役割あるなし (original) (raw)

技術的にも、体力的にも、私にはとうていできぬ仕事だ。

砂場を背にしたベンチの周辺を、丁寧に掃いている作業員さんがある。公衆トイレの周辺は、すでに掃き了えてある。
グラウンドキーパーが内野を整備する、通称トンボと称ばれる専用清掃具を思い出させる、T 字型をした道具を使っておられる。あたかも寺院の枯山水の庭に、水流を表現する砂利の線模様が描かれるかのような、隙のない見事は掃き跡だ。それでいて先端はあきらかに箒であって、もし逃走中の犯人が歩こうものなら、足跡がくっきり残って証拠となってしまいそうな掃き跡である。

区の施設の大規模工事のためか、ブランコと滑り台以外の遊具は撤去されてしまったが、残ったふたつの遊具周辺は、今朝は掃かないようだ。この夏の陽気に、幼児たちを遊ばせる保護者が少なかったのだろう。近所の保育園の保母さんがたが、多数の園児を引率して日光浴散歩に見えることも、なかったのだろう。
遊具周辺の地表はさして荒れてもいない。荒れているのは、早朝や陽暮れて後に、砂場脇のベンチに腰かけて物思う大人たちと、公衆トイレの利用者とが踏み荒した箇所だけということか。

それにしても、どんな仕事にも独特の技術や年季というものがある。周囲を眺めまわしてみても、やる気さえ起せば今からだって私にもできる、と思える仕事をしている人など、一人も視かけない。つまり私にはなんの技術も、心得もない。
かつてはかすかながら、あった。精密に語ればどうしたって長くなってしまう問題を、切縮めて短く云ってのける技術があった。文学・芸術の狭い分野に限られはしたけれども。おかげで、学識もないくせに、文学部や芸術学部での非常勤教員が務まった。
志の高い作家たちなら敬遠するような細切れのスペースでも、なにかしらの話題を盛込んで記事にしてしまう技術があった。おかげで、埋草記事を引受ける二流ライターとして小遣い稼ぎができた。

600字だの1200字だのといった埋草コラムにだって、二流には二流なりの技術がある。起承転結なんぞというスペースはない。掴み・サビ・落ちの三拍子を整えるスペースもない。いきなりサビだ。ただしどんな些細な情報でもよいから、読者にとって耳新しい第一次情報を紛れ込ませる。それにより発注者(編集者・新聞社・通信社ほか)からは次の注文が来る。
2000字を超える短文となれば、事情が少し異なる。掴み・サビ・落ちの三拍子が必要になる。発注者の意図や編集理念を考慮する必要も生じる。そしてここでも、読者に耳寄りな第一次情報を、さりげなく紛れ込ませることはつねに重要だ。ただし背伸び・強がりは禁物で、かならず墓穴を掘る。啖呵を切る場合には、自嘲的ユーモアにまぶさなければ、きっと失敗する。
世間から視ればあってもなくても困らない、目立たぬ文筆ばかりだったが、一度できた細いご縁で、長く連載させていただいたりもできたのは、技術があったからだ。

そんな舞台から降りて久しい。技術も錆びつき果てた。今はなにも残ってない。どうしたらあんなに、犯人の足跡が特定できるほどに掃くことができるのだろうと、心底から驚嘆する。


ドイツ在住の齢若き友人が先日一時帰国したさいに、カップをお土産にくださった。日本では観かけない美しい表面加工の、大ぶりなカップだ。常用しているマグカップ類と並べてみても、はるかにデカイ。ドイツ人は手も口もデカイということなのだろうか。
急いで申し添えるが、右手のカップロッテリア開店なん周年とかの引出物として頂戴したもので、窃盗品ではない。店員さんにお礼申しながら、
「でもコレ、俺が万引きしたと、思われないかしらん」
「大丈夫です。店内使用のものとは、微妙にサイズが違ってますから」
とのことだった。

左右のわが常用カップでさえ、そうとうな大ぶりで、珈琲でも紅茶でも四分目か半分ほどに注いて使用している。ドイツのカップは、拙宅にあっては役割がない。
試みに計量カップで、水を注いでみた。400ミリリットル注いで、八分目ほどに達した。と、突如として閃いた。缶ビール350ミリリットルをひと缶そっくり注いで、泡まで含めて満杯ということではないだろうか。
カップだとの先入観がよろしくなかった。これはビアジョッキである。無用の長物と思えたものでも、発見しさえすれば、役割はどこかにある。