「先生の思い引き継ぎます」 被団協に平和賞 肥田さん墓前に報告(2024年10月21日『毎日新聞』) (original) (raw)

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肥田舜太郎さんの墓の前で、ノーベル賞受賞を報告する木内恭子さん(左端)ら=2024年10月17日午前10時半、さいたま市で萩原佳孝撮影

自らも広島で被爆した医師でありながら、被爆者医療や核廃絶運動に力を尽くし、2017年に100歳で亡くなった肥田舜太郎さん。県被爆者協議会(しらさぎ会)の名誉会長などを務めた。看護師として肥田さんとともに働き、親交のあった4人の女性が17日、さいたま市にある肥田さんの墓を訪ねた。

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「先生おめでとう、よかったね」。日本原水爆被害者団体協議会(被団協)のノーベル平和賞受賞を報告した。【萩原佳孝】

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墓前を訪ねたのは、9歳の時に広島で被爆した、しらさぎ会副会長の木内恭子(ゆきこ)さん(88)と、鈴木百合子さん(78)、水野岩子さん(77)、鈴木智子さん(69)。

1945年8月、肥田さんは軍医として勤務していた広島で負傷者治療に向かい、入市被爆した。戦後、行田市や旧浦和市で診療所を開設。78年に川口市にできた埼玉協同病院の院長や、日本被団協の原爆被爆者中央相談所理事長として、92歳で一線を退くまで6000人以上の被爆者を診察した。その経験をもとに、数十年たっても、がんや白血病で被爆者をさいなむ核の脅威を世界に訴える活動に取り組んだ。

木内さんらは看護師として、埼玉協同病院の被爆者外来などで働き、被爆者の苦しみに寄り添う、肥田さんの仕事ぶりや人柄に接してきた。鈴木智子さんは晩年の肥田さんに付き添い、最期を看(み)とった。「気さくでお話好き、人の心を引きつける魅力のある人でした」と振り返る。一方で、「被爆のことをもっと勉強しなくてはダメだ」と叱咤(しった)されたこともあったという。

4人はノーベル賞受賞を伝える新聞の切り抜きや、自宅庭で摘んだ花束、受賞祝いの赤飯や好物だったというおまんじゅうなどを墓前に供え、思い出話に花を咲かせた。

肥田さんは99歳まで講演活動を続けた。「被爆者は生きているだけで宝。自分の命を主人公に長生きして」と、繰り返し話していたことが4人の心に深く残っているという。

「もうちょっと元気で長生きしてくれたら、喜ぶ顔が見られたのに」と声をそろえ、「核廃絶の草の根の運動の火付け役だった先生の思いを引き継いで、私たちも力を尽くしたい」と話した。