。できる限り延命したいが、それも限界があるか。