「戦争で死ぬのは、父のような下っ端じゃないか」遺族のわだかまりを解いた、元上官のある言葉とは #戦争の記憶(2024年8月17日『デイリー新潮』) (original) (raw)

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沖縄戦で、無念のうちに戦死した松倉秀郎上等兵のご遺族 (写真/浜田哲二)

「この世の地獄」と形容された沖縄戦で、無念のうちに戦死した松倉秀郎さん(=上等兵、享年35)と、若くして3人の幼子のシングルマザーとなったその妻・ひでさん。

キャプチャ2戦地の秀郎さんから紀昭さんに届いた手紙 (写真/浜田哲二)

秀郎さんが所属した第24師団歩兵第32連隊・第1大隊を率いていた伊東孝大隊長は、部下のおよそ9割を死なせてしまった罪の意識から、戦後、その遺族たちに宛てて「詫び状」を送り続ける。「許されるものなら、私も夫の後を追いたい」――大隊長へ宛てた往信のなかで、率直な思いを打ち明けたひでさん。

それから数十年もの時が流れ、ひでさんの手紙は、その子どもたちのもとへと「返還」されたのだが――。

※本記事は、浜田哲二氏、浜田律子氏による初著書『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』より一部を抜粋・再編集し、全3回にわたってお届けする。【本記事は全3回の第3回/ 第1回から読む】

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「父のことは記憶にないの」と号泣した遺族

松倉秀郎さんの妻・ひでさんが書いた2通の手紙は、2017年8月、長男・紀昭さん(80歳)と長女・恭子さん(74歳)へ返還した。私たち(注:筆者であるジャーナリスト夫妻)が訪ねた時、残念ながらひでさんはすでに亡くなっていた。

秀郎さんとひでさんの間には、3人の子どもがいた。長男と、その下には双子の姉妹。戦争未亡人になったひでさんは、役所の支所に勤めながら幼子を立派に育て上げる。

かつて母が書いた2通の手紙の内容に触れ、顔を覆って泣いていた双子姉妹の姉・恭子さんが咽び声で言葉を絞り出した。

「父のことは記憶にないの」

祖父の家で風呂に入れてもらった帰り道、母に背負われて、夜空を見上げたのが忘れられない想い出だという。

「ほら、あの一番輝いているのがお父さんの星よ、と母が指さすの……」

その後は言葉にならず、誰はばかることなく号泣する。

「教育者になりなさい」――父の遺言

キャプチャ4大隊本部壕前の通行壕で掘り出された遺骨 (写真/浜田哲二)

松倉家の長男・紀昭さんは幼い頃、警察官だった父に連れられて刑務所の見学へ行った。

そこで父が言う。

「悪いことをした人を罰するより、悪いことをしない人を育てることが大切だ」

戦地から送られてきた思いやりに溢れる手紙のなかにも、長男への訓示が綴られている。

「母に苦労を掛けず、勉学に励みなさい」

こうした教えを受けていたゆえ、貧しい暮らしで苦労した母を助けるため、高校を卒業したら、すぐに就職しようと準備していた。

ところが、進路相談の折に母から突然、伝えられる。

「あなたは教育者になりなさい。それがお父さんの願いでもあり、遺言よ」

驚いたが、父の言葉が蘇った。

「悪いことをしない人を育てることが大切だ」

紀昭さんは苦学して教育大学へ進み、小学校で教職に就く。父の願いを叶え教育者となり、教え子を決して戦場に送るまい、との決意で平和教育に力を注いだそうだ。

戦禍の艱難辛苦に翻弄される生き方を、次世代にはさせたくないと心に誓う紀昭さん。自らの子どもも教育者として育て上げ、孫は医師になった。父母から引き継いだ、命を大切にする教えを家族にも伝え、今後も貫きたいと話している。

松倉は、けっして「犬死に」したのではない

キャプチャ5

沖縄戦で、米軍から陣地奪還を果たした大隊があった。奮戦むなしく兵士の9割は戦死。24歳の指揮官・伊東孝一は終戦直後から部下の遺族に宛てて「詫び状」を送り続ける。時は流れ、伊東から「遺族からの返信」の束を託されたジャーナリスト夫婦が、“送り主”へ手紙を返還するなかで目撃したものとは――。不朽の発掘実話 『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』

