◯◯年3月○○日 花山葵 (original) (raw)

2020年 05月 08日

◯◯年3月○○日 花山葵

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鼻腔と脳の境目のあたりをつんと哀しさが通りすぎる。
春まだ浅い渓流からのおくりもの、花山葵。
父の大好物のお酒のアテなので、お店の分と実家の分をたっぷりと仕込む。

結子のことがあってから何だか気持ちが落ち着かなくて、実家に帰るのも久し振りだった。

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「今年の冬は暖冬だったから、すとんと春が来るかと思ったのになかなか暖かくならないねぇ」
「ほんとよね。お母さん庭からいい匂いがする。沈丁花ね」
「そうよ。自然は正直よね。冬の間もう枯れてしまってるのかと思ってても、春になるとちゃんと花芽が付いて花が咲くのよね」
「うん…」

「奈緒子、あんたのバッグの中で携帯がなってるみたいよ」
「ほんと」
私は急いで庭から上がってソファーの上に置いていたバッグの中から携帯を取り出した。
木嶋さんからのメールだった。

「最近なかなか連絡が取れないんだけど、あの約束覚えてますか?
予定の変更はないよね。連絡待ってます」
私は来週の週末、木嶋さんと旅行に行く約束をしていたのだった。
彼に連絡しようと思っては、結子や塚田さんのことで気持ちは堂々巡りをし、後で、明日にはきっと…と思っているうちに3週間も連絡をしていなかったことに気がついた。

「もちろん覚えていますよ。ちょっとバタバタで連絡遅くなってごめんなさい。今実家なので夜電話しますね」
私は慌ててメールを打って携帯をバッグにしまった。

「奈緒子、今日は山葵漬けがあるんだよな」
「そうよ、お父さん今年もうんと辛く仕込んだからね」
「じゃぁ、熱燗じゃな」

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「よう漬かっとる。涙が出そうなくらい辛いなぁ。何だか山奥の冷たい川の水の流れが聞こえてくるみたいじゃ。旨い、旨い」
「いくら美味しくても飲みすぎはだめですよ」
私と母は顔を見合わせて笑った。
私はこんな時、いつまでも子供のままでいられたらどんなに楽しいだろうと一瞬思ったりする。
慎介のことも、ひろのことも木嶋さんのことも全てのことが遠い幻で、もう一度ここからやり直せるとしたら私はどんな人生を選択するのだろうか。
もうとっくに人生の折り返し地点を過ぎてしまったことを今さらながら思いやっていた。

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平目の昆布締め。
冬の平目は寒平目と呼ばれ、寒い季節が一番脂がのって美味しいと言われている。
そろそろ旬も終わりかな。
お店で残ったものを昆布締めに…。

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平目を片身買うと、いつものように大谷鮮魚のご主人が平目の真子をくださった。
まだ地元産は出ていなくて九州産の筍と菜花の炊き合わせにする。

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「奈緒子、ばら寿司できたから私たちはご飯にする?」
「うん、お母さんのばら寿司ほんとうに美味しいよね。なかなかこんな風に作れないのよね」
「何言ってるの。母さんの料理は適当よ。これも残り物を混ぜただけよ」

子供の頃、よく母は煮物の残り物やあれやこれやの余り物を細かく刻んで酢飯に混ぜ込んでばら寿司を作ってくれていた。
あれは母の始末の料理だったのだと思う。
母のばら寿司を食べる度に、私が作りたいのはこんな料理なんだと思うのだった。

マンションに帰ったら今日は木嶋さんに長い電話をしよう。

今日のひと品

花山葵の醤油漬け↓

小説

by syun

メモ帳

人物紹介

奈緒子…ご飯屋「なお」の女将、離婚暦あり、45歳

結子…奈緒子の親友

ひろ…奈緒子の大学時代の恋人

慎介…別れた夫

原田くん…幼馴染み

たみちゃん…大学3年生。月曜日と金曜日のアルバイト

河野さん…保険代理店
小川さん…地元の建築会社の社長

他お客さんいろいろ。

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