諸葛亮死後の蜀漢の政治の流れについて (original) (raw)

Jominian @Jominian

李福は姜維の前任として前監軍領司馬だった。彼は李豊に代わって督江州となった人物。そこを買われたのだろう。政治的にも高い位置を占め、諸葛亮死後は尚書僕射にもなっていた。当初は李福が蒋琬の後を襲う予定だったに違いない。

Jominian @Jominian

北伐を再開するに当たっての、蒋琬の最初の仕事は、バラバラになった諸葛亮軍の再編制。いかにそれを掌握していくかが、独裁者蒋琬の腕の見せ所だったはず

お菓子っ子 @sweets_street

@Jominian 外征を名目に軍権を集中して求心力を高めるというのはありふれた政治手法なので、蔣琬が詔勅が出るようにはたらきかけた面もあるのではないかと思います。蔣琬失脚を目論む勢力が荊州侵攻中止の勅旨を引き出したのも、蔣琬が軍権を集中する口実をなくすためでしょう

お菓子っ子 @sweets_street

@Jominian 諸葛亮の志が北伐にあったことは明らかですが、北伐が彼への権力集中を促した面もあります。李邈の意見もそういう面を表しています。北伐の指揮官=最高権力者という図式なら、失脚させるには北伐をやめさせて、軍権を掌握する名目を奪えばいいんです

お菓子っ子 @sweets_street

@Jominian そのようなことを理解していない俗物も多いでしょうが、国家戦略を達成する必要性は認識していた上で、それが蔣琬や姜維の手で行われるのは嫌だと言う人も多いでしょうね。諸葛亮の薫陶を受けた蜀漢首脳部には、皆思い描いている自分なりの理想の北伐があるでしょうから

お菓子っ子 @sweets_street

@Jominian アレクサンドロスのディアドコイが派手になったのは、アレクサンドロスの帝国の規模が大きかったために、後継者たる将軍や総督の争いのスケールも大きくなったからだと思います。蜀の将軍や太守なら、水面下の暗闘で権力者の首が何回か飛んでおしまいでしょう

Jominian @Jominian

個人的には、李福から姜維への移行がスムーズ過ぎる気がする。政権のNo.3が死んだのに、特に揉める事無く姜維が後を襲うって事は、当時の人々にはそれが順当だと思われてたって事か?或いは蒋エンの独断?尚書僕射を継いだのは姚チュウだが、これも誰の意向なのか?

お菓子っ子 @sweets_street

@Jominian 年齢的な問題か健康的な問題かはわかりませんが、「先は長くない」と見られてて、諸葛亮死後の人事再編成の間隙を埋めるリリーフとして起用されたのではないかと。機能していなかった尚書機能の復活と、中軍掌握を担う人材を選ぶ困難さは容易に想像できます

Jominian @Jominian

実際、五丈原からの撤退の指図はともかくとして、諸葛亮が、自身の亡き後の蜀をどうすべきかを語った相手というのは、記録の上では李福しかいない。諸葛亮死後、李福がNo.3に居たのは、そこんところも理由としてあるんじゃないか?