北淡海・丸子船の館 (original) (raw)

北淡海・丸子船の館

北淡海・丸子船の館

滋賀県長浜市西浅井町大浦にある湖上運輸の主役として活躍した丸子船をメインテーマに、琵琶湖水運の歴史、西浅井町の歴史を解説するミュージアムが北淡海・丸子船の館(きたおうみまるこぶねのやかた)。船体の両側の「おも木」部分に杉や檜の大きな丸太を取り付けた琵琶湖独自の帆船が丸子船です。

琵琶湖の湖上輸送と丸子船を学ぶ

琵琶湖北岸の長浜市西浅井地区には、琵琶湖舟運を利用した塩津浜、その西の大浦(北淡海・丸子船の館の建つ地)、菅浦という3つの湊があり、塩津浜は塩津街道(現在の国道8号)で、大浦・菅浦は西近江路(国道161号)で敦賀と結ばれていた交通の要衝。
江戸時代、日本の経済を支えたのは日本海沿いに下関を回って瀬戸内海に入る北前船(「北前」とは上方で日本海を意味した言葉)。
また寛文12年(1672年)に幕府の命を受け、出羽国で産する城米(天領で産する米)を運ぶために河村瑞賢が西廻り航路(北前船)を確立するまでは、敦賀から琵琶湖の北岸まで陸送し、塩津浜、大浦・菅浦で丸子船に載せ替えて、京・畿内に運ぶ道がメインルートでした。
つまり鉄道網が発達するまでは、北前船の交易と琵琶湖の舟運を使った大動脈が存在していたことに。

琵琶湖の総船数は関ヶ原の戦い直後の慶長6年(1601年)に1200艘、近距離輸送の増大した18世紀初頭の享保年間(1716年〜1736年)には3939艘を数えています。
丸子船だけに限ると、慶安2年(1649年)に1007艘、享保19年(1734年)に1348艘となっています。

琵琶湖の湖上運輸の主役として活躍した丸子船をメインテーマとしたミュージアムの館内では、現存する貴重な丸子船だけでなく、丸子船の船内で使用されていた民具や道具を展示。
さらにはジオラマによる明治30年頃の大浦港の再現などが行なわれ、琵琶湖の舟運を学ぶことができます。

平安時代に瀬戸内の水運を支配した平清盛は、息子・平重盛(越前国司)に命じ、塩津(琵琶湖)と敦賀(日本海)を結ぶ大運河を計画。
当時は日本海の交易ルートが日本の経済を支えていたことがよくわかるエピソードです。

戦国時代には、琵琶湖の湖上権を掌握することが天下取りに近づくため、羽柴秀吉(豊臣秀吉)も大津七浦・坂本・堅田・木浜で「大津百艘船」(おおつひゃくそうぶね)を組織しています。
大津の船持たちが豊臣秀吉のため、100艘の廻船を仕立てて協力した代償として湖上の舟運の特権を獲得したギブアンドテイクが「大津百艘船」ですが、この時の廻船も丸子船です(後の藩政時代には湖上運送の権利をめぐって大津と彦根三湊間で争いが起こっています)。

琵琶湖特有の波などに対処するため、波に乗るように丸子船の船底は平たく(北前船の弁財船の船底は、波を切るように鋭角的)、帆柱も通常の帆船よりも後ろにあるなどの特徴があります。
最大の特徴の「両脇に丸太を取り付ける」のは、強度のアップ、フロートの代わりで船の浮力を増す、船の揺れを軽減し安定化させるなど諸説ありますが、今も謎。
明確な結論は出されていません。

丸子船が全盛を極めたのは享保年間(1716年〜1736年)ですが、琵琶湖畔の主要48浦なかで最多数の丸子船を保有していたのが、塩津街道で敦賀と結ばれた塩津浜で、90艘〜125艘が就航していました。

画像協力/(公社)長浜観光協会

北淡海・丸子船の館
名称 北淡海・丸子船の館/きたおうみ・まるこふねのやかた
所在地 滋賀県長浜市西浅井町大浦582
関連HP 北淡海・丸子船の館公式ホームページ
電車・バスで JR永原駅から徒歩15分
ドライブで 北陸自動車道木之本ICから約12km
駐車場 7台/無料
問い合わせ 北淡海・丸子船の館 TEL:0749-89-1130/FAX:0749-89-1130
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

塩津街道塩津浜の家並み

深坂古道(深坂地蔵堂)

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