右岸筏道で見つけた話 稲田堤 〜 矢野口の渡し (original) (raw)

話のいどころ

それぞれの話

1.菅渡船場

読み方・・すげとせんばあと

つぎは多摩区観光協会さんのホームページからの引用です。

昭和10年(1935年)多摩川原橋の開通で上菅と下菅の渡しは廃止。
翌11年にここ「菅の渡し」ができた。
対岸の多摩川児童公園管理棟横に記念碑がある。
昭和48年(1973年)まで続いた。

《引用元》多摩区観光協会のホームページ

リンク 菅渡船場跡の碑 | 多摩区観光協会

2.地名の由来「菅野戸呂」

読み方・・すげのとろ

野戸呂のトロとは、全国各地の川の流域によくみられる地名で、川の流れがゆるく淀んだところの意です。
《引用文献》(編)日本地名研究所,1991,川崎市,『川崎の町名』,p235

上の引用から、「菅野戸呂」という地名は、多摩川の流れがゆるやかで菅の生い茂ったところ、ということがわかります。

3.上菅の渡し

読み方・・かみすげのわたし

つぎはこの石標にある説明です。

古くは矢野口の渡しといわれ、旧菅村と旧矢野口村の境から対岸の下石原とを結んだ。
明治には下流に移動し、上菅の渡しとなった。
1935(昭和10)年に廃止。

2009年3月
NPO法人 多摩川エコミュージアム
川崎市

4.たとうさま

「たとうさま」のことについて書かれたものを読むと、「たとうさま」は多摩川の水害から災難を断ちたい、という願いを込めて建てられたそうです。

そんな「たとうさま」は、しっかりと多摩川に向いていました。

5.下菅の渡し

読み方・・しもすげのわたし

つぎはこの石標にある説明です。

明治初期に下菅と上布田とで開設。
「新渡し」ともいう。
対岸調布の畑に通う作場渡しで、梨の出荷や肥ひき、稲田堤の桜見物にも利用された。
1935(昭和10)年に廃止。

2010年3月
NPO法人 多摩川エコミュージアム
川崎市

6.矢野口の渡船場跡の碑

筏道の順路からは少し離れていますが、ここに碑はありました。

この碑のすぐ先は東京都稲城市です。

明治から大正時代、多摩川で大水が出るたびに、矢野口の渡し場はこの近くを移動しました。

そのころの地図を見ると、矢野口の渡し場が移動していることがわかります。

そして現在、この場所に記念の碑ができたのです。

矢野口の渡船場の移り変わりを、時代に沿って記事にしました。

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7.稲田堤の桜之碑

この石碑の正式名は「多摩川稲田堤桜之碑」と言います。

もちろん、このまわりは桜の木だらけです。

大きな碑は、多摩川を向いて建っていました。

8.渡船場道と馬頭観音

上のイラストで、この通りの先は矢野口の渡船場跡です。

この道は「渡船場道」といわれた、通い道でした。

そしてここには、馬頭観世音塔、よく言われる馬頭観音の碑が建ててあります。

この馬頭観音さんは、稲城市の指定文化財だということなので、案内板をそのまま写真にしました。

よく読むと、この馬頭観音さんには、当時の村の名前が19も彫ってあるそうです。

このあたりの村から遠い村の人々まで、毎日のように矢野口の渡しを使っていたのでしょう。

9.バス停 稲田堤

昭和の時代のバス停がありました。

ここは終点で、ここで降りる人の人数は限られています。

なつかしいバス停は、いつまでここにあるでしょうか。