たなかようこ (original) (raw)

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帰宅途中、自転車で信号待ちをしていると、向こう岸の国道の植え込みのかげに黒と白の細長い猫が見えた。

猫は国道を渡りたいらしく道路の方を見ているようだった。

猫の前には国道を渡る30mほどの長さの横断歩道があって、ちょうど信号が青になったところだった。

走ってきた車たちは、その前で停車して、白く眩しいライトで横断歩道を照らしていた。

猫は、車の前をちょこちょこと横切って、横断歩道をゆっくり渡っていった。猫は対岸にたどり着いて、また植え込みのかげに隠れていった。

肌色と緑の砂浜がある。

どちらが海なのかはわからない。

透明の朱色の光線によって、

肌色の砂はすこし金色に光る。

緑色の芝生には鷺と渡り鳥がまんべんなく休んでいる。

なかには腹這いになっている鷺もいる。

今日の昼の太陽のあたたかさが草の間で冷えつつも、

すこしのこっているのだろう。

茶色の渡り鳥たちは気の向くままに草の間をついばみ歩いている。

一方、鷺たちは一定の距離を保ってあまり動かない。

みな、太陽に背を向けて、同じ方向を見ている。

太陽は時間の経過とともに弱っていく。

いまは午後5時半ごろである。

直立している鷺が、きまぐれに羽をばたつかせた。

ここはだれもいない野球場である。

野球場の外には公園の池がある。

池は鏡となって太陽を映していた。

春休みのあいだだけのバイトは、

業務内容がいつも極端で、一日中同じ判子を押し続けたり、一日中電卓で計算し続けたりする。

今日は朝から夕方まで同じ判子を押し続ける日だった。

判子は押し続けると押し損じることは少なくなり、どんどん上手くなることがわかった。

お昼休みに公園に行くと、これから咲こうとしている桜のつぼみが何個か落ちていて、拾って手帳に挟んで押した。

帰り道自転車で車道側に派手に転けた人を遠目に見た。みんなに助けられてその人はまた自転車に乗って自立していた。

最近、正岡子規の『病床六尺』をお風呂の中で読んでいる。

子規の晩年は、病気で身動きできないので数年を布団の上で過ごさざるをえないものだった。この本はそのときに書かれた随筆だ。

子規は病床という一つ所にとどまることしかできず、出かけたりもできない分、自分が見たものや、書物や訪問者の伝聞によって自分の頭の中に見える情景が生きる糧であったように、この本を読んでいて思う。

画集や活動写真的技術によるおもちゃ(覗くとスライドショーが見えるお土産キーホルダーみたいなやつ)で、行くことはできない実地の情景やその構造に思いを馳せる。

それに、その場所を想像で歩き回れるように、写真に加えてその場所の地図があればいいと子規は書いている。

俳句もそのような効能を持ち、作者の技量の悪さで書かれている情景が不明瞭だったり現実的に無理があったりすると、句評において子規がまず指摘する部分はそこである。

それは、わたしが昔通っていた美大系予備校のデッサンの講義のように、書いたものが見たままであるのか、いい加減な手癖で見たままを歪めたり誤魔化したりしていないか、という判断基準を思い出させる。俳句とデッサンの意外な共通点を見つけることになった。

あと、小さい頃に布団の中でやっていた、脳内劇場を思い出す。それは頭の中で自作のドラマを1クール毎晩想像するという日課だった。まずその話を想像するには、人物描写と舞台設定を考えないとあとでつまずく。現実に近い想像をするには、細かな想像のための材料が必要なのだ。

風呂場で読み進めるうちに、残りの項がどれくらいかが気にかかり、あとわずかになると悲しい。というのも、この本が子規の死ぬ直前まで書かれたものであって、残りの項数がそのまま生きられる長さだからだ。

