〈資料で探る〉江戸の町で使われた多摩炭 (original) (raw)
はじめに
話のきっかけ
よく聞く言葉に「電気・ガス・水道」があります。
どれも重要で、まさに「ライフライン」というものです。
このうち、江戸時代に無かったものは「電気とガス」です。
では江戸時代に、現在の電気とガスに代わるものは何だったのでしょう。
それは「炭」でした。
江戸城の御殿様から長屋のおかみさんまで、全ての人が炭を使っていたのです。
炭は、現在のIHクッキングヒーターのように煮炊きに使い、寒い冬の暖房まで、毎日使っていました。
だれもが使う大切な炭ですが、江戸の町では作ることができませんでした。
江戸で使う炭は、江戸以外の産地から運んで来たのです。
その産地のひとつに、多摩方面があります。
多摩方面から運ばれた炭を「多摩炭」と呼びました。
そして多摩炭を運んでくる方法の一つに、筏がありました。
多摩炭は、筏流しの筏の上に乗せて運んだのです。
多摩川の筏で運んできた多摩炭は、河口の六郷までの途中でも筏から降ろしました。
どのくらいの量をおろしたのかは不明ですが、現在の世田谷区、野毛の多摩川の岸には、筏から炭を降ろしたということで「炭河岸」(すみかし)と呼ばれる場所がありました。
多摩で作られた炭を筏の上荷にして、筏乗りたちは多摩川を下ったのです。
そこで、江戸の町で使った炭について調べて、炭と筏流しの関係を探ることにします。
話の目的
次は調べる上での目的です。
- 多摩炭とはなにか。
- 筏の上に乗せた多摩炭の量はわかるのか。
- 多摩炭が江戸の町でどのように扱われたのか。
- 炭俵の実物の姿を確認する。
話の進め方
この話は江戸時代の炭の話です。
江戸時代の炭について細かく書かれた資料を探しましたが、ほとんどありませんでした。
それでも、図書館や資料館の資料を探した結果、いくつかの参考文献が手に入りましたので、その内容を使います。
記事では、ほぼ全編で参考にした文献の引用文を使います。
引用文は漢数字を使っていたり長文になるものが多く、読みにくいため、適宜改行を入れました。
江戸で使う炭の量と生産地
江戸で使う炭は年間250万俵
ところで、「江戸の町は人口100万」と言われています。
その全ての人々が、生活に炭を使っていました。
お店関係では、テレビ時代劇に出てくる夜鳴きそばの店から、神楽坂の高級割烹店までです。
そして、下町の長屋に住む江戸町人も、毎日、炭を使っていました。
では、どのくらいの炭の消費があったのでしょうか。
ひとつの資料がありました。
資料の話しの前に、事前知識を確認しましょう。
炭の量を調べるのに使う単位を「俵」といいます。
「俵」の読み方ですが、音読みでは「びょう又はびょう」で、訓読みでは「たわら」です。
「俵」は、ワラで編んだ筒状の入れ物に、米や炭を入れたものです。
数えかたは「一俵」、「いっぴょう」です。
また俵の形については、後の内容に写真を示しました。
では、引用文です。
尚、引用文は読みやすくするために改行してあります。
江戸における炭の消費量はどのくらいなのでしょう、各地から江戸へ船で迎ばれた炭は享保一一年(一七二六)には八◯万九七一◯俵で、薪は一八二◯万九六ハ七束にものぼります。
ただし実際にはこれ以上の炭や薪がもたらされているので、実に多くの炭や薪を江戸の人々が求めていたかがわかります、その後も炭の需要は伸び続け、幕末期の江戸における年間消費量は約二五〇万俵と推定されています。
《引用文献》たましん地域文化財団,2000,けやき出版,『多摩と江戸』,p247
ここで、上記の引用の中にある数値をわかりやすくするために、算用数字に直しました。
