個人的な非モテの実存問題は加齢により勝手に解決するが、社会的な非モテの問題(=少子化問題)は解決不可能なので、少子化問題が切迫した近未来、子無し差別が始まるだろうという話 (original) (raw)
先日雑談中の友人が、「近い将来、子供を持たない人生を送った人間(≒非モテ)がその責任を取らされる社会が来るかもしれない」という話をしていた。興味深かったので、今日はそこから連想した話でもしようと思う。
非モテ問題には、私的領域の問題と、公的領域の問題の2種類がある
非モテ問題には、私的領域の問題と、公的領域の問題の2種類がある。
私的領域の非モテ問題は実存の苦しみだ。異性にモテないことで性愛に関する欲求が満たされない、周囲からバカにされる、自分が無価値な人間と感じられる。これら領域の話はネット上でも増田等でしばしば語られる鉄板ネタだし、現実社会でも男性学に絡め↓の書籍のような自助活動も行われている。
これに対して非モテの公的問題は少子化である。非モテが増えるということは、非婚者が増えることとイコールだ。
日本では少子化対策として育休取得の奨励や待機児童対策が行われているが、これらは既に結婚し生まれてきた子どもや親に向けられた対策であり、未婚者を結婚させる対策ではない。しかし少子化問題の本質は、一家庭から生まれてくる子どもの数の減少ではなく、非婚者の増加(≒非モテの増加)にあるという点はしばしば指摘されている。
非モテ問題は、私的な実存の問題と公的な少子化の問題のふたつに分類される。今回の話を読む読者のみなさまには、まずこのことを前提として抑えておいていただきたい。
個人的な非モテの苦しみは、加齢により勝手に解消される
実は私は、前者の非モテの個人的苦しみに関してはそれほど大きな問題ではないと考えている。というのも非モテによって生じる実存的な苦しみのほとんどは、加齢により40歳を超えたあたりで勝手に解消されてしまうからだ。
インターネットの著名な非モテ論客に40歳以上の論客が一人もいないのは、この事実を端的に象徴しているだろう。元・わかり手こと小山晃弘(狂)氏は30代前半だし、前述した西井開氏は32歳。過去を振り返ってみても『電波男』を著した本田透氏は2005年の発刊当時35歳だ*1。
かくいう私も15年前の20代頃はてな非モテ論壇で日々喧々諤々の非モテ論を展開していたが*2、幸か不幸か最近はそういったものへの関心も苦しみもすっかりなくなってしまった。私の周りの中年非モテたちに聞いてみても、同じような返答が返ってくる。そう、非モテの実存の苦しみは、思春期~40歳くらいまでの年齢特有の苦しみなのである。
この要因はいろいろ考えられるが、私にとって一番大きかったのは出産のタイムリミットが過ぎてしまったことだ。
30代が終わる頃までは、まだ子供を持つ人生を現実的に考えることができたので、私も女性と付き合ってみたりいわゆる婚活的なこともしていたのだが、40歳を超えれば男性も経済的/体力的/生殖的理由などから子供を持つことが本格的に難しくなってくる。子供を持てないのであれば結婚の意味も薄らぐし、女性を求めることの意味も同様だ。
独りの生活に慣れてしまうことも大きい。私は独り暮らし歴24年になるが生活上の困り事はなにもないし、寂しさも感じない。性欲の低下もある。この歳になれば「そういう人間」として周囲も見下すでもなく普通に接してくれるし、イマドキの真っ当な会社であれば未婚を理由にパワハラ/セクハラを受けることもない(これは会社に拠るかもしれない)。若い時代は非モテだったが縁に恵まれ結婚する者もいるだろう*3。
これら要因により、40代以上の男性にとって非モテはたいした問題ではなくなる。
女性作家が書くエッセイで「"おばさん"になったことで恋愛から解放され生きるのが楽になった」という内容をしばしば目にするが、男性にとってもこれは同じ話だ。"おじさん"になることで男性もまた、性に関する諸々から解放され楽になるのである*4。いま非モテ問題の渦中にいる若者にとって、この事実は大きな福音となり得るのではないだろうか。若い非モテ諸氏は安心して欲しい。
公的な非モテの問題(少子化)は、絶対に解消されない
上述したように加齢による恋愛からの解放(あるいは強制退場)によって、非モテ個人の実存的問題は解決する。しかし、公的な非モテの問題はそうはいかない。恋愛からの解放という非モテ問題の個人的解決は、社会的に見た場合単に大量の独身世帯を生み出すことに他ならず、少子化の解決になんら寄与するものではないからだ。
