石垣島の台湾人が築いた段々畑の遺構 (original) (raw)
戦後、ジャングルが広がる石垣島の山岳部に入植した台湾出身者たち。樹を切り、地面を均して畑を広げていった。土の中から掘り出した石は、ひとつの場所にまとめて積んでいく。その石を使って斜面に土留めをし、テラス状の段々畑にしてパインを植えたり、階段のように積んで歩きやすいようにしたりした開拓地の遺構が残されている。
沖縄県最高峰の於茂登岳(標高526メートル、おもとだけ)は石垣島にある。その南側の山麓に位置する嵩田(たけだ)地区に、石積みがある。台湾出身者は自ら開墾した農地でパイナップルなどを栽培してきた。石積みは、その暮らしを伝える遺構である。
階段状になった石積みの遺構
石垣市字登野城嵩田、2024年9月19日午前
石積みへは、琉球華僑総会八重山分会の多宇良三会長にご案内いただきました
その日の前の晩、台湾系2世の多宇良三さんを自宅に訪ね、台湾出身者としてのこれまでの暮らしをインタビューしていた。嵩田地区で暮らしていたころの写真も拝見し、1時間ほどおしゃべりをして腰を上げようとしたところ、多宇さんが
「石積みを見にいきませんか」
と言った。
それで、翌日の午前中、石積みのところまで連れてってくださることになったのである。で、嵩田までやってきた多宇さんが車を止めたのは、「眺名園」のなかにある台湾系の人たちの墓地近くの駐車スペースだった。
嵩田地区の共同墓地「眺名園」には、台湾出身者の墓が多数残され、私にとっては取材で通い慣れた場所である。しかし、その北側から迫ってくるジャングルに、これほどの石積みが隠されていたとは予想外のことだった。
ジャングルに入っていく多宇さんに付いていくと、中は下りの斜面になっていた。1カ月余り前にも人を案内した多宇さんは、人が歩けるように下草や木の枝をはらい、森の中で立ち往生しないようにと目印のリボンを何カ所にも掛けて準備してあった。多宇さんについていけば、迷うことはないが、初めて足を踏み入れるジャングルでは、リボンはなおのこと心強い手がかりだ。
ジャングルに踏み込むと、すぐに多宇さんが説明し始めた。
「これは階段です」
指し示すほうを見ると、ごつごつとした石が積み上げられ、階段状にステップが10段ほど付いている。幼かった多宇さんは、この階段を実際に上り下りしながら畑を行き来したことがあるそうだ。
石を積んで土留めにしたところは、斜面をテラス状に整えて、段々畑のようにして使っていたことを示している。石を2列に細長く積んだ場所は水路として使われたほか、パインの収穫期には、運搬用のトラックが入れる場所までパインを運び出す際に、通路代わりに使われた。パイナップルを栽培し、収穫するのみならず、その実を運ぶこともまた難儀だったのだ。
両手でひょいともち上げられそうな石から、何人かで踏ん張ってようやく動きそうなサイズまで、大きさも形もさまざまな石が、あちこちに積まれ、土留めや水路、階段などとして使われていた。
台湾の人たちが戦後、嵩田地区を開墾する際、石がごろごろ出てきたことは当時の写真でも確認できる。その石が今も残り、しかも、そこを畑として使う人たちの用に供するようにリサイクルされている様子が当時のまま維持されているのだ。戦後、多数の台湾出身者が嵩田地区で開墾を行ったことを示す明かしであり、台湾系住民による当時の産業や暮らしを伝える遺構だ。
どこまで広がっている?
この石積みはどこまで広がっているのだろうか。見通しが利かないジャングルのなかとはいえ、水路の石積みが先のほうまで続いていることが分かる。
多宇さんによると、これらは台湾出身の林塗氏が築いたものである。1955年1月に作成された八重山在住台湾出身者の名簿によると、林塗氏は、現在の台中市霧峰区出身。1908年生まれ。
戦前の石垣島では、開墾を行おうとしていた台湾出身者と、その場所から薪を取ろうとした地元住民との間でトラブルが起き、「薪取り事件」と呼ばれる。言葉による意志の疎通が困難だったことなどが原因と考えられており、林発著『沖縄パイン産業史』によると、林氏は同事件に巻き込まれた台湾出身者のひとりである。
嵩田地区の石積みは、台湾出身者による開墾やパイン栽培の痕跡がまとまった広さで残されているケース。多宇さんは琉球華僑総会八重山分会の会長を務める。
「台湾の人が嵩田に入り、(開墾や農業生産を)このようにやったというものはここにしか残っていないのではないか」
と話す。石積みが広がるジャングルも、木を切り、遊歩道を付ければ見学してもらえるのではないかと期待し、台湾出身者による開墾の歴史を伝える遺構として活用すべきだと考えている。
台湾入植者の開拓史
この石積みの遺構については、2024年9月13日の9月定例市議会一般質問で、石垣市教育委員会の担当課長が「石垣市の発展は、パイン産業の振興が大きな要素のひとつとなっており、パイン畑などの遺構はその証として貴重」「台湾からの入植者による開拓史は、戦後の開拓移民の歴史とともに、本市の近現代史において重要」などと意義を説明した。そのうえで、入植当時の遺構調査、文献や資料の収集、関係者への聞き取りなどを通じて、記録化に向けた取り組みを検討する考えを示している。
八重山台湾親善交流協会(石堂徳一会長)は2024年8月11日に「台湾ゆかりの地めぐり」のツアーを実施し、石垣島のなかにある、台湾出身者と関連するポイントをめぐった。20人余りの参加者は多宇さんの案内で石積みの遺構も見学した。石堂会長は「石積みで傾斜地を段々畑にしていた。ぼくたちが見学したのは(石積みの)一部だけ。石積みの分布や範囲を調査してほしい」と要望する。
また、「台湾の人たちには、(開墾で)どのような苦労をしたのか、また、その結果、八重山のパイン産業の発展に貢献したということを知ってほしいとの思いがある。石積みのことは、台湾出身者にもあまり知られていないようだ」と話していた。