私たちはいかに屁を語るか~屁学的考察~ (original) (raw)

屁は、わたしたちの内なのか外なのか。部屋(一部の俗説では、「へや」とは、「屁」をこくために作られた「家」であるという説もある)で口をぽかんと開けて肛門から屁をこくとき、まさにその瞬間屁はわたしたちの内にあるのか、外にあるのか。

少なくとも、わたしたちにとって「気」が「存在者」に含まれるならば、わたしたちはその音と匂いによって「屁」を「存在者」と見做している。したがって、例えば台風が存在者ならば、屁もまた存在者である。

では、「屁」のような存在者、すなわち「屁存在」とはどのような者のことか。一般に、人前で屁をこくことは恥辱であり、そのための観念から過敏性腸症候群になってしまう若者も後を絶たない。ゆえに、屁は社会的に蔑まれるものの象徴である。そして、屁は音と匂いにより、その存在を周囲に明らかに誇示する。ということは、屁はたんなる侮蔑の対象ではなく、侮蔑の対象であることを自己主張するような者である。こうした集団や個人は、知るかぎりかなり多い。これからは彼らのことを「屁存在」と規定してもよいように思う。だから、「屁」はたんにどうでもよいものの象徴としての存在者ではないのである。

ところでマインドフルネスのモードを獲得するとよくわかることだが、意識される現象は、明確な文法やイメージに沿っているというよりは、まさに屁のように内面に漂い、屁のように霧散していく。意識が活動の副産物や規範性のまなざしと欲求との落差の只中に生じるとすれば、意識とは欲求の出す屁である。しかもそれは自己主張的なはたらきなので、他者や規範性に対して欲求が挑発的に尻を突き出して発射するような屁である。そうであるならば、意識を丁重に扱って生きている人の経験は、例えるならば屁を袋詰めにしてコレクションしている人のようなものである。そして、事あるごとに、自己に対峙してきた他者にその袋を取り出して屁を嗅がせているのである。それが、一般に「主張」と呼ばれているものの内実であることが少なくない。

屁に注意を向けないことが、わたしたちのより豊かな精神に繋がるのである。