動きを捉える連作~リアリズムを超えた現実性と認識形態の伝達としてのクロード・モネ~ (original) (raw)

この度わたしは、上野の国立西洋美術館で開催中の

「モネ~睡蓮のとき~」展に行ってきた。

そこで、ただ惰性で見て回っている大勢の日本人観覧客とは異なる気づきがあったと思うので、ぜひ新たな視点を獲得してから見てほしいという思いから、文章に直す。

一方で、このような見方の習得が身についていることは、新たな変数や視線の獲得をできるようになったことで、哲学人としては成長であると思う。

メルロ=ポンティは、絵画論においても身体性を重視しました。彼は、セザンヌやモネなどの画家たちが、視覚経験の客観的な再現ではなく、身体的な運動感覚を通して知覚される世界のリアリティを表現しようと試みたと解釈しました。

一般に印象派は、このメルロ=ポンティの議論などから、現象学に関係して論じられることが多い。或いは、ベルクソン的に「持続」の概念で説明されている情報もみる。つまり、彼らの作戦としては、ほぼ同時代の哲学と接続させて面白く論じようというものである。これは一面的な正しさがあり、時代性や技術により前景化した変数を反映した相関関係はあるだろうが、それだけで論じてしまえばそこまでで止まってしまう。大切なのは、実際に見て、いかなる良き視点を自ら獲得するかである。いわば、良き視点と論じ方を教わる段階が「教養の獲得」であるとすれば、わたしの基本姿勢は「教養の獲得方法の獲得のしかたを身に着ける」というものである。

さて、わたしが見ていてすぐに気づいたのは、一般の観覧客が見ているような見方で、絵の前に立ってじっくりと見たときの、あまりの絵の醜さである。或いは、色彩分割での水面の描き方などが露骨に目に入り、技法を学ぶぶんにはいいが、鑑賞するしかたではないと思った。そこで、ふと遠くの絵を見ると、とても美しいことに気づく。しかも、角度が付いたものが。

そこで、わたしは角度をつけて様々な遠さと角度で見て回ったが、モネの絵の特質として、画面左側から進んでくるようなときに見える際の絵が、影の調子からはっきりとした立体感もあって、最も美しいことがわかった。この際、もはやリアリズムや写実主義、例えで分かりやすく言えばサイゼリヤの絵とは異なり、現実以上に現実性を伝達しているのである。或いはそれは人間が内官において獲得している現実性を、確かに斜めに伝達している。

モネには、「なぜ連作が多いのか?」と問われることも多く、そこで「持続」の概念などが持ち出されるのであるが、実際には、もっとよくわかる話ができる。すなわち、それは彼が日本の「睡蓮」をもそうした描き方をしたことからわかるのだが、右回りに進んできたところ、左側から見るのは進行方向に順向しているので、恐らく連作を回遊式の立体映像として見せたかったものだと思われる。実際のところ見てきた感じの当て推量でしかないが、確かに彼は日本の庭園で「睡蓮」を描いていることで、彼の作品は歩き回りながら、すなわち「こちらが動き、あちらが角度の遷移によって動く」、すなわちまさに、「止まった位置から止まったものを見る」のではなく、「動きが動きを見る」ということの実現にあったのではないか。しかも、それが少なくとも絵画、或いはもはや「動画」に近いが、その絵画において、現在の動画以上の強度をもって達成されている。というのは、「動画」は観照者が止まった位置から見ているが、モネの絵画は、わたしの推量が正しければ、或いは本人が意図していなくても、「動いている者が動いている者を捉える」ということを実現してしまっている。実は、かなりの仕事を達成したのではないかと感じられる。

そこで哲学が抽出すべきは、動きが動きを捉える際の、つまり、日常普通に行われるべき認識の、その技法である。そこでわたしは「影」に着目する。角度によって見え姿が変わるとき、そこには「陰影」の変化が知覚されているはずである。だから、相手のその時の影を捉えることで、次の局面での相手の影の変化と相手自身の動きの変化を捉え、その動きの変化形態を取得することが可能となる。そして、その際には、あの伝統的な「啓示の光」や「自然の光」とは異なり、わたし自身が相手に対して光を投げかけているのである。これは例えば、常にブルーライトに晒され続けるが自らは光を発しない使い方に生きていてはできないことである。そうした媒体でも、自ら光を投げかけていくことで、新しい活用は可能となるのであるが、そうした人は見る限り少ない。

こうしたことが、今回の気づきである。新たな視点の獲得を超えて、新たな視点の獲得のしかたが伝達できていれば幸いである。