《各地から江戸へ船で迎ばれた炭は享保11年(1726)には80万9710俵で、薪は1820万9687束にものぼります。》
《幕末期の江戸における年間消費量は約250万俵と推定されています。》
炭の生産地に武蔵がある
年間約250万俵という炭は、どこから江戸の町に入ってきたのでしょうか。
資料には、江戸の町に入った炭の生産地がありました。
引用文は読みやすくするために改行してあります。
では、江戸で消費される炭はどこで生産されたのでしょう。
『和漢三才図会』(正徳三年・一七一三刊行)では、江戸近辺の炭の生産地を「武州八王子秩父野州及常陸甲信ノ諸国皆出堅炭」としています。
時代は下りますが、文久元年(一八六一)江戸における炭や薪の供給をになった「川辺竹木炭薪問屋」は、炭の生産地として武蔵・伊豆・駿河・遠江・相模・甲斐・常陸・上野・下野・上総・安房・下総の一二か国をあげています。
江戸で消賞された炭が関東や、隣接している地城で生産されていた様子がうかがえます。
《引用文献》たましん地域文化財団,2000,けやき出版,『多摩と江戸』,p247
江戸の町に入っていた炭に「多摩炭」があった
ここであらためて、上記の引用にある炭の生産地を示します。
武蔵・伊豆・駿河・遠江・相模・甲斐・常陸・上野・下野・上総・安房・下総
このなかで「武蔵」の国には古い時代の多摩郡、現在の多摩地区が入り、その中には現在の青梅、八王子があります。
そこで、青梅、八王子を含めた多摩地区一帯で作られる炭を「多摩炭」と呼ぶことにします。
ということで、江戸の町に入っていた炭に「多摩炭」があったのです。
好評な多摩炭とその理由
八王子の炭として名前が通っていた
「多摩炭」の評判が良い、という話も残っていました。
次は、東京都あきる野市にある五日市郷土館の資料から引用します。
また、引用文のなかに「鳶魚」(えんぎょ)と出て来ますが、「鳶魚」は三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)で、大正時代の考証家です。
鳶魚は江戸時代の多摩炭に注目していました。
次の資料は、八王子の炭の評判が良かったという内容です。
引用文は読みやすくするために改行してあります。
元禄ごろすでに江戸は人口増加、100万人、炭の不足から、群馬、栃木、そして上等の紀州の熊野炭(備長)など諸国の炭の舟運での搬入が始まります。
18世紀後半安永頃には、江戸市中の炭の価格高騰を調節すべく幕府の伊豆の御林を提供して焼かれた天城炭の搬入も始まります。
多摩の炭もその一部となっていったわけです。
炭材提供の御用仕事での天城炭は、格安で安定した値段を維持したはずで一時八王子でも行われます。
鳶魚によると「常に遣うは天城・八王子の類よろし」(『経済随筆』)で天城炭と八王子炭はお徳用品で幕府が価格調整を行う程、炭は必需品でした。
《引用文献》五日市郷土館,2022,五日市郷土館,『郷土あれこれ』,多摩の炭,第33号,p1
言葉の説明・・天城炭
上の引用文に「天城炭」(あまぎずみ、あまぎたん)という言葉が出てきました。
では、天城炭とは何でしょうか。
一言でいうと、伊豆の天城地方で作った炭を指します。
そしてこの天城地方は幕府の土地でしたので、天城炭のことを「御用炭」(ごようずみ、ごようたん)とも言いました。
多摩炭が好評なのは、筏で運ぶので安価だった
ここまでの資料から、多摩炭の評判は良く、安価だったようです。
では「多摩炭」は、なぜ安価だったのでしょうか。
安価だったことの理由がありました。
引用文は読みやすくするために改行してあります。
そこで、八王子の炭が安価だったとすれば、多分、運搬の道が安定し、江戸へ12、3里という近距離のせいでしょう。
