終わらない戦争に悲惨な衝突…こんな時代だからこそ役立つ「哲学の本当の意味」(2024年10月16日『現代ビジネス』) (original) (raw)

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明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。

「世界哲学」への道

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写真:現代ビジネス

日本哲学の意義のひとつに、「世界哲学」への貢献ということが考えられるであろう。

そこで述べたように、「世界哲学」とはさまざまな哲学の営みを統合した唯一の「哲学」を指すのではない。それぞれの文化の伝統のなかで成立した哲学のあいだでなされる対話の営み、あるいはこの対話がなされる場所を指す。以上で述べたような特徴をもった哲学として日本の哲学はその対話の場所でさまざまな貢献を行いうるのではないかと私は考えている。

そのことを、現在われわれとわれわれの時代が直面するさまざまな課題との関わりにおいて考えてみたい。

現代においてわれわれが直面する問題としてすぐに思い浮かぶのは、科学技術の著しい発達が生み出した、あるいは生み出しつつある諸問題である。科学技術は確かにわれわれに多くの利便をもたらした。われわれはその恩恵を抜きに生活を考えることができない。しかしその著しい発達、たとえば遺伝子の操作や、体細胞からクローン生物を作る技術の開発などは、あらためて生命とはなにか、人間とはなにかという問いをわれわれに突きつけている。また地球規模での環境の破壊や温暖化は、自然との関わりをあらためて問うことを必須なものにしている。

科学技術の発達によって、われわれはわれわれのあり方を根本から変えたと言ってよいであろう。たとえば本書で取りあげた「自然」との関わりで言えば、われわれは自然を畏れ、自然と共存するのではなく、自然をただ単に利用するだけの存在としてとらえるようになった。自然の恩恵のなかで生きるのではなく、自己の欲求を限りなく拡大し、それをどこまでも追い求める存在になっている。「より多く、より早く」と追い求めながら、しかし、われわれはそのように追い求める意味と目的とを見いだせないでいる。そのような仕方でわれわれの足下に大きな空洞が生まれつつある。

もちろん最近になってはじめてそのような問題に気づかれたのではない。たとえばハイデガーは、戦後の早い時期にすでに、技術の本質をすべてのものを「役立つもの」に仕立て上げてしまうところに見ていた。技術は、自然から有用性を引き出すようにわれわれをそそのかし、われわれのうちにある欲望を際限のないものにする。技術が支配するところでは、川はもはや生活のなかの川であるのではなく、発電用のタービンを動かすための水圧と水量として立ち現れてくる。「役立つもの」になるのは自然だけではない。「人的資源」ということばが端的に示すように、人間もまた「資源」として見られるようになっている。つまり有用な存在として見られるようになっている。そのような自然の、そして人間のあり様のなかにハイデガーははっきりと「危機」を見ていた。

すべては「対話」から

しかしあるインタビューのなかで、その危機の克服のために東洋の思想から何かを期待するかと問われたとき、ハイデガーは、技術の支配の克服は、東洋的世界経験を受容することによってではなく、ヨーロッパ的伝統とそれを新しい仕方で自分のものにすることによってのみ可能になると答えている。ハイデガーは東洋の思想に大きな関心を寄せた哲学者であったが(たとえば『老子』の翻訳を試みている)、しかし彼においてはまだ西洋と東洋との対話ということは、本当の意味では求められていなかったと言ってよいのかもしれない。

しかし、近年ではむしろ、技術文明が直面する問題の普遍性が意識されてきている。つまりそれがひとり西洋の問題ではなく、全世界的な問題であることが意識されてきている。私のドイツでの師であったオット・ペゲラーは、日本を訪れた際に、「西田・西谷への西洋からの道」というテーマで講演を行ったが、そのなかでまさにその点を、そしてその克服のためには何より「対話」が必要であることを強調した。

もちろん西洋には西洋の文化と伝統があり、東洋には東洋の文化と伝統がある。そしてそれに基づいたそれぞれの自然理解、歴史理解、人間理解があることは言うまでもない。しかし、そのような差異があるからこそ、逆に、対話が意義あるものとなりうると言うことができる。科学技術の発展がもたらした問題は、それを生みだし、それを支えた人間観や自然観のなかでではなく、むしろそれと土壌を異にした人間観や自然観を対置することによって、──より適切に表現すれば──両者の対話のなかで初めて克服されるにちがいない。近年、西田や田辺、西谷らの著作が英語やその他の言語に翻訳されたり、それらをめぐる多くの研究が発表されたりしているが、それはいま言ったような点に気づかれているからではないだろうか(もちろんその問題だけが意識されているわけではないが)。

かつて西谷啓治の『宗教とは何か』のドイツ語訳(一九八二年)が出版されたとき、ドイツのヴュルツブルク大学のハインリッヒ・ロンバッハ教授が書評の筆を執られた。そのなかで氏は次のように記している。「日本の文化と伝統とは、ヨーロッパの科学技術文明に対して立ち、その唯一性、普遍性に疑いをさしはさむ唯一の、自立した文化であり、伝統である。……技術世界を迂回するのではなく、それを貫く歴史解釈は、日本的―仏教的伝統からのみ提示されるであろう」。日本の文化がヨーロッパの科学技術文明に対して立つ「唯一の」文化であるとは私は考えないが、ヨーロッパの文化と日本の文化との、さらに言えば、それ以外の諸文化との「対話」から多くのものが生みだされるに違いないという確信はもっている。

さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。

藤田 正勝

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藤田 正勝 (著)

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【本書のおもな内容】

・日本最初の哲学講義はいつ行われた?

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・経験と言葉のあいだにあるもの

・言葉の創造性を考える

・人間の生のはかなさと死に迫る

・心によって生かされた身体とは

田辺元が生み出した「種の理論」

・「自然」という言葉の歴史

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・移ろうものと移ろわぬもの

・光の世界と闇の世界