地方病教育推進研究会ブログ (original) (raw)

地方病教育推進研究会事務局です。(ブログ第94号)

今回のブログは、10月2日(水)午後7時30分から開催された昭和町立押原小学校での親子学習会の様子を報告いたします。

この学習会は、押原小学校、紙漉阿原区、押原小学校地域協働本部が主催するものです。平日の夜での開催ということで参加者はいるだろうかと主催者は心配しました。しかし同小の親子また社会科を研究している同校教員、そして紙漉阿原区育成会の役員の皆さんが出席されました。嬉しいことに筆者の教え子3人も参加してくれました(講演が終わった後知りました)。

この3人は、50歳代前の女性達です。わたしにとって同校で担任をした卒業生達です。

〈講演内容の要旨〉

・地方病制圧の歴史は、山梨県・日本の歴史的な偉業である。しかしその歴史は風化しつつあるのが現状です。

・地方病の病状や日本住血吸虫ライフサイクルの説明をしました。

・流行終息宣言に至るまでの経過を先人の活躍を中心にエピソードを交えて説明しました。

杉山なか 吉岡順作 三神三朗 桂田富士郎 宮入慶之助 杉浦健造・三郎親子

林正高

・日本住血吸虫やミヤイリガイの実物を提示しました。

・同症に今でも苦し死んでいる多くの人々が世界にはいることを紹介しました。

・次の世代に伝える努力が大切であることを強調しました。

小学3年生から大人の方々までを対象とした説明は、大変難しいと感じていました。しかし、わたしの話に頷く方や最後まで真剣にメモを取る子ども達の姿に少し安心しました。

官民一体でなしえた地方病制圧の歴史は、まさに名もなき人々の奮闘の歴史です。このことを訴えこの夜の講演を終えました。

筆者は、地方病制圧の歴史を次の世代に伝えることをライフワークにしています。そのために日々新しい資料を求めそして整理をしています。本ブログでその一部をこれからも紹介していきたいと考えています。

学習会やいろいろな講座にも喜んで出席します。お気軽に「地方病教育推進研究会」事務局に問い合わせをして下さい(「昭和町風土伝承館 杉浦醫院」でも大丈夫です)。

次回は杉浦健造についての続きです。

地方病教育推進研究会

事務局長

地方病教育推進研究会事務局です。(ブログ第93号)

今日は9月28日、甲府盆地は朝からどんよりとした雲に覆わています。朝晩は本当に涼しくなりました。

写真は、現在の杉浦醫院(筆者撮影)

今回ブログのタイトル「地方病研究者」③です。ブログ第91号の続きです。

健造が開業した昭和町西条新田の地は、まさに地方病流行地のど真ん中でした。水腫脹満に苦しんでいた病人が多かったのですが、代々続いた医業を営んでいた杉浦家もこの奇病に対してはその病原も治療法も全くわかりませんでした。

彼は、開業すると当時として東京で学んだ最新知識を用い、綿密な観察を通して地方病研究に取り組みました。まさに若い情熱を研究に注ぎこんだのです。眼の前にいる患者を治したいとの強い思いからでした。

彼は、「医は仁術である」との信念をもって多くの患者に接しました。また温情をもって診察に当たる姿は、自分の家族に対するのと全く同じでした。さらに貧しい患者からは、医療費を一切請求しなかったばかりか、密かに奥の間に呼び入れて栄養価の高い食べ物を与え心から慰め、家族へも力づけることを忘れなかったそうです。ですから診療所の邸内はいつも朝から患者で溢れていました。

治療とともに研究にも懸命に取り組みました。その一つの例が田の岡村高砂(現在の南アルプス市八田村)の医師小沢鹿十郎との10年間に渡る共同研究でした(ブログ第90号で簡単に紹介)。これは10年に及ぶ臨床の所見を整理してまとめたものです。

次号にその研究論文を紹介します。

今回のブログは『郷土史にかがやく人々』、『地方病とのたたかい 2003』を参考にまとめました。

地方病教育推進研究会

事務局長

地方病教育推進研究会事務局です。(ブログ第92号)

