No.1善宝寺旧本堂の由来 (original) (raw)

f:id:tkdama:20241007081439j:image

現在の善宝寺本堂(感應殿)は昭和三十四年己亥(1958)に起工して、翌三十五年庚子(1960)一月元旦に竣工、開堂落慶式を厳修している。

又、今の庫裏・信徒会館も此時に落慶している。

ここで今回は、現在の本堂再建に至る経緯と旧本堂(法堂)についてスポットを当てていこうと思います。

No.1は、旧本堂の概要と天保の山崩れによる再建について話そうと思います。

「旧本堂の概要」

旧本堂は二十世中興霊感應傳大和尚在職十五年間(享保八年から元文三年)の建築です。

旧本堂は茅葺で屋根の反りなど見事で、美しい物だったと云われていた。
f:id:tkdama:20241007123655j:image

棟梁は、江戸後期から明治期までは名工である大岩川の剱持嘉右衛門藤吉が有名であるが、それ以前は膝元下川村の本間勘蔵家が代々御抱棟梁であったと云われているから、旧本堂も本間勘蔵の手による物だったと推測される。

佇まいも禅寺らしく、正面二間左に寄って玄関があり、それから前庭の石敷は中段の石敷に下り、直角に曲がって八十三段の長い石階段になっていた。(今は96段の階段だが、当時は83段だった)

f:id:tkdama:20241007204012j:image

天保の山崩れ

元録所として壮麗な旧本堂だったが、時に天保八年十二月五日夜、地鳴りと共に龍王殿(当時は龍宮殿)背後より山崩れが起きた。大令方丈・衆僧は大いに驚いて早鐘を鳴らして門前に知らせたのである。門前の村人は我先にと駆け付けたが、皆暗闇の中光景をみて愕然としたと伝えられている。(天保の山崩れには伝説があって別に書きたいと思う)

補足、山崩れは26世大雲祥嶽大和尚の代(寛政元年)にも起こっていて、その時は楼門・坂ノ下裏門等が潰れたと云われている。

天保の山崩れでは、被害として龍宮殿は潰れ本堂に至っては東前方に押し出された形に成っていたという。翌日から修復工事が取り掛かられていたようで、棟梁は長四郎(本間勘蔵)が務めている。当時直ぐ近くにあった傳灯山正法寺三十五世蟠龍玄峯大和尚も見舞いとして駆け付けている。

この天保の山崩れの時の住職が、二十九世大令宗覚大和尚である。

大令方丈は修復費用として、末寺四十一カ寺に費用捻出を頼んでいて、資料によると最高額は鶴岡の龍蔵寺で金・十二両もの大金を献納している。

應傳大和尚の当時から内外の彫刻等が美しかったようだが、山崩れで相当の被害を受けて棟梁の長四郎はかなり苦心したようである。

昭和三十五年の本堂再建に伴う旧本堂解体調査で、軒先や内部天井など内外な相当な修復が加えられていることが分かった。

f:id:tkdama:20241007203227j:image

そして棟梁長四郎を筆頭に再建工事が行われ工事完了は資料を見る限り、

天保四年癸巳の年のうちに再建した事になっている。

が、天保九年戊戌六月に再建寄付者・加茂村の秋野茂右衛門に対して「覺」の証文書が残っている。(原本写)
f:id:tkdama:20241007201839j:image

天保四年と九年の隔たりがありすぎるし、六月十五上棟日となっているので、龍王殿再建本堂等再建には実際6年間はかかっていたものと考える。

又、慈照殿(旧位牌堂)内には龍王殿寄進者の供養牌が祀られている。

次回は旧赤門について紹介したいと思います。