多摩川を下る筏の上荷、「青梅炭」では、川越の新河岸川の舟運という搬出手段も加わって有効であったはずです。
多摩炭は安価で、供給が常時搬入ということで、江戸における需要を安定的に持続させたことでしょう。
集散地、五日市・青梅の炭問屋の多さや街道を往還する農間稼の持続と、時には江戸の炭間屋と対立するほどの展開も、それをよく物語っているのです。
《引用文献》五日市郷土館,2022,五日市郷土館,『郷土あれこれ』,多摩炭,第33号,p2
多摩炭の運び方
炭焼き農家から氷川村の集積場まで
では、奥多摩の炭焼き農家の様子はどのようだったのでしょう。
引用文は読みやすくするために改行してあります。
青梅は、谷深い日原、小河内などから一旦氷川へ、集荷した炭を「氷川炭」として日々に青梅へ搬出し再集荷して青梅炭を称していたのです。
《出典》五日市郷土館,2022,五日市郷土館,『郷土あれこれ』,多摩炭,第33号,p2
別の資料からです。
(日原は)一歩も平かなる地はなし、男は山へ入りて木を伐り炭竈の業を第一とし、女は、萱を刈りて炭俵を作り、或いは背負て毎日氷川まで負い出す。
この地は牛馬の通う道なきゆえなり、中婦は二俵、小婦は一俵、日永きときは二遍も往復すと云。
その運賃を得て米穀、塩、味噌などを求めて、帰る
《出典》五日市郷土館,2022,五日市郷土館,『郷土あれこれ』,多摩炭,第33号,p2
次の絵は、引用文にもあった女性が炭俵を背負っている様子です。
比較的大柄な女性は二つの俵、小さい女性は一つです。
《地図で見る》
ここで、上記の引用資料を基に炭の生産地を地図にしました。
地理院地図の立体地図を使っています。
日原村と小河内村の印は、それぞれの地名の付いた建物としました。
では、氷川村と日原村、また氷川村と小河内村との間の距離はどのくらいあるのでしょうか。
現在の道路を使ってそれぞれの距離を測りました。
- 日原村~氷川村・・・9km
- 小河内村~氷川村・・7km
資料によれば、当時、この道は牛や馬が歩けないほど狭く危険な道ということです。
女性たちは炭俵を背負って、この道を歩いたのでした。
氷川村の集積場から筏に乗せる築地村まで
女性たちによって運ばれた炭は集積場に集められました。
そして馬に載せ替えて、現在の昭島市築地町(ついじちょう)、当時の築地村まで運ばれたのです。
次はその様子です。
一九世紀初頭、上長房・上恩方村(現八王子市)の御林山から御用炭を焼き出したときは、築地村まで馬ではこび、多摩川を筏にのせて六郷八幡塚まで運び下げている。
《地図で見る》
では、炭の集積場の氷川村から築地村までの距離はどのくらいあったのでしょう。
地図に位置関係を示しました。
そして引用文にある、炭を筏に乗せる場所を「築地の渡し場」としたのは、つぎの理由からです。
- 筏が留まる場所は、川の流れが緩である必要がある。
- 渡し場は川の流れが緩やか。
- 筏が安定しなければ、炭俵を乗せることができない。
- 現在「築地の渡し場」には記念碑があり、位置は確認できている。
ここでも、現在の地図上の道路を使って、氷川村〜築地村の渡し場の間の距離を測ったところ、距離は36kmでした。
築地村からは筏に乗せて多摩川を下る
築地村からは、炭を筏に乗せて多摩川を下って行きます。
その様子がありました。
引用文は読みやすくするために改行してあります。
筏の上に「上荷(うわに)」といわれる、真木(薪)・炭・杉皮・挽木(ひきぎ)・貫(ぬき)・平板などを積んで、「敷銭(しきせん)」という運賃を取ることもおこなわれた。