今年の残暑はまさに異常な暑さです。お彼岸に入りもう夏の暑さから解放されると期待していたんですが、甲府盆地の今日の予想最高気温はなんと38度です。

今年の2月NNS日本ネットワークサービスが制作した「今、伝え残したいこと〜地方病の歴史を未来へ〜」が、第44回{地方の時代 映像祭」のケーブルテレビ部門で入賞しました。11月関西大学で開催される各賞の発表会に制作者が参加する旨連絡が担当者からありました。

この作品は、30分番組で甲府市笛吹市北杜市市川三郷町そして身延町などを放送エリアであるNNS日本ネットワークサービスが1年にわたり主に事務局長の活動を追ったドキュメント番組です。

この映画祭のサブテーマは「小さな民が歴史をつくる」です。ケーブルテレビ部門には58作品がエントリーし9作品が入賞しました。本作品はその中の1つです。

風化しつつある地方病を次世代に伝える本研究会の活動に賛同し、今回の取材となりました。制作担当の秋山氏に対し感謝と敬意を表するともに祝意をお伝えしたいと思います。

同番組に対する問い合わせ先は次のとおりです。

日本ネットワークサービス 制作局制作部 TEL 055−251−7114

写真は、雲間から見えたお月様です。朗報を受けて思わず写真を撮りました。

地方病教育推進研究会

事務局長

地方病教育推進研究会事務局です。(ブログ第91号)

残暑が厳しい日々が続いています。甲府盆地の今日の予想最高気温は35度。9月の中旬となっても猛暑日が続いています。

杉浦健造の生い立ちを説明をします。

杉浦家の家系を遡ると初代覚堂、2代覚堂、吉道、要人、道輔(青韻)、大輔、嘉七郎、健造、そして三郎と続きました。杉浦家は、ずっと昭和町西条地区で医業を営んでいました。

健造は、1866(慶応2)年西条村(現在の山梨県中巨摩郡昭和町)に、杉浦家当主・大輔の次男として生まれました。大地主だった杉浦家は江戸時代初期から代々漢方医を営んでいました。

尋常小学校を卒業後、甲府城内にあった徽典館(現在の甲府第一高校)に学んだ後、後に伊藤博文の侍医となった小沢良斉師の門に入り医学を学びました。健造は西洋医学を志したのです。1889(明治22)年、医業開業免許を得ると、生家に戻って杉浦醫院を開業しました。1891(明治24)年、25歳のことでした。

開業後、私財をなげうち「地方病」の原因解明と患者への治療活動を進めました。

次回も杉浦健造について書きます。

今回のブログは、『昭和町誌』、『地方病とのたたかい 1977』、山梨県広報誌『ふれあい』などを参考にまとめました。

地方病教育推進研究会

事務局長

地方病教育推進研究会事務局です。(ブログ第90号)

朝夕はめっきり涼しくなり秋らしくなってきました。皆様の地域ではいかがでしょうか。昨日山梨百名山の一つ足和田山に登りました。帰途富士五湖の一つである西湖に立ち寄り写真のような見事な富士山を見ることができました。(足和田山の山頂では見ることができませんでしたが)甲府盆地に比べ随分と涼しい風が吹いていました。

表題通り今回から杉浦健造について書いていきます。

山梨県には地方病と闘った市井の医師が多くいました。江戸時代の終わりごろから明治・大正・昭和とそれぞれの時代に活躍した医師達がいました。

その一人が杉浦健造です。

山梨県昭和町にある杉浦醫院は、8代も前から地方病の研究を続けていました。1891年(明治24年)この病気の中心地と言われた昭和町西条新田で父の後をついで医者になったのが杉浦健造でした。

健造は、「こんなに多くの人達が苦しんでいるこの病気の原因を絶対見つけて、一人でも多くの人を救わなくては」と決心し、日々患者の治療にあたりながら書物で研究を続けていました。しかし、この病気を治せず悩む毎日でした。その後八田村(現在の南アルプス人市)の小沢鹿十郎に会い、2人は10年かかって100人ほどの患者を研究し、雑誌にその成果を発表しました。これにより山梨県の地方病が全国に知れわたりました。

