水底の記憶〜ウィ、痕跡、生き霊、心的外傷、怨霊、人権 (original) (raw)

■出会い/ウィのレベル

コミュニケーションは、言語的行為を行なう以前に、まずは何よりもすでに「出会ってしまって」います。

こんにちはと言う前に、そう発声する前の段階があり、それは時間で言うと数秒なのか数分なのか数時間なのか、あるいは数年か数十年かもしれませんが、とにかく言語的に発声する前に、そのふたりは互いの存在を認め合います。

その認め合いには2つの段階があり、まずは、そこにあなたはいるんですね、了解しましたというような存在の確認としての「ウィ/イエス」が含まれます。

と同時に、その存在を了解したということは、その存在に対して応える「責任」が生じています。これがふたつめの「ウィ」ということになります。

現実に言葉を交わす前に、ふたりの間では、①互いの存在を認め合い、と同時に、②応答する責任が生じているんですね。現実に「こんにちは」と発生する前にすでにこの「ふたつのウィ」というコミュニケーションが始まっています(『ユリシーズグラモフォン』J.デリダ)。

けれども、こうしたコミュニケーションのプロセスを説明する際、我々はどうしても言語で説明せざるをえないんですね。

言語以前のその「ウィの出会いのレベル」を説明する時、そのこと自体は言葉で説明するしかないということです。

そして、その言葉の冒頭には、まずは「私 ju」が登場してしまいます。

コミュニケーションの前提としての「ウィ、ウィ」は確かに生じている。そのプロセスはふたりが出会った時に(そのメカニズムはネット上の匿名の出会いでも同じです)すでに始まっているけれども、その始まりの瞬間は決して現在進行形で説明することはできない。

その始まりの瞬間は「ことばで」説明するしかなく、その説明は必ず「遅れて」行なわれます。

その遅れる説明の冒頭には、いつも「わたし」が現れる。あなたとコミュニケートの準備(「ウィ、ウィ」)を行なっているのはあなたの前にいる「わたし」であり、あなたの存在を「ウィ」として認めることでそのコミュニケーションは始まります。

同時に、その始まりには「あなたのウィ」も含まれ、その「わたしのウィ」と「あなたのウィ」はどちらが先なのか区別はできない。ふたりが出会ったとき、互いの存在はすでに了承されており、その前提があって初めてコミュニケーションが行なわれます。

つまり、互いの存在を、それぞれの主語(わたしとあなた)を通してすでに認め合っている。

そこには応答の責任も生じており、現実には無視したとしても、それは無視という応答を行なっています。

コミュニケーションは「ふたつのウィ」というメカニズムで出会った瞬間から始まっているのですが、そのことの説明は、少し「遅れて」、事後的に「ことば」を使わざるをえない。その時、同時に「わたし」という主語も発生しています。

少し詳しめに書きましたが、以上のディティールは、『今を読む』(人文書院)「青少年支援のベースステーション」という論文内において、「『私』という形式la forme du 〈ju〉」の解釈を行なうなかで僕は書きました。

■痕跡traceとサバルタン

そのようにして、「Ju /I/わたし」という主体が操る言葉によって、それより少し前の「出会い/第一のウィ」のレベルは語られます。

繰り返しますが、その出会いのレベル、ウィの地平は、「私」という主体 /sujet /subject が操る「言葉」でしか説明できないんですよね。

自他が言語以前にすでに出会っているという事実を説明する道具としては言葉以外になく、その言葉を用いるのが主体 /sujet /subjectであって、「自他混合の瞬間(根源的コミュニケーション)」を言葉で説明するということは、混合の瞬間よりはだいぶ遅れるということです。

デリダ用語でその必然的遅れ(「出会い/根源的コミュニケーション/第一のウィ」のレベル)は、

「痕跡trace」

と表現されます。

根源的瞬間は常に痕跡化し、それを説明する方法は主体subjectが操る言葉しかない。

これがスピヴァクサバルタンは語ることができるか』の冒頭で提示された主体効果/subject-effects の意味だと僕は思います。主体subjectが操る言葉でしか根源的出会いのレベルは説明できないため、その主体の影響や効果があまりに強く働くと、それは恣意的な動きとなり、根源的レベルが隠されてしまいます。

この隠蔽効果は何もいじわるで行なわれるわけではなく、「言葉」を用いる者がそもそも「わたし」のため、わたしという機能の一つである「恣意性」が同時に働くということなんですね。

この恣意性の機能の影響のことをスピヴァクはsubject-effects と呼んでいるのだと思います。

上に記したように、スピヴァクは『サバルタンは語ることができるか」の冒頭でsubject-effectsをとりあげ、これがサバルタンといういわば「真の当事者」を間接的に産むと示唆します。

【今日西洋から生じてきているもっともラディカルな批評のいくつかは、西洋という主体あるいは主体としての西洋を保持しようという、あるひとつの利害にもとづいた欲望の初参である。複数形で表示された『主体効果(subject-effects)」の理論はあたかも主体の主権性を掘り崩そうとするものであるかのような幻想をあたえるが、実際には大概の場合、この知の主体を隠蔽するための覆いを提供している】(『サバルタンは語ることができるか』p3 みすず書房

フーコードゥルーズらのポストモダン哲学がいかに「主体」を切り崩そうとしてもそれは不可能であり、主体効果として残ってしまう。結局はその主体のしぶとさが「サバルタン」を産み出していくと、スピヴァクは晦渋な文章の中に含ませていきます。

