日本三大水攻めとは!? (original) (raw)
日本三大水攻めとは!?
日本三大水攻めに数えられるのは、武蔵忍城攻め(埼玉県)、紀州太田城攻め(和歌山県)、備中高松城攻め(岡山県)で、いずれも羽柴秀吉(豊臣秀吉)関連。軍師・黒田官兵衛(くろだかんべえ=黒田孝高)の献策といわれる備中高松城の水攻めの成功体験で、後の水攻めを行なったとも推測できます。
武蔵忍城攻め
水攻めの場所:埼玉県行田市
水攻めの時:天正18年6月16日(1590年7月17日)〜7月16日(8月15日)
関連する武将:石田三成(豊臣秀吉方)VS忍城代・成田長親(なりたながちか)
合戦の意図:映画『のぼうの城』(主演:野村萬斎、監督:犬童一心・樋口真嗣)で一躍有名になった忍城攻防戦(豊臣秀吉の小田原攻めに関連した関東の北条氏関連の城の攻略)
水攻めの内容:石田三成は、延長28kmにもおよぶ堤(石田堤として行田市堤根地区などに一部が現存)を築き、利根川と荒川の水を引水するという作戦を立てましたが、忍城は成田長親守る3000人が籠城死守)(周囲より高い位置にあるため浮城のように沈みませんでした)
合戦の結末:7月5日、小田原城が降伏開城、ほかの北条方の支城もことごとく落城し、残されたのは忍城のみとなり、7月16日についに開城
成田長親は、晩年、尾張国に居住
合戦の遺構:忍城の外堀跡を水城公園として整備
行田市郷土博物館として昭和63年に忍城御三階櫓が再建
埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)の一基、丸墓山古墳は、忍城の水攻めの際に、石田三成が本陣を構えた場所です
堤は行田市堤根地区から鴻巣市袋地区にかけて、250mが現存、石田堤史跡公園として、埼玉県の史跡となっています
紀州太田城攻め
水攻めの場所:和歌山県和歌山市
水攻めの時:天正13年3月24日(1585年4月23日)〜4月22日(5月21日)
関連する武将:羽柴秀吉VS雑賀衆太田党の将・太田左近(おおたさこん)
合戦の意図:根来衆、雑賀衆などの掃討作戦のなか、太田城に籠もり、徹底抗戦の姿勢を見せた太田左近に対しての攻略戦術として
水攻めの内容:全長7.2km、高さ5mともいわれる大きな堤を築いての水攻め(測量調査で基底部の幅31.0m、長さ45.0m、高さ5.0mという大規模な堤であることが判明)
合戦の結末:1ヶ月にもわたる籠城戦が展開しますが、太田左近は蜂須賀正勝のもとに使いをやり、自らの命と引き替えに城兵の助命を嘆願。
その結果、主だった城将53人が切腹し、太田城は開城
合戦の遺構:太田城周辺は和歌山城の城下町となり、現在は和歌山駅近くの市街地に
太田城は来迎寺となり、将兵を埋葬したと伝えられる小山塚が現存、紀ノ川南岸の出水地区には出水堤の跡が残されています
備中高松城攻め
水攻めの場所:岡山県岡山市北区高松
水攻めの時:天正10年4月15日(1582年5月24日)〜 6月4日(7月11日)
関連する武将:羽柴秀吉(織田信長方)VS毛利氏側の名将・清水宗治(しみずむねはる)
合戦の意図:山陰と山陽を連絡する松山往来の要衝に築かれていた備中高松城は、織田信長の中国平定では欠かせない攻略のポイント、軍師・黒田官兵衛が水攻めを献策
水攻めの内容:
門前村(JR吉備線足守駅付近)から蛙ヶ鼻(石井山南麓)までの4kmにわたって、高さ5m、底部24m、上幅12mという大規模で堅固な長堤を造り、足守川の水を堰き止める作戦
築堤奉行には蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=蜂須賀小六)が任命され、宇喜多忠家(うきたただいえ)が黒田官兵衛の指導のもと難所の門前村から下出田村までの築堤を担当(12日間という突貫工事で完成、折からの梅雨の長雨で、200haもの湖が出現)
合戦の結末:水攻めの最中に、織田信長を招く予定でしたが、本能寺の変で計画が狂い、毛利方の軍使・安国寺恵瓊を仲介役に和議を成立(清水宗治自刃を条件に、城兵の命を守るという約定を締結)
合戦の遺構:発掘された蛙ヶ鼻堰堤基礎部分が保存公開され、備中高松城本丸跡にある清水宗治首塚などとともに、貴重な「備中高松城の水攻め」の遺構に
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