郷土歴史覚書之扣 (original) (raw)

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平成25年頃の開運殿

旧赤門の由来

「赤門」と言うのは、現在龍王殿へ通づる門の事で、所謂通用門である。現在の開運殿がそれである。

しかし、この赤門という名称は今の人は余り知らないと思う。

通用門の名称は、昭和三十五の善宝寺本堂再建以前の名称で、本堂再建と同時に赤門も伸和建設によって再建されている。

再建以降は「中門」と呼ばれていた。

この赤門については、全然善宝寺関係の本には載せられておらず、本堂信徒会館建設時の記念本に少し詳しく載せられている。

赤門の歴史は古い。少なくとも今から二百数十年前の江戸中期の善宝寺絵図に描かれている。天保の山崩れの再建以降のものと考えられる。
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次に明治期の絵図でも確認出来る。
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旧赤門の構造としては、格子窓が両側にあり壁は板張りである。扉は表も龍宮殿側の裏も引き戸であった。屋根は本堂と同様に茅葺屋根となっていた。内部は正面から見て、右側が本堂左側が霊牌堂(旧位牌堂)でどちらも階段が付いていて、そこから出入りが出来た。引き扉の幅で石敷になっていてこれが通路になる。又本堂と旧赤門と霊牌堂は地続きになっている。これは平成28年の通路改修工事迄は同じだった。

旧赤門(中門)の構造は解体時調査の図面でも確認出来るし、大正期の絵葉書でも確認出来るし、上図の平成25年頃の写真でも確認出来る。

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f:id:tkdama:20241009072951j:image大正期の絵葉書を拡大したもの。

何故、赤門と呼ばれていたかは資料にも無いので分からないが、推測ではあるが、天明六年の有栖川宮家の祈願所と為った事と、関係があるのでわないかど思われる。それは善宝寺守護神たる龍神様の威光が、彌栄にも高まったことにより、元々あった通用門を赤門と称したのかもしれない。

又、通用門自体赤く塗られていたから、赤門と云ったのかは謎である。

資料を見直して調べる必要もあると思う。

元の旧赤門は昭和三十五年の本堂・庫裏再建と同時に解体され新しなく建て直され、構造は同じく再建されたが、屋根は銅板葺に葺き替えられる。

平成二十八年の龍王殿初開帳の時に、四十二世五十嵐卓三方丈様(現東堂)が足腰の不自由な方でも参拝出来るようにと、地続きの土を削り、通路改修工事を行い、現在の中門の石敷を引き扉分だけ掘り下げて、門内に橋を掛ける形で改修した。
f:id:tkdama:20241009125748j:image現在の開運殿(中門)

次回は現本堂の再建について話そうと思います。😊

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現在の善宝寺本堂(感應殿)は昭和三十四年己亥(1958)に起工して、翌三十五年庚子(1960)一月元旦に竣工、開堂落慶式を厳修している。

又、今の庫裏・信徒会館も此時に落慶している。

ここで今回は、現在の本堂再建に至る経緯と旧本堂(法堂)についてスポットを当てていこうと思います。

No.1は、旧本堂の概要と天保の山崩れによる再建について話そうと思います。

「旧本堂の概要」

旧本堂は二十世中興霊感應傳大和尚在職十五年間(享保八年から元文三年)の建築です。

旧本堂は茅葺で屋根の反りなど見事で、美しい物だったと云われていた。
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棟梁は、江戸後期から明治期までは名工である大岩川の剱持嘉右衛門藤吉が有名であるが、それ以前は膝元下川村の本間勘蔵家が代々御抱棟梁であったと云われているから、旧本堂も本間勘蔵の手による物だったと推測される。

佇まいも禅寺らしく、正面二間左に寄って玄関があり、それから前庭の石敷は中段の石敷に下り、直角に曲がって八十三段の長い石階段になっていた。(今は96段の階段だが、当時は83段だった)

