おきく's第3波フェミニズム (original) (raw)

映画評「ROMA/ローマ」【ネタバレ注意】:ポストフェミニズムと過去の運動と

最近はあまり映画を観に行けてませんが、そんななかたまたま「ROMA/ローマ」を観に行きました。1970年代のメキシコが舞台の映画で、アカデミー賞で3部門受賞したようです。

ほとんど前知識なく観たのですが、なんとポストフェミニズムの特徴が色濃く映し出されていて、観た後もやもやしました。Wikipediaには「フェミニズム映画」と書かれています。

医者の家庭で住み込みのメイドとして働くクレオが主人公です。クレオは田舎から出てきたようですが出身についてはあまり詳しく描かれません。クレオとその雇い主の家族、夫婦と子ども4人、夫婦(たぶん妻の方)の母親、および同じメイドの女性との日常が綴られます。背景には当時のメキシコの政治的不安定、多発する抗議行動、デモ等の不穏な街の様子がしばしば出てきます。

どういう映画なのかよくわからないまま進みますが、だんだんと、主人公が付き合った男性に妊娠を告げると逃げられ、追いかけたら乱暴に突き放されることとなり、どうにも哀れな状況となります。それに追いかぶせるように、雇い主の女性ソフィアは、医者の夫との関係がうまくいかなくなり、なんと夫は若い愛人と旅行に行き家に帰って来なくなります。映画は、この二人の女性、クレオとソフィアをクローズアップし、女性の苦悩、悲しみを観客に伝えたいかのようです。そんななか、酔っ払って車をガレージにバンバンぶつけながら帰ったソフィアがクレオに言うセリフ、「女はいつも孤独なのよ」はトドメを刺します。

ソフィアに協力され、クレオは出産の準備をしますが、買い物に行った街中で、学生のデモ行動が乱闘を生み、クレオのお腹の子の父親が銃をもち何者かを射殺する場面に遭遇してしまいます。破水したクレオは渋滞の中病院にたどり着きますが、医者たちの必死のかいもなく、子どもは息をしませんでした。

その後、傷心のクレオはソフィアに誘われて旅に出ますが、最後、海で溺れかけた子どもたちを救出し、みなで泣き合う中、「子どもに生まれて欲しくなかった」と語ります。そんなクレオをソフィアと子ども達は抱きしめ、元気になったクレオは(ソフィアの)家に戻ります。

この映画がフェミニズム映画とされるゆえんは、ともに男性に苦しめられた女性ふたりが、助け合って仕事によって自立しようとするところでしょう。おそらく貧困地域出身のクレオは、妊娠によって職を失うかと怯えましたが、ソフィアは温かく見守りました。傷ついたクレオを癒したのは雇い主とその子どもたちでした。またソフィアは夫と離婚して収入を失うと、「雑誌社の正社員として働きに出る」と子どもたちに宣言します。ソフィアは実は生化学者でもあることがこのとき分かります。かなりの社会的地位の高い女性です。

ここだけ見ると、確かにフェミニズム映画です。男はほんとひどいよね、女性同士の連帯を描いていて良いのかなとわたしも一瞬思いかけました。ですが、クレオとソフィアの関係は、本当に「連帯」とみなせるのでしょうか。ソフィアがいかに知性と優しさがあってクレオも彼女を信頼していようと、ふたりは雇い雇われている関係性です。当時土地問題で揺れていたメキシコで、クレオの親の土地も奪われたことが知らされ、クレオはとても家に帰れないと友人に告げています。クレオにとってメイドの仕事は必死で守らなければならない生存手段でしょう。ソフィアが優しければ優しいほど、決して逃してはいけない職となります。そんな二人の関係性を、「フェミニズム」として手放しで称揚できるのでしょうか。

映画では、ソフィアがクレオを頭ごなしに叱りつけるシーンも見せていて、単純に二人の関係を美化しているわけではありません。そういう意味では、観る側の解釈が試されているとも言えます。

わたしがこのように疑問を持つのは、この映画を「フェミニズム」として評価することで、失われる視点があるからです。それはまさにフェミニズムの視点だからです。90年代以降、グローバル化のなかで貧困国の女性が海外に出稼ぎに行き、先進国の家庭でメイドとして働くことが恒常化しました。クレオが20〜30年後に生まれていたら、おそらくアメリカに出稼ぎに行き、そこでメイドとして働いていることでしょう。移民とジェンダー研究は、この外国籍メイドの女性たちの視点から、グローバル化を問いただしてきました。彼女たちが祖国にいる家族とも会えず、先進国の出稼ぎ先家庭で寂しい思いをしている一方で、彼女たちを雇った女性たちはキャリアを追求するのです、ソフィアのように。この2層の女性たちの関係性は、対等なのでしょうか?

さらに、女性を苦しめるものとして位置付けられているのは、クレオの元彼氏、ソフィアの元夫など個々の男性だけではありません。クレオの元彼氏は、反政府軍として活動していることが示唆されています。彼はなぜか日本式の武術を習い、刀を振り回します。1970年代は世界的に社会運動が高揚していた時代です。メキシコですので、学生や労働者だけでなく、先住民の運動も激しかったでしょう。元彼氏はこれらの運動の一端に位置付けられます。

しかし、この映画では、街の抗議行動がどのような内容なのか詳しくは語られないまま、暴力的な場面のみ取り上げられ、しかもそれはクレオの出産の妨害をしたように見えるのです。この映画において当時の社会運動は男性的な暴力と一体のものとされ、否定的な意味づけを与えられています。

それに対して印象的なのが、一人で生きると決意したソフィア、そしてそれを支えるクレオという女性たちの「頑張り」です。そこには子どもたちも連なります。

わたしは当時の運動一般を全肯定したいわけではありません。多くの場合、この時代の社会運動は男性が中心でした。そしてそれを変えようとした女性たちがフェミニズムを生み出したのです。これは日本ではリブ運動であり、当時世界的にそれぞれの国で地域で起きたことです。ですから、クレオを捨てて、何らかの運動体に従事していった元彼氏は、それらの運動の男性中心性を象徴しています。

だからと言って、簡単に社会運動全般を否定できるのでしょうか。運動はそれぞれの歴史において文脈において評価されるべきです。ですが、現在、社会運動全般が「終わったもの」として、「無駄なもの」として見なされる風潮があります。私が恐れるのは、過去の運動全体が、男性中心的なものとして否定され、それに対して女性の「頑張り」が対置される構図をこの映画が許していないか、ということです。

このような構図は実はポストフェミニズムの特徴として英米のフェミニズム研究でよく指摘されています。私が思い出したのは2017年日本公開の「ドリーム」でした。60年代、NASAの宇宙開発を支えた黒人女性科学者を取り上げた伝記映画です。こちらもアカデミー賞ノミネート。ここでも、当時の黒人解放運動に邁進する黒人男性に距離をおくくだりが一瞬描かれていました。

このような映画が評価されるのは、アメリカのハリウッド映画界の気分として、女性差別/移民差別的な大統領へのアンチテーゼも影響しているでしょう。

映画の前半から後半にかけて、クレオも他の登場人物も顔をアップにされることは少ないのですが、ラスト近くでクレオとソフィアの表情がまざまざと映されることが出てきます。この手法も意味深ですね。

最後に、簡単に言えば、女性の活躍が讃えられる裏側では、知らない間に過去の運動が否定されていくのです。このポストフェミニズム的特徴は個々の作品によって多様なバージョンがあります。

女性の自立は当然ながら必要なことですが、それが語られる際のポリティクスにも注目しないと、とんでもないところに連れて行かれるかもしれません。

ファン申請