アキバ系カルチャーとのクロスオーバー(前編) (original) (raw)

秋葉原ディアステージ

2010年代のアイドルシーン Vol.3[バックナンバー]

アキバ系カルチャーとのクロスオーバー(前編)

もふくちゃん、古川未鈴、成瀬瑛美、ヒャダインらの証言で紐解く2次元と3次元の邂逅

2020年8月12日 20:00 67

2010年代のアイドルシーンを複数の記事で多角的に掘り下げていく本連載。今回は東京・秋葉原から発生した“アキバ系カルチャー”との関係性を題材として取り上げる。もともと3次元のアイドル文化と2次元のオタク文化の間に接点は少なかったが、電波ソングをアイドル界に持ち込んだでんぱ組.incのブレイクをきっかけにその壁は徐々に崩れていった。前編となるこの記事ではでんぱ組.incのプロデューサーであり、グループ誕生の地・秋葉原ディアステージを立ち上げた“もふくちゃん”こと福嶋麻衣子をはじめ、でんぱ組.incメンバーの古川未鈴と成瀬瑛美、彼女たちの楽曲を多く手がけるヒャダインこと前山田健一による証言をもとに、2000年代からのニコニコ動画や秋葉原の盛り上がりを振り返りながら、異なる2つの文化がいかにクロスオーバーしていったのかを紐解いていく。

取材・文 / 小野田衛 インタビューカット撮影 / 曽我美芽

アキバ系音楽を語るうえでエロゲは絶対に外せない

オタク文化ということで同列に語られることが多いアニメとアイドルだが、その実態は似て非なるものだ。たとえるなら軟式テニスと硬式テニス……いや、テニスと卓球くらいの別競技かもしれない。当然、アニメとアイドルではファンの属性も異なる。そのことは2020年現在、半ば常識と化しているが、かつては両者の棲み分けが混沌としていたこともあった。アキバ系カルチャーが花開き始めた頃の話である。

でんぱ組.incは、そんな時代の隙間を縫うようにして秋葉原の路上からメジャーシーンへ躍進していった。彼女たちを語るとき、そこにはいつも「秋葉原ホコ天」「ネットゲーム」「ニコニコ動画」「声優」「ひきこもり」といった要素が紐付けられてきた。それはメンバーが純然たるアイドル文脈とは無関係なシーンから飛び出してきた証左であり、だからこそ新しい価値観を創造できたのだとも言える。

でんぱ組.incの成り立ちと軌跡を振り返ることは、この10年間のアイドルシーンを再定義するうえで必要不可欠。そう考えた音楽ナタリー編集部と私は、プロデューサーのもふくちゃん(福嶋麻衣子)を直撃することにした。もふくちゃんは自身も熱心なアイドルファンであると同時に、国立音楽大学附属高等学校から東京藝術大学音楽学部へと進んだ文科系インテリ。その守備範囲は前衛芸術からディズニーまで多岐にわたる。そんな彼女の目には、アキバ系カルチャーの何が新鮮に映ったのか? そして、どのような衝撃を受け、でんぱ組.incを結成するに至ったのか?

「アニソン自体は触れていましたが、おそらく同人音楽との最初の出会いはニコニコ動画だったと思います。自分自身が音楽ではある意味インテリ的な教育を受けてきていたので、素人的な人が音楽を投稿するという行為自体、当時の自分にはすごく斬新だったんですよね。言い方は悪いけど、一聴してみて音色からしてチープだったし、一昔前の曲みたいな感触もあった。その当時のJ-POPの流れとか世界的な音楽的潮流から独立しているわけですよ。完全なるガラパゴス状態。音楽誌では『ポストロックはどうなるか?』みたいな議論がなされているのに、こっちは『巫女みこナース』で盛り上がっているわけですから」(もふくちゃん)

「巫女みこナース」とは2003年にリリースされた18禁恋愛ゲーム……いわゆるエロゲである。そのオープニング曲「巫女みこナース・愛のテーマ」は電波ソングの走りと目されており、後世のクリエイターに多大な影響を与えることとなった。もふくちゃんも「エロゲはアキバ系音楽を語るうえで絶対に外せない要素」と断言する。

「その1つの例が『鳥の詩』でしょう。これは『AIR』というエロゲの主題歌ですが、やっぱりKey作品は今聴いてもどの曲も素晴らしい。秋葉原のオタクからは“国歌”と呼ばれるほどのアンセムソングだった。こんな曲が実際のオリコンとは違うインディーズシーンでじわじわと人気を獲得していることにビックリしましたから。

あとは桃井はるこさんの存在ですよね。ガチのオタクでありつつも、それを公言して路上ライブをやったり、自分で作詞作曲してエロゲの曲を歌ったりするという、すべての部分で存在がパンキッシュじゃないですか。めちゃくちゃ輝いていて、すごくカッコいいなと思っていました」(もふくちゃん)

