「英英の弱り目、和訳の効き目」再録 (original) (raw)

『英語で英語を読む授業』 (研究社、2011年) を読んで考えたことをまとめようと思って読解関連の書籍をあれこれ読み直しました。
私自身が新任で教壇に立つ際に「読解指導」の拠り所とした本がいくつかあります。
そのうちの一つが、1976年初版で、自分のTOEFL受験のために85年か86年に買った、

もう一つが、1980年に出ていて、私が高3の夏に札幌の洋書店で買った、

訳読ではない「読解」をどう指導するか、という視点を自分が使った教材を吟味することで得ようとしていたわけです。当時は定期試験でも一切、下線部和訳などを出題しないことにこだわっていました。
では、その当時の生徒たちはよく読めるようになったか、というと、教室現場では、AAOの指導が空回りすることが多く、さらなるバージョンアップか、軌道修正かを迫られていたように思います。
初任校での転機は、選択授業で高3の受験「演習」を持った際に、

という実践を続ける中で訪れました。当然、コンペ中の話は日本語になります。
そこで得られた感触は2校目で少し確かなものになりました。高3の英語IIで、

という、生徒が英語で進める中で英語を読む授業をしていました。

そのときに、私の感じたことは、結局、それ以来ずっと感じ続けていることでもあり、以前『英語青年』(2006年10月号、研究社) で私が書いたものと大きな違いはないように思いますので、ここにその全文を再録することにしました。

