おきく's第3波フェミニズム (original) (raw)

『やまゆり園事件』を読んで

神奈川新聞取材班『やまゆり園』(幻冬舎)を読んだ。この事件に関してとりあえず読みやすそうなものからということで手に取っただけだったが、思ったより良い本だった。

ただ最初の、犯行を具体的に説明している部分は痛々しくとても辛かった。数日落ち込んだので、不安のある人はそこは読まないほうがいいかもしれない。次に、加害者植松の生い立ちや知人友人の発言が取り上げられる。印象的だったのは、植松の思想的背景とでもいうか(あれをいわゆる「思想」と言ってはいけないが)、影響を受けたものとして、トランプがあったということ。「移民を排斥するトランプだったら自分のことを認めてくれる、評価してくれるはず」と思い込んでいたらしい。トランプは障害者差別に関してはとくに報道されていないが、植松はそのように考えた。

一方、障害者差別というとナチズムの優生思想がよく取り上げられるわけだが、植松はナチスについてはそれほど知らなかったようだ。ここは重要な点だと思う。一般に、「障害者差別=優生思想=ナチス」というイメージがあるわけだがそれは必ずしも万能ではないということだ。「優生思想」という言葉は難しく、素人が聞くと遠い問題に見えてしまう。だがそうではなく、過去だけではなく現在にこそ障害者差別、障害者ヘイトが渦巻いていると考えなくてはいけない。

ヘイトクライムというと地位や収入、学歴がなく孤立して人間関係のない人物を想像してしまうわけだけど、植松はそうではなく、友人知人も、恋人もある程度いて、既に以前からこのヘイトクライムについて予告を繰り返していたということは重くみなければいけない。しかも、事件の数ヶ月前には措置入院されていた。犯行を予告する手紙を衆院議長に届けたため、危険視されて相模原市から緊急措置入院されている。しかし、入院中もその主張に対して病院側から特に明確な反対はなかったと捉えていて、自分の主張の正当性の確信を深めたという。

彼の生い立ち全般を読んでいて感じるのは、外部の影響を受けやすい人物ということだ。ゲームやアニメの影響で犯行を構成し、トランプの言動に心酔し、園に就職後も最初は明るく抱負を述べているが、すぐに考えを変えている。イラスト、漫画など彼の描いた作品も、「社会の裏表を暴く」ような趣旨のものが多いが、その「裏表」の認識も浅く表面的である。というのは彼の主張とは、「世間は差別はダメと言っているけどそれは建前で、実際には皆、意思疎通のできない障害者は死んでもいいと思っている」というものだが、確かに世の中には裏表はいっぱいあるけれども、裏表は多種多様だ。必ずしも偏見と差別だけでこの社会ができあがっているわけでもない。差別と偏見はあるけれども、それを乗り越えようという試みも豊富に、無数にある。この社会はその矛盾の中にある。植松はそこの複雑さと苦しみを見ようとせず、単純化し、そこに自分の存在を賭けようとしたように見える。

彼の父親は教員だったようだが、教員の中には規範が強く一方的・指示的なタイプがいる。彼の父がどうだったかはほとんど情報がなくわからないのだが、父親への反発があったのだろうか。

彼のもう一つの特徴は、総理や政治家に認められたいという思いがあったことだ。誰しもそれぞれに、誰かに認められたいと思うわけだけれど、それを誰に想定するかというところで違いがあり、そのひとの個性や特徴が出る。やはり自分の尊敬している人に認められたいと思うわけで、それが植松の場合首相や米大統領だった。それはおそらく、現在政治的トップだからというのに加えて、当時のトランプや安倍は自身と共通する主張や価値観をもっているものと彼には思えたからだろう。そういう意味でも、政府はこの事件に対して責任があるし、ともかく明確により強く、2度とこのような事件が起きないようリーダーシップを発揮するべきなのだけれどもしていない。植松のようなタイプの人々は、とにかく「上に従う」というところがあるから、責任ある立場からこの事件、この問題について積極的にメッセージを発信しなければいけない。だが逆に、そのような差別的な主張を発信する政治家が人気を得る時代に今はある。

この事件は「生産性を優先する社会」に一因があったといわれる。「生産性」というのは内容のない言葉で、イメージで使われている。「効率性」や「経済成長」などと同じ意味合いがあるが、「生産性」が言われる中で同時にブルシット・ジョブのように意味のない書類作りが増えていることは真剣に考えられたりはしない。

本書の後半は、植松の主張に対抗するという意味も込めて、障害者の生活の実態や支援の様子についてリポートされている。記者がじっさいに障害者の生活や通学に触れて戸惑いながらもその意義を実感してく様子が窺える。新聞記者というものは大概エリートなので、障害者の暮らしに触れることは少ないだろう。そんなエリートの彼女彼らが考えを変えていく様子は興味深い。

わたしにも障害のある家族がいるが、福祉はとにかく薄い。だから親がいる場合は、とてつもない苦労をして生活している。それを植松は「家族が大変だから心失者(彼の造語)はいない方がいい」と導く。どうして彼がそんな判断を下せるのか、その根拠は全くないにも関わらず。当然そうではなく、誰しも生きる権利は持っているのであり、社会はそれを支える義務がある。同時に、その支える作業は、支える側にとっても大きな喜びとなり得る。

植松の論理は、金儲けや地位・キャリアのアップが人間の喜びであり価値であるとするものだ。そういう人もいる。そういうときもある。だが、それは一過性のものであり、単純な欲求の充足に過ぎない。本当の意味で人の生を充実させ、満足を得させるのは、人と人の関わりだと私は思う。自己の枠に囚われている人間だからこそ、誰かと通じ合った、触れ合ったと思える瞬間が喜びとなりその人を生かしていく。それは言葉によるコミュニケーションにとどまらず、動物や植物との関わりも含まれる。なんでもいい。そういう一瞬の喜びを尊重する社会にするために、能力の優劣に関わらず、誰もが安心して暮らせる制度設計をしなければいけない。

しかし、本書後半で障害者の教育が制限されている現状が問題提起されていてそれはもちろん大問題なんだけれども、同時に、健常者たちは成績によって輪切りにされ、もっともっとと点数を上げる教育ばかり受けさせられているこの日本、マジョリティの側をも同時に問うていかないとどうにもならないなあと、問題の大きさに途方も無い感じを持つ。

それから最後に一つ。本書の帯に植松の顔写真が載せられているのだけれどこれはどうなのだろう。私はみて正直、なんとも言えない不快感をもらった。これは必要だったのだろうか。

by anti-phallus | 2023-11-21 13:54

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