伸縮継目のようなもの (original) (raw)

親指から小指に至るオラトリオ

完全な経年劣化なのであるが、左手の小指が「ヘバーデン結節」になってしまった。否、正確に述べると、罹患しているのに遅まきながら気が付いた、となろう。まぁ、どちらにしても、第一関節の部分が指の左右方向にこぶ状に膨らむととともに、上方にも盛り上がり、結果として小指がまっすぐに伸びず、やや右向き「く」の字状に曲がるかたちで変形してしまっている。健全な右手の小指と付き合わせて比べるとヘタレ形状がより際立って見え、あたかも、新幹線のレールの継ぎ目のように組み合わせることができる。

左手小指はこのかたちで動かない。

『家庭の医学』をはじめとする各種のメディカル情報を一通り読んだところによると、原因は不明ながら女性ホルモンの分泌量との関連性が強く示唆され、必然的に中高年の女性に発症が多いとある。と同時に、指の酷使が原因との記述も一部にあり、筆者の場合は恐らくは、後者の方に該当しよう。利き腕の方の右手でなく、左手小指の酷使という点で思い当たる節があるからだ。休みの日も含めてほぼ毎日使っているパソコンのキーボードの入力である。「JIS配列キーボード」のホームポジションに両手を置いた時、左手小指で押下しなければならない「半角/全角」「1ぬ」「2ふ」「Qた」「Wて」といったキーを操作するために、非力な小指に負荷をかけ過ぎた結果としての発症ではないかと睨んでいる。

しかしながら、スマホの普及前、インターネットという技術革新の波を受け、「JISキーボード」をコンピューター・インターフェースの”一丁目一番地”のデバイスとして使ってきた人々の多くが、同じくヘバーデン結節に苦しんでいるとは寡聞にして存じあげない。ではなぜ、特異的に発生したのか。これまた類推できるのは、「ひらがな直接入力」に起因しているのでないかという仮説である。上記の「1ぬ」とか「2ふ」とか「Qた」とかいうキーは、「ローマ字入力」を常用し、かつ、テンキーが備わっているキーボードであればあまり使用しないキー群であろう。ところが「ひらがな直接入力」となると、「1ぬ」や「2ふ」や「Qた」は日本語の文章中にほぼほぼ出現してくるため、その都度、小指を使って操作しなければならなくなる。無理に遠いキー上に伸ばしては、”うっん”(←小指の気持ち)とばかりに押す行為を繰り返すことは、小指からすれば「酷使」されている以外のなにものでもないと思われる。片や、右手の小指が扱うのは「^へ」「\―」「[゜」といったあたりで、押下頻度は左手小指と比べて格段に低い。

改めて振り返ると、パソコンを「JIS配列キーボード」を使って「ひらがな直接入力」により操作するようになったのは、初代「iMac」を斬新なデザインに惹かれて個人用に購入し、かつほぼ同時期に、勤め先でも「Windows95」搭載のノートパソコンが支給され、業務で使用するようになった1998年のことであった。それから数えて四半世紀以上に及ぶ歳月である。仮に最初期の段階で、「ひらがな直接入力」ではなく「ローマ字入力」に踏み切っていれば、「ヘバーデン結節」にならなくて済んだかも知れない……。

それではどうして「ひらがな直接入力」にこだわったのか。聡明な読者であれば既に感付かれていよう。「ひらがな直接入力」の”前史”として、ワープロの「親指シフトキーボード」にすっぽりと染まってしまっていたからである。学生時代に経験した某新聞社子会社のアルバイトで、初めてさわったワープロ富士通製のマシーン「OASYS」だったのだ。事務机のような大きさの機械で、表示装置もブラウン管であったように記憶しているが、ひらがな入力時のストレスはほとんど感じなかった。一旦、キーの位置さえ覚えれば、手が素直に動いて文章を作成できた。「JIS配列キーボード」のように、キーの位置を目と指でさまよいながら探して、思考が妨げられるということもなかった。こうした感想は、「OASYS」と「親指シフトキーボード」を語る人たちが皆同じように漏らす感想ゆえ、耳に胼胝ができている人も多いだろうが、経験者として感じた事実であるがゆえに、ここはお許しいただきたい。

いずれにせよ爾来、ワープロ専用機がパソコンのワープロソフトに置き換わるまで、「親指シフトキーボード」で文字を入力することが、個人的なデファクトスタンダードとなってしまい、当然の帰結として、そう簡単には、このコンピューター・インターフェースの楽園から抜け出せなくなった。そして最終的に失楽園を強いられることになった時、せめてもの慰みとして、「ひらがな直接入力」という隘路を選んだというのが、令和の世を生きる多くの方々にとっては、ライフハックのヒントにすらならないという経緯なのである。

周知の通り「親指シフトキーボード」は、ワープロ専用機が滅んだ後も富士通のパソコンのオプションメニューとして細々と命脈をつないできたものの、コロナ禍が2年目に突入した2021年1月、ひっそりと販売を終了してしまった。テクニカルサポートも26年初夏には打ち切られることが公表されている。残るは中古を含めた市中在庫のみとなったため、この発表がなされた直後には”親指シフト難民”たちが専門店に押しかけたりもした。オークションでは高値で取り引きされることが今も続いている。「覆水盆に返らず」とはよく言ったものだが、コロナ前に、多少無理をしてでも「親指シフトキーボード」が付いた最新マシーンを買っておけばよかったと、への字型に変形した小指を見ていてつくづく思う。

なお、「捨てる神あれば拾う神あり」とでも例えるべきか、あるいは”親指シフト難民”たちの悲嘆の声が天に届いたのか、事務機器大手・キングジムが発売したデジタルメモ端末「ポメラ」に、これまたオプションとして「親指シフト入力」が用意されていることを昨年知った。発売当初は6万円近い価格であったが、徐々に下がってきた結果、足元では比較的容易に手が届く範囲となった。キーボード自体はJIS配列であるものの、親指シフト用のステッカーを既成のキーの上に貼って使用するのだという。「ポメラ」の開発者自身が”親指シフト難民”だったとのうわさも聞いた。しからば、相応のクオリティーを持ったインターフェースなのだろうと期待が高まる。食指が動く。目下の形而下の業務がひと段落したら、家電量販店などで「ポメラ」のデモ機をいじくってみたいと思う。”親指シフト難民”たちにも出会えるかも知れない。とはいえ、曲がった小指は戻ってこない(←しつこい!)。

キングジム デジタルメモ「ポメラ」 DM250