大学入試で読みの力を試すために英文和訳を出題し続けることが、高校の英語教育、英語授業を歪ませている元凶である、という考え方には懐疑的である。英文理解を試す方法としての和訳は英語教育の世界では敵視されることが多いのだが、高校で英語を教える立場として、一方的に被害を訴える姿勢には疑問を感じる。
和訳を批判する人は、和訳ではなく「英語による言い換え」を英文理解の確認方法として示すのだが、「英語による言い換え」はどこまで有効なのだろうか。
どの言語であれ「意味をそのまま言う・書く」という方法は極めて貧弱である。母語としての日本語での要約や換言を考えてもらえば理解しやすいと思うのだが、意味をそのまま言っている、書いているつもりでも、実際には「つまり」「すなわち」「たとえば」「まるで」など、言い換えやさらなる例示、比喩によって「説明」「詳述」している場合が多い。
英語辞書の定義記述を考えてみても、英和辞典で訳語に置き換えても理解が覚束なかった言葉が、英英辞典を引いて理解できることもあれば、LDCEのように統制された基礎語彙での定義、OALDに見られる語義の定義や用例提示の後のさらなる言い換え、COBUILDで注目された、状況に落とし込んだ説明、World Bookの伝統である簡潔な定義、と学習用一言語辞書であれこれ読んでわからなかったことが、英和辞典を引いて瞬時に腑に落ちるということもある。
概念そのものや、その語が示している人物・事物をまだ知らない初学者ならともかく、固有名詞や学術用語など一定の学習を経ている者にとってはその英語に対応する日本語を想起することによって理解に至っている場合も多い。英英辞典的な言い換えは大学入試の読解問題では脚注としても用いられている。たとえば、慶應義塾大学総合政策学科の2005年の出題では、
Cicero: a Roman orator, politician and philosopher of the first century BC
という注がついているのだが、この注を読んでCiceroが理解できる者は「キケロ」を知っている者ではないのだろうか。であれば、「キケロ」と日本語を加えることで注としての機能を果たすのではないだろうか。換言すれば済む、という単純な問題ではない。
英語による言い換えによって英文の理解を問う方法では、次のような下位区分が思い浮かぶ。
1. 現在読んでいる英語とほぼ等価な同意の英語で意味を記述する
2. 現在読んでいる英語よりも文構造・語彙の易しい英語を用いて、英英辞典的に定義・説明する
3. 現在読んでいる英語よりも、文構造・語彙の易しい英語で要約する
4. 現在読んでいる英語よりも、文構造・語彙の成熟した英語で要約する
読み手の英語力に応じて、2や3は十分習熟が可能だろうが、1, 4は難しい。要約といっても、論文の冒頭につける要約としては4を求めることもあるだろうが、教室現場や試験ではせいぜい3の段階にとどまることが多いのではないか。では、難しい 1 で等価と思しき英語表現を要求する代わりに、等価と思しき日本語表現を要求すれば、それは和訳ということにはならないのだろうか。
英文を日本語に置き換え、さらに日本語として適切な表現を選択したりする読み方の非効率性を時間という物差しで考えるとすれば、英文でうまく換言できなかったり、うまく要約できなかったりする読み手(学習者)にしたところで、「意味は分かっている」のに時間ばかりかかっているのかもしれないのである。結局の所、「理解を理解として」確かめる方法が貧弱であることには変わりがないのではないのか。
試験で、ある英文の理解を確かめたいとしよう。少なくとも次のような状況が想定できる。
5. 日本語に逐一訳さなくとも理解できると読み手(学習者)が思っており、和訳しなくとも実際に理解できている
6. 日本語に逐一訳さなくとも理解できると読み手(学習者)が思っており、和訳しないけれども実際には理解できていない
7. 日本語に逐一訳さなければ理解できないと読み手(学習者)が思っており、和訳した結果理解できている
8. 日本語に逐一訳さなければ理解できないと読み手(学習者)が思っており、和訳したけれども理解できていない
かなり乱暴な分類であると思うが、6.と8.には明らかに問題があることがわかるだろう。結局のところ英文の意味・内容が理解できていないのだから。
英語教育の世界では、和訳はできれば用いることを避けるべき指導技術であり、学習活動であるという前提で語られることが多い。そこで、和訳を否定する、または和訳を超えた読解を志向する「和訳否定派」とでもいうべき人たちは、8.の批判にはたいへん熱心だが、6.の実体解明に関しては、かゆいところに手が届く説明を与えてくれていないようだ。
逐語訳は非効率だとして、文章をより広い文脈でとらえた、選択的な読解こそが、実際的な読みであるとして、「読めなくとも気にすることはない英語表現」の存在を指摘し、逐語訳する学習者を啓蒙したり、慰めたりしてくれる人もいる。しかしながらなぜ、「その部分は読めなくても大勢に影響がない」と言えるのか、なぜ「その部分は主題とは余り関わりのない枝葉の部分である」と言えるのかは教えてくれない。結局のところ、それは「既にその英文が読める力のある人が選択してくれた情報」だけを読んでいることになるのではないのか。「選択的」といいながら、「選択」しているのは当の読み手ではない。部分部分を読みながら常に主題を仮定し、読み進めながらも自らが仮定した主題を修正し続けてその文章としての統一した文脈を確立している読み手だからこそできる「選択」ではないのか。
では、その部分の理解そのものが覚束無い学習者はいつになったら、「統一した主題をつかむためには絶対に読めなければならない英語表現」と「読めなくても気にすることのない英語表現」を識別できるようになるのだろうか。精読といわれる読み方で養おうとする読む力とはそういう識別力ではないのか。「訳読」という呼称で日本語を援用した様々な読み方を十把一絡げに批判するのは的はずれだと考える。

