現代のコンテンツ消費による、オリジナルの“作者の死”の物語『サルまん2.0』【これアニメ化しないんだ?】 (original) (raw)

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「これアニメ化しないんだ?」とは商業上の理由で30代から50代に向け、80年代や90年代の作品がアニメ化され続けるもどかしさに対する、ささやかな抵抗のシリーズです。

「また一歩野望に近づいた!」の格言と共に、大ヒット漫画を生み出そうとする漫画家と原作者を描く、89年~91年にかけて連載された一大巨編……と見せかけて、80年代中期以降にビッグビジネスとして拡大していく漫画業界を皮肉った作品『サルでも描ける漫画教室(サルまん)』。インターネットならば「とんち番長 サッカー編」にて、漫画家が長期連載で精神失調した状態をモデルにした絵が有名かもしれませんね

しかし初代から10数年後、2007年の続編『サルまん2.0』では、往年のスタイルで萌えアニメラノベが流行る時代を批評的にギャグにする方法が失敗し、連載の途中で終了を宣言してしまいます。単行本化が連載終了から10年後となる失敗作で、読者の評価もよくはありません。

ですが、いま読むと、失礼ながら作者のおふたり自身も当時はおそらく見通せていなかった 、現代における“作者の死”の問題を扱っている漫画だと思いました。なにを持ってその問題が起きているかというと、過剰なメディアミックスや二次創作といったコンテンツ消費環境の発達です。

“作者の死”

なんだかポピュラーカルチャーのお話に批評用語を入れるのはすごく恥ずかしいんですけど、そもそも “作者の死”とはフランスの哲学者・批評家のロラン・バルトの論文から提起された考えです。

かなり雑駁にまとめますと、「ある作品を正しく解釈しようとするのに、作者の意図を解読するのをその答えとするのは違うんじゃないか。作品の要素をすべて受け取り、多様な解釈を行う観客や読者こそが批評の本流じゃないか」という論文なんですね。作品は作品として独立している。だから “作者の死”と強い題名が付けられている。

論文が書かれたのは1968年のフランス。作者の意図を重視する批評は今でも根強いと思うんですが、これを否定するということは当時の文芸批評などがそこに集中しすぎていたのがあるのかもしれません。だからこそ「作品とは、それを解釈する読者に預けられる」という考えを打ち出したように思えます。

もちろんバルトの考えが発表当時の状況に対するラディカルなものなのもあるのか、やはり作者の意図を汲まない考えは無茶ではとか、読者が多様な読みをするといっても読者としてのモラルもあるだろうとか、ざっくりネットを眺めていても様々な議論が見当たります。

一作も自分たちの作品を描かなかった「サルまん2.0」

僕が見るに “作者の死”が正しいかどうかというより、時代ごとに環境が変わることで、作者そのものの受容も変動してしまうということが重要なように思います。

そこで『サルまん2.0』とは、2000年代以降の “作者の死”にまつわる環境変化に古い世代が直接ぶつかった物語として、かなり興味深いんですね。批評の問題というより、それ以前に作品が世の中に伝播し、観客が作品を受容する環境自体が “作者の死”に導いている。

初代『サルまん』は漫画産業のコマーシャルな環境に翻弄されながらも、まだ主人公のふたりは自分の作品をもがきながら作っていた。ところが『2.0』では一作たりともオリジナルの作品を作らないんです。

各話のテーマが全部、オリジナル作品から派生した2次利用の話しかない。初回は自分たちの代表作の新作を、他の作家に描いてもらうリバイバルもの。その後は同人誌の二次創作や、キャラクター版権を利用したメディアミックスビジネスの話が続く。

いずれも元の作者の意図が関係しないところで、読者や企業が元の作品を使って新しい消費を作っているものですよね。

サルまん2.0』企画当時の竹熊さんは、そんな作者の外部を取り巻くコンテンツ消費環境がまるで不気味な巨大な蟻塚が構築されているみたいに出来上がっていたことに注目したんだと思います。「物語はなくても成立するキャラが金を稼ぐ」とか、「そもそも漫画誌もアニメ化などのメディアミックスによって原作漫画の売り上げを増やして存命している」とか “作者の死”の環境の話をずっとしてるんですよ。

しかし作者がオリジナル漫画をまったく作らないという漫画家漫画なんて可能なのか? もちろん破綻をきたします。竹熊さんや編集部はメディアミックス環境をパロディにした漫画に収めるのではなく、連載と並行して本当にメディアミックス戦略でアニメ化や商品化をやろうと計画。しかし、漫画で収めたい相原コージさんは、そんな竹熊さんの方針に賛同できません。

これが『2.0』の連載終了の背景なのですが、僕があえておふたりの「作者の意図、背景」を無視して自分の解釈を書きますと、『2.0』は漫画家がコンテンツ消費環境の中で作家としての意味を見失っていく物語そのものとして読めると思います。

作中でもある程度は言及されていますが、作家の実際の死後も、残した優秀なコンテンツは企業が利用することで収益に変えたりする。いや、存命時であったとしても、作家が直接は関与しきれていない(だろう)コンテンツビジネスによって、自分の意志と無関係に作品が展開されてゆく。

鳥山明さんも、さくらももこさんも逝去されましたが、『ドラゴンボール』も『ちびまる子ちゃん』もコンテンツは継続している。作者は新作コンテンツに関与もしてますが、とはいえどこまで “作者の意図”が担保されていると言えるのでしょうか。

『2.0』のラストでは『新世紀エヴァンゲリオン』TV版最終回のパロディで「なぜ連載が失敗したのか」を自己言及します。ギャグの切れの悪さも重なって本当にいたたまれない終わりなのですが、最後の言葉は僕の視点からはもっとも示唆に富むものでした。

自問自答のなか、主人公のふたりが連載中に遭遇した事故によって「俺たちはもう死んでるんじゃないか……?」とつぶやきます。エヴァのパロディをなんとか着地させるために、自虐的な発言で投げやりに終わらせるのですが、僕にはもはやビジネス上で “作者”の存在が疎外されていく環境下ゆえの行く末のようで、その一言に泣きそうになるんですね。実際、相原さんは竹熊さんのメディアミックス路線に嫌がっていたわけですから。

そんな『2.0』のアニメ化は初代『サルまん』も含めて『グリッドマン』で気を吐いたトリガーの雨宮哲さんにやってほしいです。ラストを変えるとしたらそうですね……スタートアップ企業のよくわからない人が、困窮主人公ふたりの存在自体をキャラクター版権として買い取ろうとする。生きるために自分の存在自体を版権として売り渡してしまったが、いよいよもって作家としての自分の存在意義を喪失した主人公ふたりは “作家の死”を肌身で感じることになり……みたいな話で。

観たアニメは忘れましょう。でも培った技術とモードはそのままに、次回にお会いしましょう。

サルまん 2.0

サルでも描けるまんが教室 サルまん 21世紀愛蔵版 上 (IKKI COMIX)