青森県編 その7 (original) (raw)
〇工藤轍郎(くどうてつろう) (1849~1927)
明治~大正期の開拓者、牧場経営者。県議会議員。陸奥国七戸(現青森県上北郡七戸町)生まれ。七戸の荒屋平の開拓に着手し、382㏊の原野を田畑、防腐林などに変えた。さらに種馬牧場の開設、馬耕技術の普及にも尽力した。
<工藤轍郎像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2022年8月24日
説明:この地は工藤が農民たちと過ごした作業小屋の跡地。工藤はほぼ無一文から開拓を始め、並々ならぬ苦労をして、開拓を成功させている。陰には渋沢栄一や野村治三郎(野辺地の富豪)などの協力もあった。像の脇の碑文には「この美田を子孫におくる」とある。
〇ヒカルメイジ (1954~1983)
サラブレッド。競走馬、種牡馬。1957年の東京優駿(日本ダービー)に優勝、種牡馬としても多くの活躍馬を輩出した。半弟(母が同母)のコマツヒカリも東京優駿の優勝馬である。『優駿』の「20世紀のベストホース100」の1頭に選ばれている。
<ヒカルメイジ像>
竣工:1993年
像高:
作者:
撮影時:2022年8月24日
説明:道の駅しちのへは、珍しくJR七戸十和田駅(東北新幹線の駅)のすぐ側にある。敷地の真ん中あたりに2頭の銅像は立つ。
〇フエアーライン (1959~1973)
競走馬。1962年の東京優駿(日本ダービー)で優勝する。その後は目立った活躍はなかった。
<フエアーライン像>
竣工:
像高:
作者:
撮影時:2022年8月24日
説明:新幹線側から見て、右がフエアーライン、左がヒカルメイジである。七戸は昔から名馬の産地として有名である。
〇山崎岩男 (1901~1964)
政治家。北海道久遠村(現北海道久遠郡せたな町)生まれ。漁師の子だった。後に父の故郷八戸に移り、中央大学に進学(箱根駅伝の走者だったそうだ)、卒業後は青森県に戻り高校で英語と民法の教師となる。その後大湊町の助役・町長を経て、青森県議会議員。1946年に衆議院議員(5期)となった。1956年に青森県知事(2期)となる。
<山崎岩男像>
場所:釜臥山展望台(むつ市大湊釜伏山1)
竣工:1963年8月
像高:
作者:
撮影時:2022年8月21日
説明:台座の説明によると寿像であった。むつ市にむつ製鉄(砂鉄を銑鉄した)を設立に貢献したそうだ(1965年に解散)。像の立つ場所は、むつ市の見下ろせる釜臥山の展望台脇にいる。像の立つ先はガメラレーダー(J/FPS-5B警戒管制レーダー)の施設となっている。景色はいいが、風が強かった。
〇古瀬平次 (1897~?)
政治家。青森県議会議員(9期)、県議会議長を歴任した。
<古瀬平次像>
竣工:1992年7月
像高:
作者:(株)立体写真像(盛岡公彦)
撮影時:2022年8月21日
説明:大畑町はむつ市に編入された(2005年)ので、その庁舎は2020年に隣の旧大畑町役場から大畑小学校の空きスペースに移動したが、像はそのまま旧大畑町役場の場所(現在は駐車場)に立つ。
〇三上剛太郎 (1869~1964)
医者、軍医、新聞記者。日露戦争に従軍した際のエピソードが有名。これは日露戦争の黒溝台会戦の際に、野戦病院を設営して医療活動をしていた三上たちをロシア軍のコサック兵に包囲された。全滅の危機に瀕したときに三上がジュネーブ条約(戦時下の負傷兵の保護などを定めた)を思い出して、とっさに手製の赤十字旗を作成して病院に掲げ、攻撃を防いだという話。
<三上剛太郎像>
場所:津軽海峡文化館2Fアルサス 佐井村海峡ミュウジアム(下北郡佐井村佐井大佐井)
竣工:1990年3月
像高:
作者:
撮影時:2010年8月27日
説明:1963年のジュネーブで開かれた赤十字社100周年記念博覧会の際に、三上の手製の赤十字旗が展示され、三上の名が世界的に有名になったという。
〇富樫鉄之助 (1877~1959)
大正、昭和の開拓者。山形県飽海郡上郷村生まれ。19歳で北海道に渡り、さまざまな職業に従事、失敗を重ねながら、1930年に北海道勇払郡安平村を開拓、酪農家として事業に成功し、「安平の酪農王」と呼ばれる。1942年に青森県の要請で青森県下北郡田名部町の斗南丘の開拓に着手し、耕地化に成功した。
<富樫鉄之助像>
場所:旧斗南が丘酪農農協(青森県むつ市田名部内田42-600)
竣工:1972年9月
像高:
作者:
撮影時:2022年8月21日
説明:近くに美味しいジェラート屋(ミルク工房ボン・サーブ)があり、そこをGoogleマップで見ている際に発見した。同所は閉鎖されているが、道路から見える木陰に像がある。