上記、5から8に加えて、さらに、学習者の心理面を考え合わせてみると、
9. 日本語に逐一訳すことは罪悪だと思っている読み手(学習者)が、英語を英語のまま読み、理解できている
10. 日本語に逐一訳すことは罪悪だと思っている読み手(学習者)が、英語を英語のまま読もうとするが理解できていない
というように変数は増え、一般論では片付けにくくなる。特に、9が理想的だと考えている出題者(指導者)に当たった場合に、読み手(学習者)は、英文が自分にとって10の場合はどうすれば、その英文は9へと移行するのか、という学習段階の筋道を併せて求めなければならない。教室現場とはまさにその筋道を浮かび上がらせる場であろう。
ところがこのような状況の改善を図るときの学習活動に目を移してみると、
11. 日本語に逐一訳すことは罪悪だと教えられているので、英語のまま理解できる難易度の英文でしか読解の練習をしない
12. 日本語に逐一訳すことは罪悪だと教えられているので、英文のうち、英語のまま理解できる部分のみを読む練習しかしない
という学習活動に終わってしまうことがある。
昨今、大学入試の長文読解問題に対応するために、「速読」とか「パラグラフリーディング」を謳っている教材が増えているのだが、それらの教材で扱われている英文は、何もパラグラフリーディングといわなくても速く読める難易度の語彙・文構造・論理展開であることが多い。扱う英文の難易度が高く、かつ良質な教材もあるが、中には「各段落の最初と最後の文に線を引き、そこをつなぎ合わせて読む」という「ストラテジー」を示しているだけで、実際に線を引いた英文を「和訳」しながら読ませているに過ぎなかったりするものもある。「和訳」を要求せずとも、不十分な読みが助長されることにはならないだろうか。
出題側、指導側は「まず全体を把握した後、部分の詳細な読みへと移行するtop-down的な読解」を志向しているものの、読み手は表面的な理解に基づき、偶然主題に合致しただけの「トップ・トップ」の読みで正答を得ているだけだとすれば、読みが深まったとはとうてい言えない。これでは和訳、逐語訳を超えたことにはならないだろう。
確かに、和訳が出題されることで、
13. 構文を正確に把握しなければ意味の理解が難しい英文を日本語に訳すことが英語を読むことだと教えられており、自分の英語力を遙かに超える英文ばかりを読み続ける
という学習に終始することにも問題がある。当然、現時点での読み手(学習者)の力量を超えた英文を処理するため、時間がかかる。扱う英文の総量が増やせない。「語義など部分の理解から全体の主題把握へと至るbottom-upの読み」を向上させることが狙いのはずなのに、「ボトム」が「ボトム」のままで、いつまでも「アップ」していかない、という悪循環に陥ることは避けた方がいい。
しかしながら、「トップから適切にダウンしていくように、ボトムから適切にアップしていくように」読みを深め、速めること、その読みの力を測ることが本来望ましいのであり、そのための補助として日本語が有効ならその使用をためらう理由はないだろう。理解のために日本語を援用して読んでいるのであれば、理解の表出として日本語の表現を求めることは全面的に否定されるべきではない。
14. 日本語と英語の対訳教材を読み、必要に応じて構文の解説と類例を学び、理解可能な英文の難易度を上げていく
15. すらすらと読める英文は英語のまま理解し、自分の英語力を超えた英文は日本語訳を頼りに読み進め、自分の英語力との溝を埋める
16. 教師の用意した数種類の英文の要約を吟味し、それにならって英文で要約を書く
など柔軟な取り組みを許容できるのが教室現場の現場たる所以なのだから、大学入試の「和訳」を敵視したり、試験や授業から「日本語の使用」を一切排除することで自らの首を絞めるのではなく、使えるものは全て使って英語力を伸ばすことに尽力すればいいのではないだろうか。

『英語で…』の話に戻ると、その記述のうち、とりわけ「第5章 内容を英語で理解する活動」に物足りなさを感じています。
『英語で…』の第5章、12「『左から右へ読み進める』ための文構造の処理」では、関係詞節による後置修飾の処理に関して

を引いているのですが、竹下では全体で14の技法のうちのひとつ「技法9」として、「接続詞を補う」、「いったん切る」、「砕いてみる」という頭の働かせ方を練習させ、そのために20の用例をあげて解説していることを忘れてはいけないでしょう。さらに、竹下の示す枠組・体系に教室での英語指導に資する「理」があるとすれば、それは竹下が母語による思考の援用により、「英語訳出のための三角形思考法」(pp. 22-26) を追求しているからではないかと思うのです。理解のために日本語を援用することは、ある学習者・読者の英語の習熟度の高低によって肯定されるものではなく、どのレベルの学習者であれ、ある英文を読む際に、英語を英語で理解できる理解度の高低によってこそ肯定されるべきだと思います。

で提起・提示された指導法・指導実践・課題を自分の頭でもう一度考え直し、自分の教室での実作で捉え直す必要性を今、感じています。

本日のBGM: American Without Tears (Elvis Costello)

f:id:tmrowing:20110210110449j:image
f:id:tmrowing:20110210110448j:image
f:id:tmrowing:20110210110446j:image
f:id:tmrowing:20110210110445j:image
f:id:tmrowing:20110210110443j:image
※写真は、上3枚が M.Swanからの抜粋、下2枚がGEDの表紙とGeneral Readingの抜粋

追記:
今回取り上げた『英語で…』に関して、英語教育の住人からの地に足のついた考察として、亘理陽一氏のブログ記事があげられる。自己の実践を踏まえた批判的考察として読む価値の高いものであると思う。

www.watariyoichi.net