亡き母の手紙を受け取ったのち、長男・紀昭さんは父・秀郎さんの元上官にあたる伊東孝大隊長へ面会を申し込む。

「戦争は父のような下っ端が死んで、偉い人が生き残るものだ」

そんなわだかまりから、生き残った大隊長の話を聞いてみたいという願望があった。

面会の当日、紀昭さんの長男で筑波大学で教授を務める千昭さんも同席したいと申し出てきた。体調が芳しくない紀昭さんを心配していたからだ。

そこで、秀郎さんを戦死させたことを涙ながらに謝罪し、けっして「犬死に」したのではなく、立派な働きをしたことに誇りを持ってほしい、と語る伊東大隊長の本心に触れる。さらに、母の万感の想いがこもった手紙を大切に保管していた経緯も知った。

帰り際、横浜の駅で、紀昭さんが両の手を差し出して私たちに握手を求めてきた。

「ありがとうございました。母の手紙にもあったとおり、伊東大隊長は立派な方でした。その下で働けた父は、さぞかし幸せだったのでしょう。それを知れたことで、もうわだかまりは消えました」

目には光るものがある。

「今の私には、伊東大隊長が実の父のように感じられます。ぜひ、戦没した父の分まで、長生きされるようお伝えください」

別れを惜しむかのごとく、列車の出発の直前まで、握り締めた手を離してくれなかった。

壕内で見つかった「丸いメガネ」

この遺族にはまだエピソードがある。

紀昭さんの孫である啓佑さんは、過疎地で奉仕する総合診療医を目指し、現在は愛知県で専攻医をしている。九州地方の国立大学医学部で学んでいた19年、沖縄を訪ねてきて、国吉台地で遺骨収集に参加してくれた。

曾祖父の秀郎さんが戦死した壕などで約1週間、真っ黒に焦げた天井や壁の下の地面を掘って、遺骨を探した。

そして最終日、暗い壕内で祈りを捧げる。

「僕が曾孫だよ。命を紡いでくれてありがとう。ひいおじいちゃんのことは忘れないからね。また来るよ」

その翌年、松倉上等兵が戦没したとされる壕の監視哨口の下で、当時のものと思われるメガネを発掘した。発見したのはボランティアメンバーの高木乃梨子。啓佑さんが土にまみれて掘り進んだ窪みのすぐ脇から見つけた。

秀郎さんの写真と見比べると、出征時に掛けていたものと形や特徴がほぼ同じに見える。

戦闘時の状況や埋もれていた壕内の様子などを説明しながら、それを紀昭さんと恭子さんに見せた。

「このスタイルの丸いメガネはねぇ。当時、みんな同じような形でしたから……」

首を傾げ、苦笑いしながら手に取る。

「でもこれ、父が掛けていたのに似ているよね。どれどれ」

恭子さんが掛けてみると、その顔は秀郎さんの遺影の写真と瓜二つになった。

驚いた紀昭さんも掛けると、これも瓜二つ。見合わせた二人の顔が真顔になった。

「これは父のものだと思います。だって、写真とそっくりだもの。孫の啓佑が掘った場所の近くに、埋もれていたのですよね。もう絶対にそうでしょう。たとえ違ったとしても、父の戦友のものです。頂けるのですよね。大切にします」

その後も、互いにメガネをかけた顔を見合わせて、和やかに笑い合っている。

秀郎さんとひでさんが、奇跡を生んでくれたのかもしれない。

(終)

デイリー新潮編集部


ずっと、ずっと帰りを待っていました:「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡 Tankobon (ソフトカバー) – 2024/2/15

浜田 哲二(著),浜田律子(著)

戦闘没将は、私の最愛の人でした――手紙が浮き上がる感動の人間ドラマ

沖縄戦で、米軍から陣地奪還を行った大隊があった。から24歳の指揮官・伊東孝一は部下の遺族に充てて「謝罪状」を送り続ける。時は流れ、伊東から「遺族からの返信」の束を託された観光夫婦が、「送り主」への手紙を返す中