わたしの知っているかぎり、たいがいの人は最期の日の少し前は元気だったり朗らかだったりしている。

子規も例にもれず、死ぬ1ヶ月前は隣の家の子どもたちとお絵かきをしたり、欲しかった絵を手に入れて喜んだり、なんだか明るい日を生きたので救いを感じる。

なぜか正岡子規を頭の中に思い描くと、どうしても宮沢賢治の写真が出てくる。どっちの写真も教科書に載っているが、子規のはやけに頭蓋骨の形が目立つ横向きの写真だったはずだ。

家が街の南にあるとして、街の北にある職場に自転車で行くことにした。

その距離13km、片道1時間30分ほどだ。

自転車で街を縦断することで、なんだか自分の住む街の全貌を把握したような気になり、電車に乗っていてはわからなかった土地勘を獲得する。

この街は、真ん中に坂が多く、あとは平べったい。

川を隔てて街のかんじが変わる。こんなにたくさん川が流れていることすらいままで知らなかった。あと、大きな暗渠になった川もある。

今回は、自転車で通るのに抜群な人も車もいなくて平らな道、しかもずっと走っていられる長い道を見つけられてうれしい。その平べったい道はホテルかコンサートホールかセレブ的大建築と警備員さんしかいない。こんな世界があったのか。

人のかんじも場所によって違う。

街の真ん中に行くと、ほんとうに誰もがおしゃれになる。

おしゃれな人たちがおしゃれな店に列をなしているのを見た。

その店は、高級花屋のようなシックな外観だったが、よく見ると定食屋だった。

とても心持ち良くなる映画を観る。

無意識にまわりを不幸に導いてしまうような、ほとんど腐り切った人がいる。

その人にも家族や友人がいて、その人を気にかけてくれて、

その人はよい方向に変わっていき、その人のまわりもよい影響を受け、

みなが幸せになって終わる映画だった。

個人の内面がその人自身の本質を保ちながらも変わることはひとつの革命だなと思った。それは小さな革命だが、その人にとっては世界ががらっと変わる大胆で大きな勇気が要る革命であり、尊く美しい。

風呂上がり、自転車に乗って長い距離を走ることで、自分の体がたくましくなっているような気がした。特に肩と背中に筋肉がついたようで頼もしい。姿勢もよくなったような気がする。こうして自分もささやかにではあるが変わっていく。

猫たちは最近なんだかおとなしく、見やるといつも香箱座りで黙っている。

透きとおってきれいだとおもったイカの骨をひきだしに隠しておいたのに、

一匹の猫がそれを開けてしまって全部食べた。

家が街の南にあるとして、街の北にある職場に自転車で行くことにした。

その距離13km、片道1時間30分ほどだ。

自転車で街を縦断することで、なんだか自分の住む街の全貌を把握したような気になり、電車に乗っていてはわからなかった土地勘を獲得する。

この街は、真ん中に坂が多く、あとは平べったい。

川を隔てて街のかんじが変わる。こんなにたくさん川が流れていることすらいままで知らなかった。あと、大きな暗渠になった川もある。

今回は、自転車で通るのに抜群な人も車もいなくて平らな道、しかもずっと走っていられる長い道を見つけられてうれしい。その平べったい道はホテルかコンサートホールかセレブ的大建築と警備員さんしかいない。こんな世界があったのか。

人のかんじも場所によって違う。

街の真ん中に行くと、ほんとうに誰もがおしゃれになる。

おしゃれな人たちがおしゃれな店に列をなしているのを見た。

その店は、高級花屋のようなシックな外観だったが、よく見ると定食屋だった。

カニクリームコロッケになんだか縁がない。

エビグラタンとかカキフライとも疎遠になってしまった。ましてや、ホタテのフライなんかは存在すら忘れていた。

ご馳走とかおやつが食べたくて1日そわそわしていた。勇気を出して買ってきたのはカプリコ2つとバナナ一房だった。足りない。

ほんとに1年くらい大好きなデパ地下に行っていなくて、ついに夢見るようになってきた。

デパ地下で、フルーツサンド、筋子、熟したアボカド、貝ばっかりのお寿司セットなどを買いたい。

おなかすいた。