一九世紀初頭、上長房・上恩方村(現八王子市)の御林山から御用炭を焼き出したときは、築地村まで馬ではこび、多摩川を筏にのせて六郷八幡塚まで運び下げている。
築地の渡し
築地村には渡し場がありました。
現在の名前は「築地の渡し跡」です。
次の写真は渡し跡にある記念碑です。
記念碑から多摩川を見た風景です。
筏の上に載せた炭俵は25〜30俵
では、一つの筏にどれだけの炭を乗せることができたのでしょう。
資料には数が示されていますが、数字の単位は古い時代の計量の単位を使っています。
例えば、引用文には「1俵」という言葉があります。
ここで1俵とは、炭を入れた袋「俵」(たわら)が一つということです。
また「貫」(かん)という言葉が出てきます。
「貫」とは、古い時代の重さをはかる単位で、1貫は3.75kg(3750グラム)です。
炭俵の4貫目は15kgになります。
次の引用文は炭俵の重さの説明です。
奥多摩地域で産出される炭は1俵あたり4貫目、筏1枚あたり25〜30俵ほど上積みできたという。
《引用文献》世田谷区立郷土資料館資料館だよりNo74・2021・p5
炭は世田谷村野毛でも陸上げした
筏流しの終点は河口の六郷村か羽田村ですが、途中、炭を陸に上げた場所があります。
その場所は、現在の世田谷区野毛でした。
野毛の多摩川岸には、古い時代に「炭河岸」と呼ばれる場所がありました。
次は、世田谷野毛の炭河岸についての引用文です。
引用文は読みやすくするために改行してあります。
筏の上荷
多摩川上流や秋川流域で焼き出された炭は、筏の上荷として川下げされ、江戸や多摩川流域の村々ヘもたらされた。
世田谷区内にも、筏乗りたちによって運ばれてくる炭を買い受け、炭商売を行っていた家が複数存在した。
等々力村では、炭は谷沢川が多摩川に注ぐ辺り(野毛と玉堤境)で荷揚げされ、かつて「炭河岸」と呼ばれるほど盛んに取引されていた。
幕末の史料にも「のけ渡場舟頭川江落、其舟直二乗行助ケ来ルを炭川岸二而見受申候、」と「炭川岸」の名前が見え、江戸時代からその名があったことがわかる。
《引用文献》世田谷区立郷土資料館資料館だよりNo74・2021・p5
多摩炭の出荷量と炭俵の形
多摩川で運ばれた炭は年間2万〜3万俵
ここまででわかったことを確認します。
では、年間ではどのくらいの量になったのでしょうか。
引用文は読みやすくするために改行してあります。
話をもとにもどして、筏の上荷についてみよう。
明治期には上荷の荷主たちも組合をつくり、荷主組合は筏師組合の下部組織をなしていた。
炭、杉皮、板貫類が乗せられ、僅少ながら敷引金もおさめた。
筏は相当な積載力をもち、運賃も安かったであろうから、水に濡れてもよい、かさのはる商品輸送にはうってつけである。
炭は年間2万〜3万俵、杉皮も2万束近くに達した。
《引用文献》五日市郷土館,1982,五日市郷土館,『郷土あれこれ』,秋川の筏物語・明治大正期,第2号,p2
炭の量を裏付ける資料
引用資料からは、多摩川の筏を使って運ばれた炭の量は、年間2〜3万俵ということです。
この数字を裏付ける資料がありましたので次に示します。
参考にした資料は五日市郷土館が発行した印刷物からです。
内容は明治34年からの数量ですが、参考になります。
炭俵の二つの形と実物写真
炭俵の形
炭俵の形はどのようになっていたのでしょうか。
炭俵には、丸俵と角俵があります。
次の絵は、二つ俵の形です。
古い家にあった炭俵の実物
実際の炭俵を見ることができましたので、その写真を載せることにします。
次の写真は、東京都世田谷区にある「次大夫堀公園民家園」(じだゆうぼりこうえんみんかえん)で撮影したものです。
この施設にある民家は、どれも茅葺屋根(かやぶきやね)の大きな家です。