■生き霊とsubject-effects

こうした「主体」の働きを考えるとき、いま話題の大河ドラマ『光る君へ』や『源氏物語』などで時々見受けられる「生き霊」という概念が示唆的です。僕はこの頃、

「生き霊=主体効果」

なのではないかと考えるようになりました。それはつまり、生き霊の状態で現れる存在のインパクトが、「怨霊という過去(その一つがトラウマ)」を隠蔽するということです。

源氏物語』9帖の「葵」に、生き霊について以下のような描写があります。

【「そうじゃありません。私は苦しくてなりませんからしばらく法力をゆるめていただきたいとあなたにお願いしようとしたのです。私はこんなふうにしてこちらへ出て来ようなどとは思わないのですが、物思いをする人の魂というものはほんとうに自分から離れて行くものなのです」
なつかしい調子でそう言ったあとで、

歎なげきわび空に乱るるわが魂たまを結びとめてよ下がひの褄つま

という声も様子も夫人ではなかった。まったく変わってしまっているのである。怪しいと思って考えてみると、夫人はすっかり六条の御息所になっていた。源氏はあさましかった。人がいろいろな噂うわさをしても、くだらぬ人が言い出したこととして、これまで源氏の否定してきたことが眼前に事実となって現われているのであった。こんなことがこの世にありもするのだと思うと、人生がいやなものに思われ出した。
「そんなことをお言いになっても、あなたがだれであるか私は知らない。確かに名を言ってごらんなさい」
源氏がこう言ったのちのその人はますます御息所そっくりに見えた。あさましいなどという言葉では言い足りない悪感おかんを源氏は覚えた】(与謝野晶子訳)

生き霊をあやつるのは、よく知られた六条御息所です。ここで彼女は死んではおらず、「物思いをする魂」として、源氏の正妻である葵の上に取り憑いています。そしてこの生き霊は言葉を操り、歌まで詠み、源氏を恨みます。

この生き霊は決して潜在化はしていないんですね。あくまでも見える場所に存在し、顕在化しています。そして、わかりやすい歌を咏み、徐々に六条御息所そのものとして現実化していきます。

この場面自体をメタファーとして僕はとりあげています。つまり、六条御息所の生き霊は言葉を操り、葵の上を死へと追いやり、その存在を潜在化させていきます。葵の上はあけっけなくゴーストとなり、それは同時に源氏の過去の外傷/トラウマとなり、痕跡になるんですね。

葵の上の死にまつわる「出来事」は当事者たちの記憶の深い場所に沈みます。その出来事は現在進行系で説明することはできず、その「遅れ」は「痕跡trace 」になっています。説明の道具である「ことば」を用いようとはしても、それはせいぜい『源氏物語』のような文学表象で行なわれることが多いと思います。

痕跡traceは時に物語化されるとしても、直接説明されることはあまりないでしょう。それはあくまでも痕跡として、我々の記憶の奥底に留まります。

この痕跡こそが、「怨霊」や「ゴースト」なのだと僕は思います。ポストコロニアル哲学的には、この痕跡を「サバルタン」というのだと、今のところ僕は解釈しています。

そしてその痕跡/サバルタンの追跡こそが、サバルタンの顕在化ということになり、スピヴァクが「サバルタンは語ることができるか」と問い続けているテーマです。

■痕跡と「水底にある人権」

日本ではお盆にゴースト(ghost)が帰還し、あるいは怨霊(おそらくこちらはspecter)が日常に常に潜んでいます(ここではghostとspecterを合わせてゴーストと呼びますね)。

ここで言う痕跡traceをなかなか言語化できずに過ごす限り、それはゴーストや怨霊であり続けます。

痕跡はトラウマであり外傷体験でもあります。フロイトがトラウマと名づけその後の精神医学の文脈ではPTSD へと発展し、現代ではトラウマインフォームドケアとして再び蘇っています。

デリダは、フロイトが「トラウマ」と名づけたものを、痕跡やゴーストと捉えています。スピヴァクは、フロイトデリダ理論を、ポストコロニアル哲学の中でのサバルタンとして援用したと僕は考えます。

正確には、トラウマは痕跡の一部でしょうが、痕跡となり無意識化したゴーストに対して、言葉の言い換えという「光」をやわらかく照射して顕在化させる。怨霊やゴーストはその言い換えの一例だと僕は思っています。

これが、「サバルタンは実は語ることができる」というポジティブなメッセージを引き出せるのではないかと、僕は期待しています。これは、わざわざお盆まで待たなくても、ゴーストとそれなりに再会できるんじゃないかということですね。

以上のように、これまで僕が考えてきた「主体効果」やゴーストや怨霊やトラウマやサバルタンがすべてつながってきました。

ここに、以前僕が提示した「水底にある人権」の議論もつなげたいとこの頃考え始めています。

主体効果subject-effectsの結果の一つとしてのポリティカル・コレクトネス が「人権」という言葉を発明しマイノリティを救済しようとしています。

けれどもその「救済」の瞬間、サバルタンへの抑圧が始まります。言い換えると、生き霊の暴力がゴーストを抑圧し隠蔽化していきます。その結果、ゴーストの存在が抹消される。つまり、サバルタンが語ることができなくなるんですね。

主体効果はその権利を主張する土台となるものの、その作業と同時にサバルタン的当事者を潜在化させてしまうということです。

けれども、ゴースト/サバルタンにも「人権」(的概念)は必要ですね。その、潜在化させられたサバルタンが獲得できる人権(的概念)とはどういうものなんでしょうか。

そのキーワードが「水底」だと僕は思っています。そしてそこに蠢くものたちを、怨霊やゴーストとして顕在化させてやることだと思っています♪