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天保の山崩れ

元録所として壮麗な旧本堂だったが、時に天保八年十二月五日夜、地鳴りと共に龍王殿(当時は龍宮殿)背後より山崩れが起きた。大令方丈・衆僧は大いに驚いて早鐘を鳴らして門前に知らせたのである。門前の村人は我先にと駆け付けたが、皆暗闇の中光景をみて愕然としたと伝えられている。(天保の山崩れには伝説があって別に書きたいと思う)

補足、山崩れは26世大雲祥嶽大和尚の代(寛政元年)にも起こっていて、その時は楼門・坂ノ下裏門等が潰れたと云われている。

天保の山崩れでは、被害として龍宮殿は潰れ本堂に至っては東前方に押し出された形に成っていたという。翌日から修復工事が取り掛かられていたようで、棟梁は長四郎(本間勘蔵)が務めている。当時直ぐ近くにあった傳灯山正法寺三十五世蟠龍玄峯大和尚も見舞いとして駆け付けている。

この天保の山崩れの時の住職が、二十九世大令宗覚大和尚である。

大令方丈は修復費用として、末寺四十一カ寺に費用捻出を頼んでいて、資料によると最高額は鶴岡の龍蔵寺で金・十二両もの大金を献納している。

應傳大和尚の当時から内外の彫刻等が美しかったようだが、山崩れで相当の被害を受けて棟梁の長四郎はかなり苦心したようである。

昭和三十五年の本堂再建に伴う旧本堂解体調査で、軒先や内部天井など内外な相当な修復が加えられていることが分かった。

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そして棟梁長四郎を筆頭に再建工事が行われ工事完了は資料を見る限り、

天保四年癸巳の年のうちに再建した事になっている。

が、天保九年戊戌六月に再建寄付者・加茂村の秋野茂右衛門に対して「覺」の証文書が残っている。(原本写)
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天保四年と九年の隔たりがありすぎるし、六月十五上棟日となっているので、龍王殿再建本堂等再建には実際6年間はかかっていたものと考える。

又、慈照殿(旧位牌堂)内には龍王殿寄進者の供養牌が祀られている。

次回は旧赤門について紹介したいと思います。

前項に慧遠大和尚の事績を簡単に紹介しましたが、詳しく調べていくと同師の弟子に新たなる事が解ったので、此処に紹介したい。

生前慧遠大和尚には、嗣法者が系譜上良乘和尚(十九世)しか見当たらず、他の弟子はいないと思っていましたが、ある資料を見ていたら[善寶寺丿弟子]と書いてあるのを見かけ詳しく見てみると、師の名前に[弘道]と書いてありちょっと興奮気味になった次第w💦

その資料には總持寺の古文書目録の一つである「諡公文」の名簿でるとわかりました。

ここで諡公文とは、大本山總持寺には僧の各出世(一人前になるための資格、住職等今で言う瑞世の事)する為の証文・資格書が必要とされ、転僧公文・再公文・涅槃公文・首座公文輪番請状の五つの種類の公文があるとされている。

転僧公文は、現在の「瑞世」と同様、転衣取得のための公文であり、指摘のように特に問題はない。再公文は、すでに永平寺に出世してた僧が、五院輪住や新たな住職地の関係で、改めて出世をおこなった際の公文である。これは、『總持寺住山記』に散見される。首座公文は、別に「山居公文」とも呼ばれ、首座の段階での公文で別の名簿として残されている。輪番請状は、五院輪番にかかわる請状で、この名簿は五院輪住帳に準ずると考えらる。

f:id:tkdama:20240326105434j:image転僧公文(出世公文)の一例

注)「諡公文」とは、上記中の「涅槃公文」のことであるとされる。そこには、「涅槃公文は立職長老没後の和尚号であることはいふまでもない」とあり、立職した長老が没後に賜っていたことが窺われる。

