花はどこにでも (original) (raw)

行きつけの散髪屋さんだ。過去にいく度も撮った。憶えちゃいないが、似たような構図だったろう。

途中にはフラワー公園がある。シャッターを押す気になれなかった。夏最後というか秋最初というかの花壇は、花の盛りを過ぎてハゲチョロケになっている。あたり数か所にそれぞれ十株くらいづつ群れていたヒマワリたちは、いずれも身の丈こそ私以上にまで伸びているが、花はしおれてうなだれ、もしくは枯れ果てて乾燥している。
子供を遊ばせる親たちの姿はない。平日の昼だから、子どもたちは保育園か小学校かにあって、もっと幼い子どもの面倒を看る親たちは、自宅にいるのだろう。残暑のぶり返しで風はなく、ケヤキも他の高木たちも風情なく身じろぎもしない。公園の隅に置かれた特徴的な最大遊具と云ってよい旧地下鉄車輛にも、人影はない。つまり眼を惹く光景は皆無だった。

散髪屋さんをいったん通り過ぎて、お湯屋さんまで行ってみようか。昨夜は夜景だったし営業中でもあったから遠慮したが、「新料金550円」の貼紙を撮っておきたいのだ。小刻みながら四年連続の料金改定だ。この十年間で、九十円上ったことになるらしい。ご多分にもれず、諸物価高騰と人手不足ということらしい。
この入浴料金が高いとは、私は思わない。内湯を沸すことを断念してシャワー中心生活に切換え、三日に一度ていどしか銭湯を利用しない私なんぞは、さしづめ趣味の入浴客に過ぎない。だが躰を酷使するご職業にあって毎晩通ってくるご定連がたにとっては、由々しき事態にちがいない。
ワンカット撮りたい理由は、入浴料金が高いか安いかの問題ではなく、厳然たる現実である。都内のお湯屋さんは十年前より二百六十件も減ったという。三十七パーセント減だという。それでも料金改定に踏切らねばならぬという。一次資料たる事実そのものだ。なんのデザイン処理もほどこされてない小さな貼紙に過ぎぬが、私にはまたとない被写体だ。
しかし今日は散髪以外にも、細ごまとした用足しをたくさんせねばならない。貼紙はまだ逃げないだろうと、思い直した。


空家が取壊されて空地のままにひと夏を経過した一画の前に、しばらく立ち停まった。往来に身を乗出さぬ限りは、べつに通行妨害にもなるまいとばかりに、手のまったく入ってない草ぐさがたくましく生い茂っている。たしか敷地の隅に、旧住人が残した樹木が一本だけ立っていたはずだが、蔓草類にすっかり覆われてうず高い小山のごとき様相となってしまっている。
植物たちの自由競争世界となってあるわけだ。なかに草本のくせに灌木めいた力強さを誇示するいく株かがある。芙蓉に似た掌状の大葉を茂らせ、花を着けている。花を観賞する場所でもないのに、雑草藪のなかで異様に美しい。建屋を二件はさんだ並びにはフラワー公園があって、そちらで咲けば立派な登場人物の一員であれたかもしれないのに、所違いでもったいない気もする。

しかし、と考え直した。運好く公園管理人つまり人間の意向に沿えればいいが、沿えなければ雑草として即刻引っこ抜かれてしまうことだろう。農業的に申せば、小豆畑に生えた稲も雑草である。この花だって、おそらくは園芸品種としてどこかに植込まれてあったものが、風に乗ってこの地にやって来て、雑草類のなかで「お山の大将」でいるのだろう。「やはり野に置け」ということか。
土壌にも養分にも恵まれて豪勢に咲くのと、自由競争のなかで貧相な花を着けるのとでは、いずれが彼にとって幸せな生きかたなのだろうか。ただこれだけははっきりしている。つい眼と鼻の先にフラワー公園があることを、彼はおそらく知らない。

丸刈りにしてもらって、頭を洗ってもらって、頭皮や両肩あたりをマッサージしてもらっていると、マスターは着々と回復しておられるようだった。今年の始めに脳梗塞に見舞われたマスターは復帰後も左半身に後遺症が残り、いかに丁寧に仕事してくださっても、どうしても左手が弱かった。だが今日あたりは、両肩を揉んでくださる手の力に、ほとん差は感じられない。
「お金をいただいて、リハビリしているようなもんですよ」と笑顔を見せた。
「それでも、こう入れた櫛を、こう返すときなんかは」と、手首のひねりに違和感が残るさまを、実演して見せてくださった。

「今日からお茶にしてみました」
散髪を了えると、いつものように奥からご母堂が出て見えて、茶菓をおもてなしくださる。本場からの取寄せだという、香り高い煎茶だ。先月までは冷たい麦茶だった。むろん私にとっても、この秋最初の香りで、懐かしいような気がした。しつに美味い。
「あぁ美味い。お茶って、こういう香りだったですよねえ」
大袈裟にお礼申さずにはいられなかった。お菓子は栗まんだった。私には、これも久しぶりだった。