≪Makoxite≫のようなもの (original) (raw)
黒い瞳の国
中島みゆきの「中期」の傑作と言われる『糸』。1998年に放映されたTBS系の金曜ドラマ『聖者の行進』の主題歌として使われたほか、21世紀に入って多くのアーティストがカバーするようになり、昨年には同曲に着想を得た映画までが作られた。個人的には、傑作と佳作の中間やや上あたりに位置するレベルの楽曲ではないかと思っているのだが、大多数の方は、分かりやすい歌詞ということもあって、高評価を下しているのだろう。
重ねて個人的には、その『糸』が収められた彼女20枚目のアルバムタイトルにも採択されたシングル『EAST ASIA』の方が、遙かに優れているように感じる。
♪降りしきる雨は霞み、地平は空まで
旅人一人歩いてゆく、星をたずねて
と、温帯湿潤気候の情景が浮かんでくるような歌詞とアジアンメロディーに乗せて、
♪どこにでも住む鳩のように、地を這いながら
誰とでもきっと合わせて、生きてゆくことができる
と、自らを説明する。その上で、
♪でも心は誰のもの、心はあの人のもの
大きな力にいつも従わされても
私の心は笑っている、こんな力だけで、心まで縛れはしない
と、しなやかな「強さ」も内在しているのよと主張すると同時に、主人公に「圧」を与えている大きな存在をも暗示する。もちろん、暗喩がとても上手なみゆき嬢なので、悪しき存在を名指しするような野暮なことはしない。ただシンプルに、
♪国の名はEAST ASIA、黒い瞳の国
難しくは知らない、ただEAST ASIA
と、極東アジアの狭いエリアで互いに肩を寄せ合わせているのが現実であるにもかかわらず、すぐに国体だの、民族だの、国益だのと熱くなるある種の人々の有り様を、聴きようによっては強烈な皮肉でもって、いなしている。
♪私のくにをどこかに乗せて
地球はすくすく笑いながら 回っていく
この曲が発表されたのは、今からおよそ30年前の1992年のことだった。バブル経済は峠を越えていたものの、中国は依然、開発援助対象国であり、日本はこの世の春の「最後の夜」を迎えていた。一方で世界では、ローマ教皇庁がガリレオの地動説裁判に誤りがあったことを彼の死後350年目にして初めて認め、環境と開発をテーマとする国連主催の「地球サミット」の第1回目会合が開かれた。言い換えると、強靱さや勇敢さ、好戦性といった当時主流のマツズモ的社会に、最初の変節点が訪れた年だった。
今、改めてこの曲を聴くと、世界は確実に大きく変わり、コロナ禍でさらに加速したのに、日本はひたすら立ち止まり、既に周回遅れとなっている。であるにもかかわらず、なおトップ集団を走っている気になっている、否、そう思い込もうとしていることに否応なく気付かされる。
この秋、一連の形而下な報道とそれに付随する下卑た匿名の声の存在が、世界的な「日本異質論」を呼び起こすことになった元皇族の小室眞子さんを巡る結婚が、その最たるものだろう。徹頭徹尾、すでに「大人」である二人の意志と責任に任せておくべき話であるのに、やれ伝統が、やれ権威が、やれ税金がと目を吊り上げて、喧しいこと、喧しいこと。司馬遼太郎は「日本人の心は一寸(いっすん)掘ると、攘夷が現れる」と述べたが、令和の世に変わっても、まさかそれを目の当たりにするとは正直、想像だにしなかった…。
そこで、改めて『EAST ASIA』の二番の歌詞を見て行こう。
♪モンスーンに抱かれて、柳は揺れる
その枝を編んだゆりかごで、悲しみ揺らそう
♪どこにでもゆく柳絮に、姿を変えて
どんな大地でもきっと、生きてゆくことができる
♪でも心は帰りゆく、心はあの人のもと
山より高い壁が築きあげられても
♪柔らかな風は、笑って越えてゆく
力だけで、心まで縛れはしない
羽田からニューヨークへ向かう全日空機に、実質身一つで乗り込もうとする、まさに彼女の心境そのものを描写しているかのように感じるのは、筆者だけであろうか。
♪国の名はEAST ASIA、黒い瞳の国
難しくは知らない、ただEAST ASIA
ともあれ、幸あれ!