次回から杉浦健造の生い立ちを少々詳しく紹介します。

今回の文章は、塚原省三『郷土の風土病 地方病』(平成13年8月版)を参考にまとめました。

地方病教育推進研究会

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地方病教育推進研究会事務局です。(ブログ第89号)

ブログを投稿しようとすると、そのたび風水害の恐れがある報道を見聞きします。今日は台風10号が九州に接近しています。ずいぶん大きな台風のようです。被害が起きないことを祈るばかりです。

今回のブログは、8月20日行われた「障害福祉サービス事業所ーみらいファーム」の研修会の報告です。「みらいファーム」は生活介護事業及び就労継続支援事業B型を運営しています。今回縁があって研修会の講師に呼ばれ発表する機会を得ました。

この日の研修会は事業所の利用さんと支援者に対して行ったものです。「今、伝え残しいこと〜地方病の歴史から学ぶこと〜」をテーマに講演しました。約1時間にわたり原因不明の奇病である地方病に対して、病気原因究明期、治療・予防期そして対策とミヤイリガイや日本住血吸虫そしてバーナーなど本物を見せながらプレゼンテーションソフトを使い説明しました。

(写真はみらいファームの全景)

午後の時間で少々難しい内容になりかけましたが、皆さん最後まで真剣に聞いていました。「感染症に罹らないためにはどんな注意が必要ですか」との質問もありました。最後に代表の二人の方から感謝の言葉とみらいファームで生産されたお米と野菜をいただきました。

今回の研修会は、自分にとっても準備の段階からとても勉強になりました。そしていくつかの課題も明らかになりました。次回に活かしていきたいと考えています。

終了後、高校時代まで住んでいた地域の女性から声をかけられ、とても幸せな気持ちになり帰途につきました。

地方病教育推進研究会

事務局長

地方病教育推進研究会事務局です。(ブログ第88号)

8月も下旬となり、今夜は笛吹市の夏祭りの掉尾を飾る第60回石和温泉花火大会が笛吹市役所前笛吹川河川敷で開催されます。今年の花火大会は、市制施行20周年記念の意義を込め約10,000発の花火の打ち上げが予定されています。久しぶりに見学に行くので写真を撮り、Facebookに投稿したいと思っています。

表題にあるように杉山なかの主治医吉岡順作について、前号に引き続き記載を続けます。

死体献体は現代においても本人や家族にとってもなかなか受け入れることは難しいことです。いまから130年近く前に「杉山なか」は献体を申し出て実現しています。

後年「なかの献体」を讃える紀徳碑が杉山家の菩提寺である盛岩寺の境内に建てられました。碑文は漢文で書かれています。別の機会に紹介したいと思っています。

順作は碑の建立にも奔走します。そして明治45年(1912)の碑は完成しました。

献体解剖後、順作は医師としての医療活動を続けながら病原体究明のために実験を行っています。

「研究熱心で凝り性でしたから、川に住むいろんな動物、ホタルや巻貝などをガラスの容器に飼って、時々顕微鏡で覗いていました。離れでしたが、その研究室に行くと危ないと怒鳴られたものです。ご飯が済むとすぐに研究にとりかかりました。それが重なって倒れたものだと思います」

これは、順作の三女ひさ次さんの言葉です。研究中途で重い胃潰瘍に罹り床に伏してしまいました。彼はどのような思いで病床で時を過ごしたのでしょうか。

順作は、山梨県医師会長に就任します。また明治から昭和にかけて甲府市内を中心に 甲運小学校や琢美小学校などいくつかの学校で校医としても活動をしています。

写真は晩年の吉岡順作

順作は体育教育にも力を注ぎ、著書『躰育百話』は当時の文部省から高く評価されました。

80歳の高齢となり、山梨にある土地建物を一切処分し、東京都杉並区の長男のもとへ転居します。そして昭和19年(1944)9月3日医療と地方病研究そして保健衛生に尽力した80年の生涯を終えました。

吉岡順作は地方病と闘った人の一人です。彼の生き方から多くのことを学ぶことができます。

本稿は『郷土史にかがやく人びと』(1997)『地方病とのたたかい』(2003)をなどを参考に編集しました。

地方病教育推進研究会

事務局長