駅西の小さなご飯屋 (original) (raw)

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柔らかな雲が浮かび眩しい光が降り注いでいた。
あの日から、私は前にも増して仕事に打ち込んでいった。
この店が自分の生きる場所なのだと木嶋さんが教えてくれたような気がする。

今日は家で3年ラッキョウの仕込をして、それが終わると店の残り物で料理を作る。
結子が来週イギリスに発つので原田くんと3人で集まる約束になっていた。
3年ラッキョウは3年目のラッキョウで年々分球して実は小さくなっていくが、その分ぎゅっと締まって歯応えがよく旨味が凝縮される。
小さいので下処理が大変だけど美味しさには変えられない。

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普通のラッキョウと比べるととても小さい。

結子と原田君がやってきたのは2時過ぎだった。
「こんな昼間っから飲むと酔っ払うよなぁ」
「原田くん、車置いて来たんでしょ。ゆっくり飲んでね。お店の残り物ばっかりだけど」
「なお、お酒いろいろ持ってきたからここに置くわね」

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・鯵の叩き
鯵、ノビル、茗荷、スベリヒユ、味噌、味醂
・甘海老のタルタル
甘海老、スイバ、芹の花、ビネガー、塩、オリーブオイル
・牛タンお造り
牛タン、クレソン、生山葵、塩

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車海老の旨煮
刺身用の車海老を用いて、酒、醤油、味醂でさっと炊いて漬け込んでおく。

「しばらくなおの料理が食べられないと思うとちょっと寂しいわ」
「自業自得じゃろうが」
「原田、今日は私の旅立ちの会なんだからね、意地悪言わないでよ」
「もう二人とも~。結子はちゃんと片付いたのね」
「うん」
今日の結子はいつもにも増して綺麗だった。
少し痩せた顔は顎がすっと尖り、締まった頬は微かな翳りと強い意思を表しているようだった。

「あの人ね、家を出たんだって。画廊以外は全部奥さんに渡して出直すって」
「えっ、そうなの? 塚田さんから離婚を切り出したの?」
「ううん、それがね、奥さんの方から別れたいって言ったらしいの。あの事故のことがあってから奥さん何か憑き物が落ちたように人が変わって、ちゃんと冷静に話しあったんですって。奥さんも40代後半だし、塚田さんも53だからまだやり直すには充分な歳よね」
「そう…」
「私がね、塚田さんに『私のせいね…』って言ったら『いや、こうなるべくしてなったんだよって』言ってくれたんだけど」

「罪つくりな話じゃのう。まぁ男と女は五分五分、どっちに責任があるという訳でもないけどな」
黙って飲んでいた原田くんがぼそっと言った。
「それで、康之さんとは?」
「うん、夫とはちぐはぐなまんま…。お互い肝心なことには触れないし腫れ物にさわるように時間が過ぎていくの」
「でも塚田さんのことははっきりとは知らないのよね」
「うん、でも夫婦だからね」
「そう…」
「少し距離を置いてよく考えてみようと思う。ところでなおの方はどうなってるの?」
「うん」

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私は席を立って刺身を盛りつけてテーブルに並べた。
鮪、烏賊、鮑、かすご鯛。

「結子、これね、昨日原田くんが差し入れてくれてたの。凄いでしょ」
「わおっ、原田も気の効いたことするじゃん。いただきます~」
結子は山葵を下ろしてくれながら「なお、木嶋さんと別れたんでしょ」と言った。
原田くんはちょっと驚いたように私の方を見た。

「うん。結子にはお見通しだね」
「なおと木嶋さんはね、お互いにどこか遠慮があったんだよ。現実には何も障害はないはずなのに、心の中にハードルを作っていたんだよね」
「私が色んなこと思いきれなくて…。だから振られちゃったの」

私はあの日の木嶋さんの絞り出すような声を思い出していた。
私は木嶋さんとの出会いで絶望の淵から這い上がる事ができ、光の方へ歩き始める勇気をもらった。
それがあの日のひと言で終わりになってしまうなんて考えてもいなかったけれど、それは私自身が招いたことだということは良くわかっていた。

「原田、なお振られちゃったんだってよ。チャンス到来かもよ」
「あほか。さっき男と女は五分五分じゃって言うたけど撤回じゃ。女は恐いわ」

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「飲んでばっかりだと胃に悪いから、少しお鮨握るわね」
かすご鯛は薄めの煮切りを塗って酢橘を絞り皮の擂りおろしを散らし、鮪は詰めを塗る。

原田くんはビールから焼酎、ウイスキーまで飲み、お鮨を摘みながらこっくりを始めたので、枕とブランケットを持ってきて横になるように薦めると、直ぐに軽い寝息をたて始めた。

「私、何だか短い夢を見ていたような気がする。今でもフラッシュバックのように塚田さんとの時間が蘇ってくる時があるの。でももう川は飛び越えられないってことも分かってるのよね。私、逃げ出すのかなぁ…」
「それでもいいんじゃないの?人はそんなに簡単に昨日と明日の棲み分けはできないよ」
「なおはいつだって逃げださないんだね。強いね」
「そんなことないよ。私は自分の店で生きていくって決めたから、他に行くところがないだけよ」

「なおとは高校の時からの付き合いだから、もう20年経つんだよね。いつの間にかこんなに遠くまできてしまったんだね」
「ほんと、あっという間だったような気がする。あんまりいろんなことがありすぎて…」

「なお、休みを取って一度イギリスにおいでよ」
「そうね」
私は中東に旅立っていった木嶋さんのことをふと思っていた。

「なお、お願いがあるんだけど… 時間が空いてる時にたまにね、康之にお弁当届けてやってもらえないかなぁ」
「うん。大丈夫、心配しないで。ちゃんと美味しいもの届けるから」

原田くんが目を醒ました頃には陽はとっぷりと暮れて、初夏を思わせる生ぬるい風が吹き込んできた。

小説

by syun

メモ帳

人物紹介

奈緒子…ご飯屋「なお」の女将、離婚暦あり、45歳

結子…奈緒子の親友

ひろ…奈緒子の大学時代の恋人

慎介…別れた夫

原田くん…幼馴染み

たみちゃん…大学3年生。月曜日と金曜日のアルバイト

河野さん…保険代理店
小川さん…地元の建築会社の社長

他お客さんいろいろ。

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