北村西望(彫刻家) 私の履歴書 文化人9 (original) (raw)
昭和59年2月2日1版1刷
①かたつむり
②島原生まれ
③わんぱく時代
④風土病
⑤立志
⑥京へ一人旅
⑦京都美術工芸
⑧建畠大夢
⑨卒業
⑩東京美校彫刻科
⑪腕だめし
⑫第2回文展
⑬一年志願兵
⑭結婚と挫折
⑮見えない関所
⑯「晩鐘」
⑰「橘中佐像」
⑱鴎外日記
⑲美校教授に
⑳曙原社旗揚げ
㉒地獄で仏
㉓忘れ難い銅像
㉔三者競作
㉕暗い時代
㉗ライフワーク
㉘芸術観
・明治17年12月16日長崎県島原生まれ。16歳で南有馬尋常小学校に奉職して先生となった。長崎師範学校に進んだが風土病のため退学し、退屈のはてに絵を描くようになった。父から頼まれて欄間を掘り上げた。再び教壇に立つが、18歳で京都に出て京都美術工芸学校就学を目指した。彫刻科で出会った建畠弥一郎は生涯の最愛の友でありライバルとなった。京都の学校を卒業した後、東京の美術学校に入り直した。白井雨山先生を師とした。第2回文展で朝倉文夫君が二等君、三等首席が建畠大夢君だったため、建畠君を目標に努力した。が彼はいつも上にいた。大正4年の「怒濤」は二等賞を取り、翌年「晩鐘」が特選一席に入る。先生の後任として建畠君が教授に迎えられ、翌年私や朝倉君も教授になった。朝倉君の結成した「東台彫塑会」と私や建畠君が発足させた「曙原社」は長くは続かなかった。騎馬像の山県有朋、児玉源太郎、閑院宮、板垣退助像、東郷元帥は忘れがたい。昭和19年に美術学校退官。戦後、長崎の平和記念像を引き受けた。