そして下の写真は、その大きな民家の脇にあった建物です。
この建物の軒下に、雨露を避けるようにして、炭俵が全部で六つ並んでいました。
縄の内側には、炭が出ないように小枝が組み込まれています。
手を伸ばして炭俵を触ってみました。
どの炭俵も、縄でしっかりと結んでありました。
見てのとおり、この炭俵の形は四角ですね。
前の説明にあった「角俵」でした。
歌舞伎の口上にも登場した「八王子の炭焼き」
江戸の町では、天城の炭と同様に、多摩の炭も世間によく知られていました。
それは、歌舞伎舞台の口上でも「八王子の炭焼き」として出てくるほど、名が通っていたのです。
次は、歌舞伎での助六の口上です。
このなかで、炭焼きは老女、「婆」の仕事になっています。
引用文は読みやすくするために改行してあります。
見かけは小さな野郎だが、肝が大っきい。
遠くは八王子の炭焼き婆。
田圃の歯っ欠け爺い、近くは山谷の古遣手、梅干し婆あに至るまで、茶飲み話しの喧嘩沙汰。
結果
いままでの文献調査をまとめます。
多摩炭とはなにか
一言で表せば「東京都の多摩地区」で作られる炭のことをいいます。
この多摩炭には、歌舞伎の口上にもある八王子の炭も含まれています。
筏の上に乗せた多摩炭の量はどのくらいか
筏1枚あたり25〜30俵の炭俵を乗せることができた。
普通、筏は三つをつないで、三連にして流したそうです。
その場合、上荷の炭は三つの筏の上に乗せたのでしょうか。
その点は不明です。
多摩炭は江戸の町でどのように扱われたのか
多摩炭は江戸の町で好評で、歌舞伎の口上にも「八王子の炭焼き」という言葉があるくらい有名でした。
資料を読むと、炭の名前は、それぞれの生産地の名前で呼ばれていたようですが、江戸の町に到着すると、多摩地区からの炭は、全て「多摩炭」と呼ばれていたということです。
実物の炭俵の姿を確認する
東京都世田谷区の「次大夫堀公園民家園」の民家の軒下には、炭俵が展示してあります。
この建物がある民家園では、この炭の他にも、古い時代に使われた農機具を見ることができます。
考察
ここでは、馬と筏との物流を比較します。
馬を使った荷車と筏の輸送量の比較
ところで、まだ自動車が無かったころ、大量の荷物を輸送する方法には何があったのでしょう。
それは牛や馬を使って、荷車(にぐるま)を引くことでした。
古い時代はこの方法が普通でした。
では、馬に荷車を引かせて、どれだけの荷物を運ぶことができたのでしょうか。
次の写真を見てください。
この写真では、馬に荷車を引かせて炭俵を運んでいます。
資料によると、時代は昭和十年代で、この写真は五日市の炭問屋へ炭を運んで行くところだそうです。
この写真の年代は昭和時代ですが、このような運搬方法は、江戸時代でも行われていたと思います。
そして、この写真で見える範囲で、荷車に乗っている炭俵は10俵です。
荷車の後ろ側に乗せている炭俵を推定しても、この荷車にある炭俵は、全部で十数俵くらいでしょう。
ではここで少し発想を変えます。
それは、ここから馬の荷車に炭を乗せたまま多摩川下流まで運ぶ、ということを想像してみましょう。
実際にはあり得ない方法ですが、仮に想定します。
いままでの説明で、馬を使った荷車の場合、乗せることができる炭俵は十数俵です。
そして、筏の上に乗せる場合は本記事にもあったように、一つの筏で25から30俵です。
ということは、筏の積載量は、荷車の2倍あることがわかります。
このように、筏を使った運搬は大量の荷物を運ぶことができます。
炭の輸送量について考察しましたが、輸送時間と輸送コストの面からも、トラック輸送が普及するまでの間、多摩地区から六郷への炭の輸送は、筏の上荷として運ぶことが最も良い方法と言えます。