その為名簿には[〇〇寺先住]とか[△△寺前住][〇〇寺何世]と記されている。

此の諡公文の名簿の表題は「諡公文住山記」としている。

世代は不明な点がある為、一人々番号で分けられあとは[名前・年号日付・派名・出身国名・保証寺・保証人]の順番で書いてある。

その中で善寳寺の項目がありそこには次のように記入されている。

番号[370] 名前[恵白] 年号日付[元禄14辛巳08,08] 派名[太源] 本人丿寺[善寶寺丿弟子無寺] 国名[出羽] 保証人[弘道] 保証寺[善宝寺] 国名[出羽] 冠[諡公文] 証文[証文] 備考[本国・保国、出羽庄内大山]

と此のように書いてある。

f:id:tkdama:20240326110014j:image諡公文の資料、上から4番目が恵白和尚

一様に考察すると、恵白は善宝寺の弟子即ち弘道慧遠大和尚の弟子ではなかったかと思う次第である。

曹洞宗系譜等にな載っていないが、慧遠の法を嗣ぐ前に示寂した為か?

師諱を覺仙、大等と号す。

生年月日、生国共に不詳

師は初め温海菅野代寶傳寺3世に首先住職したと考えられる。後鶴岡(現神明町)の保春寺十一世に列する。 保春寺在職中に總持寺に瑞世をする。

太源派 保春寺 一萬五千五百七十二世 大等和尚 享保二年丁酉四月四日 受業師 應傳和尚 (20世靈感應傳) 嗣法師 報天和尚 羽州之住僧也

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總持寺住山記より

こうして、住山記を見ていくと覚仙様も覚了様同様に應傳様が受業師となられている。 覚仙様の場合もまた、「報天和尚」と言う嗣法師が保春寺世代にも見当たらないし、庄内寺院でも詳しくは今現在不明である。

覚仙様は、保春寺十世大通玄峯の後住として正徳六年(享保元年)四月前後に同寺に晋住したものと考え、その翌年に總持寺に瑞世した。

覚仙様は享保二十年保春寺十一世として、境内に宝篋印塔を建立している。施主は地主宗五郎とされる。(現存する)

そして延享二年縁あって善宝寺に22世として昇住する。 22世としては行状は不明であるが、宝暦元年辛未に退董したとされ、その翌年に要津喝禅が23世に晋住する。

その4年後の宝暦四年甲戌八月十九日に示寂す。退董から示寂までの4年間、善宝寺東堂として何処に隠棲していたのかは不明である。

法嗣者は今の所は不明だが、受業師として白蓮寺鐵獅・東傳寺八世?玉髙海印・東源寺九世・長川寺六世大達是道の3人がいる。

覚仙様の卵塔も歴住世代墓地にひっそりと佇んでいる。
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表 大等仙大和尚之塔 裏 宝暦四年八月十九日入寂

また道号法諱は、善宝寺・寶傳寺では[大等覺仙]としているが、保春寺では[大等籌仙]となっている。

読みは善宝寺では[たいとうかくせん]とお読みしている。

師諱を覺了、性林と号す。

生年月日、生国共に不詳である。

初め善宝寺末寺・浜中村正常院三世に首先住職し、次いで同じ末寺の田川村梅林寺六世となった。 正常院住職時代に、本山總持寺に瑞世する。

太源派正常院 一萬五千三百二十五世 覚了和尚 正徳六申年四月十六日 受業師 應傳和尚 (20世中興靈感應傳) 嗣法師 明山和尚 羽州之住僧也

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總持寺住山記より

受業師は、善宝寺20世應傳大和尚であることが解るが、嗣法師である明山和尚は正常院世代にもいないため良く解らない。

(この時代に明山と号する僧は庄内寺院には数人いるため、よく調べる必要がある)

