3-1-1.物理的限界とその帰結(その2) (original) (raw)
3-1-1-2.人間が生み出す「過剰」の原因
なぜ数多くの種類の生物種のなかで唯一人間だけが生態系の全体や地球規模の環境に短期的に大きな影響を与えるような度を越した行動をとるのでしょうか?これの元になっている他の生物種にはない人間固有の性質のようなものが存在しているのでしょうか?
私は大学時代に社会科学を学んだ者の一人として個人や集団としての人間の行動に興味があり、またなぜ人間がある行動を取るのかあるいは取らないのかということに関して今でも相当の興味を持ちアンテナを張り続けています。
これからの話はそのような背景を持つ一人の人間の仮説の一部として耳を傾けてみてください。一部というのはここでは私たちの共通のテーマであるSCMに関連する部分とその説明に必要な関連事項に限定して取り上げるという意味です。
人間はいつから過剰とも言える速度で度を越した量のエネルギーを消費し、天然資源を消尽するようになったのでしょうか?
大気中のCO2の濃度が産業革命を境に急激に増加していると言われているように人間の過剰な行動はどうやら西欧を起点とする近代文明そのものやその価値観や制度と大きく関係しているのではないかと思われるのです。
「近代」という用語はその指し示す範囲は諸説ありますが時代区分としては、広義として封建制度の時代である中世以降の15~16世紀以降から現在までの範囲を表し、狭義として「近世」「近代」「現代」のように分けて表現することもあります。
ここでは「近代」という用語を広義の範囲として捉え、一つの文明として価値観や制度を連続的に共有した時期として使用したいと思います。
では近代文明の価値観とは何でしょうか?
象徴的に表現されているものの一つである1789年のフランス革命におけるいわゆる『フランス人権宣言』の第1条を見てみましょう。
「第1条(自由・権利の平等)
人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。(以下省略)」
人間は生まれながらにして自由と権利というものを誰しも平等に持って生きているというのです。
何と崇高で高邁な思想でしょうか。そしてその当時は、宣言としてわざわざ文面にして残すことが必要だったことからも分かる通り、当たり前ではないことだったということも言えます。
またここで謳われている「自由」「権利」「平等」という抽象的な概念は人間だけが持っている固有のものだと考えられます。
生物にも生きる「権利」はあるという反論もありそうですが、それはあくまでも人間から見て他の生物にも権利があると認めるだけであって、当事者である生物たちは自分たちにも生きる権利があると主張しているわけではなく、単に生きたいという本能があるだけだと思います。
明治維新前の日本には前述のように自由という概念はなかったと言われていますが、同じように権利という概念もなかったということなので、近代文明の圏外に暮らしている人間にもこれらの概念は存在していなかったと言えるでしょう。
しかしこれらの価値観はある意味で現時点では「理想」であり目指すべき姿の一つとしては今現在でも有効ではありますが現実世界には多くの例外が満ち溢れています。
私たちの属している社会のあらゆる単位で私たちは、時と場合によってこの理想像の適用範囲や適用の仕方を自分たちの都合よく使い分けています。
自分たちと同じものとしての「内」とそれ以外の「外」を区分して、外に属する人たちを自由や権利が平等に分け与えられている対象から外してしまうことによっていとも簡単にこの理想像の適用から除外してしまいます。
外してしまえば彼らは私たちと同じような人間ではないということにできますので、どのような非人道的な扱いも少なくとも消極的、間接的には認めることができるということになります。
またそもそも近代文明圏に属していない社会にはそれぞれの歴史的、文化的な背景や理由によって、様々なマイノリティ集団の基本的な権利を当たり前のこととして誰も疑うこともなく制限している場合があります。これは実は私たちが属している近代文明の価値観がどの時代のどの社会に属しているかにかかわらず常に「正しい」とは言い切れない以上は、どちらがどちらかに取って代わることが「正義」だとは言えない問題です。近代文明の価値観がそれ以外の「非近代的な」社会に受け入れられることが歴史的必然でも道義的正しさでも何でもないということです。
現在の日本で暮らしている私たちのようなフツウの人間でさえ、そのような先入観や常識をベースとした相手の価値観をゼロにして近代文明の価値観に100%移行させようとする考えがたとえ意識下だとしても存在しているのではないかと思います。
私たちと同じような価値観と生活習慣を持っていない人間の集団を無意識にでも「遅れている」のだから「追いついてくるべき」だと感じるのはその典型です。
だからこそ今この時代に「ダイバーシティ」というマイノリティを尊重しその権利を守ろうとする意識的な取り組みが始まっているという文脈でとらえるべきだと思います。
とはいえ現実問題として、ゼロから100ということではなく部分的にはこの近代文明の価値観は世界中に徐々に拡散しつつあるということも事実ではないかと考えられます。
たとえば政治体制としては「権威主義」と呼ばれるような国家が経済の面では規制を緩和し市場経済を導入することで目覚ましい経済発展を遂げたり、伝統的な因習として存続してきた性差別ともいえる制度の一部分を緩和したりする事例が散見されるようになってきました。
それらの動きはインターネットを介した国境を越えた動画を中心とした様々な種類の情報へのアクセスが一般化して、国家のコントロールを越えて一般の人たちの「知る権利」の平等化が進行していることも要因の一つになっていると思われます。
なかでも近代文明の理想的な価値観でもある「基本的な人権」への関心と欲求がこれまでそれが制限されていたような国や地域にも広がりつつあるという事実が、人間による過剰の拡大に影響しているのではないかと考えられます。