2018年12月◯◯日 輪島 惑いの夜 (original) (raw)

2018年 12月 20日

2018年12月◯◯日 輪島 惑いの夜

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夜の闇は全ての迷いを消してくれる。
そう信じていた。

木嶋さんはエレベーターを降りる間際に「寄っていきますか?」と言った。
私は小さく頷いて一階下の木嶋さんの部屋のある階で降りた。

部屋に入ると明りのついていない部屋の窓から暗い海と堤防のぼんやりとした灯りが霞んで見えた。
そっと抱き締められて、私はひろから解き放たれることができるかもしれないと思い目を閉じた。

木嶋さんの腕に力が込められた時「なお」と呼ぶひろの声が聞こえて、私は思わず木嶋さんの背中に回した手を緩めた。

木嶋さんははっとしたように、それでいてさりげなく身体を放し「何か飲みますか?」と聞く。
私は自分の迷いや戸惑いをどう消化していいか分からず、俯いて立ちつくしていると「無理はよしましょう。僕も無理やりあなたの心を自分に向けらるほど若くはないですからね」と木嶋さんは優しく言った。
「ごめんなさい」
「謝らないでください。謝られると自尊心が傷つきますよ」と苦笑して、木嶋さんは私を椅子に座らせて冷蔵庫から取り出したビールをコップに注いでくれた。

私はどう答えていいのか戸惑うばかりで涙が溢れてきた。
「あなたはよく泣く人だ。人は大人になるとなかなか素直に泣けなくなるものだけど、なおさんは子供もみたいだね」
「私、馬鹿なんです」
「馬鹿ですか、それはいい」と言って木嶋さんがあまりにも可笑しそうに笑うので「そんなに笑うわなくても…」と言って私も笑っていた。

「僕はね、最初ギャラリーであなたの涙を見た時にデジャブのような感覚を覚えましたよ。何ていうのか、こんな光景が遠い昔にあったようなね。きっと僕はその時になおさんに一目惚れしてしまったんですね」
私も、もしかしたら前世かもしれないどこかで、木嶋さんに会ったことがあるような思いに捉われたあの日のことを思い出していた。
ひろの時も同じだったけれど…

私はあの最後の夜のひろのことを思い出していた。
今と同じように「何か飲む?」と言ってグラスにビールを注いでくれたことや、窓辺で「アントニオの歌」を歌ってくれたことや「海峡に沈む夕陽を見に行こう」と言ってくれたこと。
忘れようとしていたひろの拗ねたような目までが哀しいほどの鮮やかさで蘇ってきた。

ひろの描いた円の中から一歩踏み出したいと思って、こんな遠くまで木嶋さんについてきたのに…

「ゆっくり歩いていきましょう。1歩ずつね」と言う木嶋さんの言葉に、私はほっと救われて黙って頷いた。
私は時のかけらを拾うように、ゆっくりゆっくり木嶋さんとの時間を埋めていこうと思っていた。
無理をしないで自然に向きあえる日がきっとくる。たぶん…

「明日は西海岸を走って金沢に入りましょう。僕はそのあと福井の方に回って2日撮影をしてから帰ります」
「ご一緒したいけど、もうお店を休むわけにはいかなくて残念だわ」
「実は1月の初めにも金沢に来るんですよ。誘っても来てはくれないですよね」
予定を聞くとまだお店は新年の休みの時だったので「ご一緒します」と私は答えていた。
「良かった。言ってみるものですね」
そう言って微笑んだ木嶋さんの顔には、私の好きな深い皺がくっきりと刻まれていた。

私は「お休みなさい」と言って自分の部屋に帰り、カーテンを開け放したまま夜の海を眺めながら眠りに就いた。

小説

by syun

メモ帳

人物紹介

奈緒子…ご飯屋「なお」の女将、離婚暦あり、45歳

結子…奈緒子の親友

ひろ…奈緒子の大学時代の恋人

慎介…別れた夫

原田くん…幼馴染み

たみちゃん…大学3年生。月曜日と金曜日のアルバイト

河野さん…保険代理店
小川さん…地元の建築会社の社長

他お客さんいろいろ。

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