端的に言えば、公的な非モテ問題を解決することは不可能である。
少子化は憲法が保証する婚姻の自由を個人が行使した結果であり、誰も「悪者」がいない問題だからだ。現代の個人主義社会にのっとり私たちひとりひとりが望んだ人生を歩んだ結果の意図しない副産物が、この少子化という問題だ。個々人の最適化した行動がマクロで見れば意図しない大失敗を招くという、ゲーム理論でいう「囚人のジレンマ」の典型例がこの少子化という問題なのである。
もしこれを解決しようとするのであれば、「お見合い結婚の復活」、「未婚者を昇進させない」、「24歳の未婚女性をクリスマスケーキ呼ばわりする」等のかつて実在した社会的圧力を復活させ、憲法で保証される個人の婚姻の自由を制限する他はない。しかしこれは現代社会でも当面の近未来社会でも社会規範的に許されない蛮行だろう。
かくして少子化は「解決不可能な問題」として当面のあいだ進行していく問題とならざるを得ない。現代の社会規範を前提とするならば、少子化問題の抜本的解決は、人工子宮の実用化により家族が解体されるその日まで訪れないだろうと個人的には考えている。ざっくり200年後くらいかな(適当)。
「強者/弱者」ではなく「社会への貢献度」という軸における不公平感からはじまる「子無し差別」
これまで書いてきたように、非モテの個人的実存問題は加齢により自然と解消されるが、公的な少子化問題は当面のあいだ解消されない。今後社会は「既婚vs独身」、「子有りvs子無し」という軸で、様々な側面から分断され対立していくだろう。
この軸から生み出される社会的問題として実現性が高いのが、冒頭で友人が語っていた「子供を持たない人生を送った人間(≒非モテ)がその責任を取らされる社会」ではないだろうか。
言うまでもなく社会は次世代の人間をなんらかの形で生産しなくては維持できない。将来の社会維持という観点から見た場合、既婚/独身を問わず子無し世帯はなんの社会貢献もしていない卑劣なフリーライダーだと批判することは可能である。
これについて子無しの一人である私にはなんの反論もできない。おっしゃる通り、将来の社会維持になんの貢献もしていない卑劣なフリーライダーがこの私だ。私の年金は、現在の子持ちのみなさまが産んでくださった大切なお子さま方から捻出される。この1点を以てしても、私をはじめとした子無し人生を歩む人間が子供を持つみなさまに頭が上がらない存在であることは明白だ。
この事実に内心密かな不満を感じる子持ちは多いだろう。なぜ私の大切な子供たちが、社会維持になんの貢献もしていない人間である子無したちのツケを払わなくてはならないのか、と。
しかしそれでも非婚者や子無しの立場からいわせていただけば、私たちはなにも最初から独身や子無しという立場を選択したくてしたわけではないのである。
ある者はどんなに努力しても異性から相手にされず婚姻に至れず、ある者は貧困から結婚や子育てを断念し、ある者は生殖的理由から不妊治療の甲斐もなく出産を諦めた。非婚者子無しには、すべての人間に非婚者子無しに至った悲劇的ストーリーが存在する。そうした観点から見れば、子無しは「持てなかった者(モテなかった者)」であり、現代の個人主義社会が生み出した被害者であり弱者であると主張することは可能だろう。
しかし…
しかし、それがなんだというのか。子無しである私たちがこと「将来の社会維持」という命題に限っては、なんの社会的貢献もできていないことはあまりにも圧倒的で明白な事実である。
ここにあるのは「強者/弱者」の対立ではない。社会に貢献している(できている)存在か、社会に貢献していない(できていない)存在かという「社会への貢献性」の対立軸だ。その意味でこれは社会に貢献していない(できていない)人間は社会で生きるに値する存在なのかという、植松聖がやまゆり園で世に問うた議題に通底する問題といえるだろう(大げさに言うのならば)。
今はまだいい。今のところ少子化は社会にとって致命的な問題とまでは至っていない。しかし今後少子化が社会維持が不可能になる程ののっぴきならないレベルまで悪化したとき(するだろう)、この圧倒的事実の前に子無し個々人の非モテストーリーを、子持ちのみなさまが忖度してくださるとは私には到底思えないのである。
「強者/弱者」ではなく「社会への貢献度」という軸で子有りvs子無しの対立が始まってしまったとき、これを解決するためにどうすればいいのか。その回答のひとつが「子無し税」の導入ではないかと私は考えている。
(後編に続く)