通常のJ-POPと出自が異なる以上、アキバ系音楽がガラパゴス的な進化形態をたどっていくのは当然の流れだったのかもしれない。Vocaloid音源ソフト・初音ミクが登場したのは2007年。これが一世を風靡したことでアキバ系音楽は広く世間から注目されるようになったが、実際はその前夜からカルト的ではあるが確固たるシーンが形成されていたのである。

「『東方Project』しかり、MAD(ムービー)文化しかり……それにコミケ(世界最大規模の同人誌即売会「コミックマーケット」)ももちろん大きかった。“創作”という名目で自作CD-Rが売られていたんですけど、『自分で作った曲を、こんな簡単に盤に焼いて売ることができるんだ!』という衝撃がありましたから。私が初めてコミケに行ったのは学生の頃で2002年くらいだったと思うけど、当時は『東方』がすごい人気だったと思います。二次創作という言葉を知って新鮮でした」(もふくちゃん)

ヒャダイン、成瀬瑛美、古川未鈴が語るオタク文化の影響

こうした一連の盛り上がりは、徐々にニコ動の世界へと集約されていく。画面内のコメントは常にヒートアップしており、ユーザーは新しい表現に飢えていた。既存メディアにはないパワーが、そこには確実に存在した。

「ニコ動では替え歌も非常に盛んで、次から次へと動画が投稿されていたんです。くだらないと言えばそれまでなんだけど、小学生男子のノリで無邪気にゲームをネタにした替え歌を披露していました。『なんだ、これ!?』と度肝を抜かれましたね。すごく新鮮だった。ヒャダインさんが投稿し始めたのもこの頃なんじゃないかな」(もふくちゃん)

音楽クリエイターとして幅広いジャンルで活躍するヒャダイン(前山田健一)。彼の才能にいち早く目をつけたのは、ほかならぬネット住民だった。ヒャダイン自身、ニコ動への投稿がキャリアにおいて大きなターニングポイントだったと振り返っている。

「あの頃は作家としてまったく売れていなかったですから。当然、曲に対するフィードバックもなくて、完全に自信を失っていました。だから『自分のサウンドが世間に通用するのか?』という腕試し的なことだったり、『こういう楽曲はどうだろう?』といったラボラトリーな意味合いが自分の中では大きかったんですよ。ニコ動だと仲介なしにダイレクトにコメントが返ってくるし、職人がコメントで遊んでくれたり、自分の動画を使って三次創作もしてくれた。そういった遊び場としての面がとても大きかった気がします」(ヒャダイン)

のちにでんぱ組.incとなるメンバーも、こうしたアキバ系カルチャーにどっぷり浸かっていた。例えば成瀬瑛美。もともとアニメに目がなかった彼女は、年齢を重ねるごとに2次元の世界にのめり込んでいく。当時のオタク文化を取り巻く環境がどうだったのか尋ねてみると、“本物”ならではのハードコア発言を連発した。

「当時は泣きゲーや萌えアニメが全盛で、私自身もKey作品、京アニ(京都アニメーション)、それに『東方』、『アイマス』(「アイドルマスター」)といったベタなものにハマっていました。あとはニュー速VIP、ニコニコ動画の黎明期にもズップシでした。面白そうなネットのオフ会があると、しょっちゅう顔を出していましたね」(成瀬)

成瀬はアニメやネット文化と並んで人生を捧げるべき対象を持っていた。それはゲームである。学生時代に「RED STONE」というネットゲームにハマると、ほとんど部屋から出なくなっていった。

「当時はギルドマスターを務めていたので、ほかのグループのマスターさんたちと連絡を取って戦争を組んだりして忙しかったんです。忙しすぎてアルバイトもかなり減ってしまい、いつも水道代や光熱費の請求に怯えていました。ガスも夏場は点かないことが多く、食事もほとんどもやしかスーパーに売っていたお刺身の“つま”。とは言え特に病んだりもしていなかったし、明るく過ごしていたとは思うんですけどね。何かにハマると、とことんまで突き進んでしまう性分なんです(笑)」(成瀬)

同じくメンバーの古川未鈴は「私自身はアキバ系のカルチャーに疎いのですが……」と断ったうえで、それでもゲームの影響は甚大だったと述懐する。

「RPGや音ゲー、MMOなどにハマっていました。なにしろハマりすぎて高校を中退しましたから。本当にインターネットが私の世界のすべて。それで学校を中退してからは秋葉原のゲーセンに通うようになり、そこで知り合った人に教えてもらって自分もメイド喫茶で働くようになったんです」(古川)

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