注)今まで21世覚了様・22世覚仙様については法脈も解らなかったが、住山記によって少なからず應傳様の系統であることがわかった。

正常院・梅林寺時代にはこれと言った功績等はみられない所である。

文三年九月三日先住應傳様が示寂し、それに伴って翌四年に選ばれて21世に昇住した。 在職5年の内大きい業績は不明である

延享元年甲子三月十一日示寂する。

法嗣者は、東傳寺五世・梅林寺七世・保春寺十二世祥山靈瑞の1人である。

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表 性林覚了大和尚

また、正常院では道号法諱「性林學了」とし、梅林寺では「少林覚了」としている。

善宝寺での読みは**[けいりんかくりょう]**と云う。

廿世應傳大和尚(享保八年住職)は、風の神と神通相通ずと伝う。

時に下川村に風邪流行り村人の死する者病に倒れる者数多し。應傳大和尚は寺内に居乍らにして、村人の風邪に罹る者を知れると。

村人、應傳大和尚に風邪を止められん事を願いに寺へ行くと、應傳大和尚は

**「十二月三十一日大晦日の年越しの夜は精進潔斎して神佛に祈願をすべし。能く守らば風邪を止めん」**と云々。

その事により下川村に於いては、三十一日の夜は精進にて年を越すと風邪を引かぬと云われ、又應傳大和尚の示寂後應傳和尚の墓に詣でて、墓の苔を取りて其れを煎じて飲めば風邪に効くとも言伝えられている。

それによって昔は和尚様の墓に詣でる村の人達も居たという。

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苔が風邪に、効くと云われる應傳和尚の墓

されど應傳和尚は一年の最後、神佛或いは先祖にた対しこの感謝の心、及び自己反省新たなる年を迎えるに当たりての心構えをさせん為に、風邪の神よりて村人に方便力を以て教えしものにして、正に対機説法と云ふべきか。

このように昔から應傳大和尚の伝説は伝えられている。

古文書の文面を手を加えて書いているので、

あしからず。

師諱を良乗、時聖と号す。
善宝寺十九世に住した。それ以外
には伝わっていない。
總持寺住山記には、良乗大和尚の
瑞世記録がある。

無端派延命寺 一萬二千百九十二世 (時聖)良乗
受業師(北岸)玄海 嗣法師(海按)指光 元禄十四辛巳歳五月朔日

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總持寺住山記より

良乘大和尚もまた、初めは無端派で延命寺 の僧であると言える。 受業師は庄内の延命寺と付く寺の世代には見えないので、一円の庄内寺院の世代から調べる必要があるが、嗣法師は僧録所総穏寺八 世海按指光で有ることが分かった。

良乘大和尚は他に転住地も無い為、行状を 調べるにも資料が乏しい。

正徳四年七月朔日、十八世慧遠大和尚が示 寂され翌五年に他法なれど、縁有って十九 世に昇住した。伽藍法に依って慧遠大和尚 の法、即ち開山浄椿大和尚以来の法を嗣い だのではないか。

注)確証は得ないが善宝寺では、十世運徹大 和尚以降昇住するに当って、嗣法替えが行 われ即ち伽藍法に依って維持、相続された ものと思われる。

[良乘大和尚と本末争論 ]

善宝寺に入院した良乘大和尚も、特に業績 は無いものの、先住慧遠大和尚が示寂の前 年に起こした、乗慶寺が末寺であるとの訴 状(本末争論)は、昇住してからも決着が付かず、その2年後の享保二年六月六日、改めて、本寺であるはずの余目乘慶寺とその末寺寳護寺は、越前龍澤寺の末寺に非ず善宝寺の末寺であるとして、僧録所総穏寺に訴状を出し、乗慶寺と本末関係を争い、次第に争論は激化していく。翌三年戊戌二月四日、乗慶寺十九世慈音和尚(梵桂)は本末争論に対して、開山以来御簾尾の龍澤寺末寺である旨の返答をする。

享保五年庚子十二月十八日、寺社奉行の裁許が下るが、両寺共に不服たる旨の請書を提出するに及んで、一行に決着せず應傳大和尚迄時は過ぎる事になった。

しかして良乘大和尚は決着を見ずして、享保八年癸卯四月十一日示寂する。

法嗣は、浜中正常院二世頭峯丹石・君佐

月庵雲播?の三人でる。

墓塔は歴住世代墓に其れらしき墓塔はあるが、今の所は不明である。

読み方は[じしょうりょうじょう]と読む。