に目撃したのは――。不朽の発掘実話。

【目次】プロローグ 伊東孝大隊長への手紙第1章 戦闘は強固な陣地づくりから――沖縄上陸と戦闘準備(1944年夏〜45年4月)中旬)「でも、どう。あんなに早く」 後藤豊 准尉(享年33)第2章陣地なき戦闘――緒戦、西原・小波津の戦闘(1945年4月末)「姿は見えなくとも、夫はきっと生きている。私の心の中に」 田中幸八上等兵(享年31、推定)「私は親として、彼の死を一時は言わない」 山崎松男 上等兵(享年22、推定) 「勝手によって考えの根拠を踏まえ、長男を洞察し、言い表し得るぬ心情」 吉岡力伍長(享年24)「幸いにして勇は、喜んで戦死せしものと勝ちます」 奥谷勇一等兵(金額は不明)第3章 かみ合わない作戦指令――首里近郊一四六高地戦闘(1945年5月初旬)「生キ残リテハリビングラヌカト、様子ノ有ルノヲ待って居リマシタ」 横山貞男一等兵 (享年34)「それは空式生命だったと諦める道しかありません」 中村石太郎軍曹(享年35) 「ブレイクとは肩書きだけ、犬猫よりおとる有り様ではありませんか」 小早川秀雄・伍長(辞任は不明)「復員軍人」見ても、もしやと胸を轟かせた」 太田宅次郎 上等兵(享年34)第4章 死闘、また死闘――棚原高地奪還作戦(1945年5月5~7日)「軍人として死ぬ場所」得た事、限りなき名誉と勝ちます」 今村勝 上等兵(享年33)「肉一切れも残らず飛び散って負けたのですか」 倉田貫一中尉(享年38)「新日本の建設に、我」 「が児の血により力強く染めた事と思い」 黒川勝雄 一等兵(享年21)「今はしく一人孤独残され、自親もなく子供もなければ金もなく」 野勢勝蔵 上等兵(覚悟は不明)第5章 玉砕を決意――首里司令部危機の離脱〜南部撤退(1945年5月半ば〜5月末)できません」 高田鉄太郎 上等兵(考えは不明)「もしや、ひょっこりと帰ってきてはくれまいか等と思われて」 鈴木良作 上等兵(享年36) 「漸からぬ最期を進歩たる事承、父としてやはり安堵仕りました」 重田三郎主計中尉(享年23、推定)第6章 最後の防衛線――糸満・国吉台の戦闘(1945年6月中旬)「本当は後を追いたい心で一杯なので」 」 松倉秀郎 上等兵(享年35、推定)「私のおしえをもありましたのまさか、けっっっっっっっっっしいとは思いません」 鈴木喜代治 上等兵(享年26、推定)「御貴書により、諦めがつきました」 長内大太郎 上等兵(覚悟は不明)「愚息ニ付テハ、イマダ生死不明デアリマス」 工藤國雄中尉(享年29)第7章段階解除までの戦――糸満・照屋の戦闘(1945年6月~8月末)「息子の想い出が注目した庭石を楽しんで、泣いている母」 佐々木高喜軍曹(享年24)「これからの世は、生きている」て居ても、さほど幸福でもありますまい」 阿子島基一等兵(享年22)「息子の帰りを、一日千秋の思いで待って居ました」 金岩外吉上等兵(享年21 )母として、確報を受けないうちは、若しやと思い」 多原春雄 伍長(享年25、推定)「白木の箱の外側と、石ころの個数。一応だたのよ」 木川英明 上等兵(認識は不明)エピローグ 奇跡の帰還【推薦コメント】保阪正康氏――死者は生者の中に生きる。世代がつなぐ昭和史の実像、ここに「歴史」がある。佐藤優氏―― ―「人間は信頼できる存在だからある」。 数多の証言は、そう語りかけてくるようだ。【著者プロフィール】浜田哲二(はまだ・てつじ)1962年、高知県出身。元朝日新聞社カメラマン。 2010年に会社を早期退職後、青森県世界自然遺産・白神山の麓にある深浦町へ移住し、フリーランスで活動中。沖縄県で20年以上、戦没者の遺骨収集と遺留品や肝臓の手紙返還を続けている。公益社団法人日本写真家協会(JPS)会員。浜田律子(はまだ・りつこ)1964年、岡山県出身。 元読売新聞大阪本社記者。 93年、結婚を機に退職後、主婦業と並行してフリーランスで環境雑誌などに原稿を執筆。夫・哲二とともに沖縄県で遺骨収集と遺留品や遺族の手紙返還を続けている。